今行ってる病院は保険の関係で夏の終わり頃までしか通えない
介護保険でのリハビリ受けられる施設をケアマネさんとココ数週間探しては問い合わせて見学を繰り返していた
そしてやっと、あたしの求める内容のリハビリ施設に辿り着いた✨
いわゆる広尾の日赤ってヤツ
御贔屓の方は知ってるよね
何か複雑だけど高レベルのリハビリ出来るようだし、まずはあたしが元気にならねば( ̄^ ̄ゞ
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御贔屓の方は知ってるよね
何か複雑だけど高レベルのリハビリ出来るようだし、まずはあたしが元気にならねば( ̄^ ̄ゞ
茨城方面に帰る人と神奈川方面に帰る人でごった返しになってるホーム
そんな人混みで思うのは
この町で呑んでたんだよねー
んもぉ、そんな事ばっか考えてる
凄い遠い人だけど縁があれば会える
何がしかの形でお目にかかる事が出来ると信じてる
そう思うと脚の痛みにも耐えられるし毎日が頑張れる
今、目の前の事をひとつひとつ大事にして過ごす
そうしたら、きっと想いも願いも叶う
息子が不在なので御夕飯はCafe飯
何時にも増してマイペースな生活
何時、何処に居ても今は頭の中お花畑
生きる義務を与えられてしまっている今、何を考え誰を想って時間を過ごしているんだろう
生きる事を辞める権利を奪われてしまっている今、何を考え誰を想って時間を過ごしているんだろう
もしかしたら、もう梨園には戻らないのかも知れない
舞台で宙で舞う姿を拝見するのは叶わないのかも知れない
これは、あたしのエゴだけど生きて欲しい
また舞台に立って欲しい
そんな事ばかり考えている
梅雨時期〜晩夏迄はこれっ↓↓↓
何時も行く御香屋さんに言わせると、これら邪道なんだけど、あたしは蒸し暑い今頃から猛暑は、これらで乗り切る
特にグレープフルーツの香りは飲んでる薬の為、禁忌なのでせめてもの自分への慰め
御香の香りに願いと祈りを込めて...
あれは犯罪じゃない
意志を貫いただけだ
あたしは好きだから
信じる
とあるコラムを読んだ
今ひとつ繋がらない...
線にならない
点が氾濫してる
あれ以来ずっとそう思ってたんだけど頭の中で点が少し繋がって線になって来た
中車さん位メンタル強かったらなんて書かれてた時あったけど
もしかしたら中車さん以上のメンタルなのではないだろうか?
親子3人かなり強い意志があったのではないかと思えて来た
それを貫いた...
バラエティなんかの受け答え聞いてると凄く頭切れる人だなって思う
そして自分の信念は曲げず強固に実行
もしかしたら、もう表舞台で御見掛けするのは難しいのかも知れない
寂しいな
悲しいな
澤瀉屋って、あたしはあんまり分かってなくて色々、動画みたりしてる
屋号毎にカラーってあるんだなーって思う
そして、そのカラーが好きってなると、そこの御贔屓になってくんだね、きっと
中村屋と澤瀉屋はカラーが似てるから、あたしの気持ちが移行していけるのかも知れない
日々、澤瀉屋三妹のあたしが検索で見つけて心強く持てそうと思ったコラムを以下抜粋↓↓↓
澤瀉屋一座の芝居で、忘れられない光景がある。
1997年7月、歌舞伎座の「當世流小栗判官」。先代市川猿之助(現・市川猿翁)演じる小栗判官が、馬にまたがったまま狭い碁盤の上に乗ってみせる。前半の見せ場である。馬の脚は2人の人間が演じており、ワイヤーで釣って、後ろ足だけで碁盤の上に立つのだ。
ところが、碁盤の上に乗ろうとした瞬間、馬の体勢が崩れて、猿之助が落馬した。かなりの高さである。客席から「キャッ」という女性の悲鳴があがった(あとで聞いたら、馬の体内の太紐が切れたのだそうだ)。
そのとき、周囲にいた役者たち――故・片岡芦燕や坂東彌十郎、市川右近(現・右團次)たちが、一瞬のうちに駆け寄って落ちていく猿之助を支えた。そのおかげで、猿之助は床面に直接叩きつけられるような落ち方にはならなかった。見事な即応態勢だった。猿之助は客席に背を向けて正座し、低い声で「幕、幕」と指示を出した。
すぐに幕が引かれた。客席は「大けがをしたのでは」「このまま休演か」と騒然となった。しかし、特にアナウンスもないまま、たしか5分か10分で幕が開いたと思う。
碁盤に乗る直前の場面から、舞台は平然と再開した。そのとき猿之助は馬(2人の足役)に向かって、「連日の疲れのせいか先ほどは落鉄いたしたが、今度はうまくやれよ」というようなアドリブで声をかけた。馬は(了解しました)といった仕草でうなずいている。
