昨日、たまたま帰って夕刊を見たら、こんなコラムを見つけました。
いい文章なので、忘れないようにブログに記しておきます。
「三谷幸喜のありふれた生活」より抜粋
最後の三週間は、思いだすだけでも辛い日々だった。
立てなくなったとびを抱え、おしっこをさせに連れて行く。
それは、元気に公園を走り回っていたとびの姿とは、あまりにかけ離れていた。
だがおしっこをしながら、バスルームの鏡越しにじっと僕を見つめていた、
あの頃のとびの視線は今も忘れられない。
それは、とびと自分の心がひとつになった瞬間だったような気がする。
とびがいなくなって変わったこと。
十三年間続いていた散歩の習慣がなくなり、僕はちょっと太った。
先日、とびと毎日歩いたコースを辿ってみた。
とびを偲んで、彼が散歩の時につけていたリードを手に持ちながら、
道行く人に「危険な男」と誤解される可能性は十分にあったが、そんなことは言ってられない。
どうしてもとびともう一度歩いてみたかったのだ。
見えないとびとの散歩。とびが好きだった道をいつものように歩く。
とびが必ずおしっこをする場所で立ち止まり、とびがよく食べていた雑草の前に来ると、
見えないとびが食べ終わるのをじっと待った。
しかし人間の創造力と集中力には限界があった。
しばらく歩いていると、とびが僕の左右どっち側を歩いているのか、よく分からなくなった。
とびが見えていた時には絶対にありえないことだ。
後半はいつもの一人散歩になった。
いつも歩いていた道が、えらく遠く感じた。
並んで歩いていた時は、まったく考えもしなかったが、一時間の散歩がやけに退屈だった。
別にとびと会話しながら歩いていたわけではないのだが。
共感しました。亡くしたら、たぶん、こんな感じなんでしょうね。
これは、今日の散歩風景。
かけがいのない時間です。
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