何気なく
どんなものでも、「作る」ことがないといけない。
作ることが今ほど前面にでていなくて
あることが当たり前だったころ
靴下を「作る」こと「作りだすこと」を知ってほしかった。
どんな訳か両親は靴下を作る事を全部知っていたんだ
ものすごいデータ量を二人の頭の中、手の中にしまい込んでいた。
私が最近感じるのは たぶん二人はなにか嫌な事が「作る」というなかで起きたのだろう
データを残さなかったのはそのせいかなと思った。
今じゃ考えられないような事があったんだろうな。。
私が作る靴下は、父の記憶と母の手の中にあったモノをカタチにしているだけで
ただ単に「靴下」なんだ。
靴下を作る、私が作るくつしたは普通のくつした。
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