ものすごい拍手と声援、大向こう。ツケ打ちがひときわ力強く響くなか、今度は見事に碁盤乗りを果たし、馬の前足が高く上がる。猿之助は馬上で扇子を広げて見得を切った。
約2000人で満席の客席は興奮の頂点に達した。こんな芝居は観たことがなかった。
このときの澤瀉屋一座の結束力、また、緊急事態に対する臨機応変ぶりは実に感動的だった。これからもずっと彼ら、澤瀉屋一座の舞台を観ていきたいと、心の底から思ったものだ。
この碁盤乗りの場は、舞台後方に、悪役・横山大膳がいた。演じていたのが、猿之助の弟・市川段四郎だった。また、物語の後段で小栗判官に祟る娘・お駒を演じていたのが当時22歳の市川亀治郎――段四郎の息子にして当代猿之助である。
あれから四半世紀の時が流れた。予想もしない形で段四郎はこの世を去った。当代猿之助は自殺をはかった。伯父の猿翁(先代猿之助)は体調不良で舞台復帰はかなわないままだ。
いよいよ澤瀉屋一座の落日かと思われた。
しかし、舞台は続いている。明治座「市川猿之助奮闘歌舞伎公演」は、昼の部を2回休演しただけだ。夜の部に至っては1回も休演することなく、28日まで続いている。要するに昼夜公演が繋がらなかったは、たった1日半だったのだ。
いったい、このパワー、臨機応変の対応力は、どこから来ているのだろうか。
歌舞伎は、新劇などに比して、公演回数も期間も桁違いに多くて長い。生身の人間がこなす以上、トラブルに見舞われる比率も高い。澤瀉屋一座も例外ではなかった。
1982年7月の歌舞伎座。先代猿之助が、舞台上で足の指を骨折。約1週間、休演した。この月は昼夜奮闘公演で、特に夜の部は、大作「天竺徳兵衛新噺」の復活初演だった。早替わりはもちろん、驚愕の“空中つづら抜け”もあった。しかしすぐに、弟・市川段四郎が代演して乗り切った。本来の段四郎の役もほかの役者が演じ、澤瀉屋一座の層の厚さが感じられた。
2003年11月の博多座公演も危機に見舞われた。藤間紫主演、澤瀉屋一座総動員の超大作「西太后」である。演出もかねる先代猿之助は、準主役(恭親王)だった。
17日の舞台で、猿之助の呂律がうまくまわらなかった。終演後、診察を受けたら脳梗塞と診断され、そのまま緊急入院(結局この日が、先代猿之助の最後の本格舞台となった)。
翌日から、猿之助の恭親王は、一番弟子ともいえる市川右近(現・右團次)が代演した。だが問題は、それまで右近が演じていた光緒帝役だった。重要な役だが、適任の代役がいなかった。このとき抜擢されたのが市川喜猿だった。当時まだ名題下だったが、見事にこなして話題となった。名題下の役者でも、突然の大役がこなせる――このときも澤瀉屋の対応力が証明された。
トラブルは当代猿之助になっても続いた。
2017年10〜11月の新橋演舞場、スーパー歌舞伎II「ワンピース」。10月9日、猿之助が花道のセリで負傷し、左腕骨折。すぐに代役を尾上右近がつとめ、坂東新悟や中村隼人も配役変更に対応した。このときは「どんなに大きな荒波が押し寄せても、みんなで乗り越えてまいります」のセリフが客席をわかせた。
もともと澤瀉屋一座は長期公演が多いので、先代猿之助のころから、時折、主要役を交代で演じるシステムを取り入れていた。このときも、交代出演システムが見事に機能した。
だが、いくらなんでも、昨年8月は、誰もが公演休止か演目変更だろうと思った。
歌舞伎座の「弥次喜多流離譚」。市川染五郎&市川團子の美少年コンビ主演が話題となった。ともに若者と娘役の2役早替わりと、宙乗りがある。それが、2人ともコロナ感染。
このときも、猿之助はアッと驚く奇策で、休演1回で見事に再開させた。なんと、美少年2人を、一座のベテラン4人で演じ分けたのである。團子(18)の2役は、中村隼人(28)と、娘役:市川笑也(63)が。染五郎(17)の2役は、市川猿弥(55)と、娘役:市川笑三郎(52)が(年齢は当時)。
中村隼人はスラリとした美青年だから團子の代役にふさわしい。娘役もベテラン女形による代役だからわかる。驚いたのは市川猿弥の起用だった。失礼ながら、年齢的にも容姿的にも、どう見ても染五郎の代役とは信じられなかった。荒事やコミカルな役が得意な役者である。
こんな澤瀉屋の芝居はもう観られないと思い、二度目の鑑賞に行ってみた。
その場の幕が開いた。客席は大爆笑だった。あの猿弥が白塗りに金髪、イケメン暴走族風の衣装ですまして立っている。しかも、いかにも染五郎っぽく演じている。まじめにやればやるほど面白い。踊りの場面では、見事に「ウエスト・サイド・ストーリー」のパロディ・ダンスをこなした。意外と身軽ではないか! 風船をもっての宙乗りも実に楽しそうだった。観ているほうも幸せな気分になった。
よく「歌舞伎役者は、演技や踊りの基礎ができているし、子供のころから同じ演目をやってるから、どんな代役でもすぐできる」という人がいる。たしかにそうかもしれない。
だが澤瀉屋の演目は、ほぼすべてが「新作初演」である。
たとえばいま話題の明治座公演。昼の部「不死鳥よ波濤を越えて」は、宝塚レビューが原案である(1973年の甲にしき退団公演)。1979年に初演されたあと、今回まで一度も上演されていない。事実上の初演だ。しかも歌唱がある、一種のミュージカルである。この主役を、市川團子が休演2回の間に稽古してこなしたのだ。
夜の部「御贔屓繋馬」は、今回で四演目の人気作だが、初演時は5時間の超大作だった。それを今回は休憩含めて3時間に圧縮改訂したうえ、前回から約30年ぶりの上演なので、やはり新作も同然だった。
こちらは、これまた中村隼人が休演なしの代役でつないだが、千秋楽で主演を演じる予定だったので、ある程度、準備ができていたと思われる。これも先述の「交代出演システム」が機能したといえよう。
先代猿之助は1984年に『猿之助の歌舞伎講座』(新潮社/とんぼの本)を上梓している。宙乗りや早替わり、舞台機構や女形の見せ方などを、舞台裏写真をふんだんに使って明かした、ファン垂涎の解説書である。
その後、スーパー歌舞伎が始まったので、増補改訂版がつくれないかとの企画がもちあがった(残念ながら、ご本人の病気などもあり実現しなかった)。そのとき、編集者が雑談の流れで「役者さんは、急の代役のとき、どう対応されるんですか」と聞いた。すると、
「うち(澤瀉屋)は、稽古の分量がちがうので、自然と、ほかの役まで(身体に)入っちゃうんですよ。特に復活初演のときは、最後の数日間は、ほとんど全員、楽屋に泊まり込みです。立ち回りも一見複雑に見えますが、あれは振付けた踊りですから、これもすぐにできます」と、サラリと語っていたそうだ。
今回の明治座公演プログラムでも、ベテラン市川門之助が「猿翁さんが毎年四月に明治座で公演をしていた時には、いつもお稽古が深夜もしくは早朝までかかっていました」と思い出を綴っている。
名作狂言「菅原伝授手習鑑」に、こんな詞章がある――「上根(才能)と稽古と好きと三つのうち、好きこそ物の上手とは、芸能修業教えの金言」。
だが、猿之助二代が率いた澤瀉屋一座の場合は、この三つのすべてが金言だとしか思えない。でなければ、いままでの緊急事態をすべて乗り切るなど、とうていできなかっただろう。
今後の澤瀉屋一座がどうなるのかは不明だが、この対応力を生かして、ぜひ先代以来の“猿之助歌舞伎”をつないでほしいと、すべてのファンが願っているはずだ。
https://youtu.be/fm-Pdvr-Q1M
この仕草が泣くほど好き
好みはそれぞれだけど故勘三郎さんの女形の方が上手いってコメントを見た
あたしは中村屋はガチで何度も舞台を観てる
どっちが良い悪いではなく好みの問題だと思う
第一キャリアも屋号も違うんだから比較自体がナンセンス
そして今、最大に思う事
これだけの素晴らしい踊り出来る方が悪い事して総てを、なし崩しにするとは到底思えない
澤瀉屋は市川猿之助もとい喜熨斗孝彦さんは永遠だ
中村屋、高麗屋、大和屋、成田屋etc
色々、屋号はあれど中でも澤瀉屋は学の澤瀉屋と言われてる
先代切っての学歴から始まり...
中車さんは暁星→東大卒
4代目猿之助さんはやはり暁星→慶応卒
團子ちゃんは現役青山学院大学
標準語すら怪しい、あたしはフランス語での口上なんて
(。-∀-) ファー
これ程の才能を摘んでしまうのって...
やらかしたんだからしょうがねーって言う人もいるだろう
でも、それ誰も見てないよね?
ネットのニュースで視て言ってるだけだよね?
あたしは絶対×2信じてる
あたしごとき心配に及ばずなのは分かってるけど、でも大丈夫かなーって凄く思ってた
でも何と!!!ホボ完売ではないか.*・゚ .゚・*.
午前の部が始まる11:00不安と心配で心の臓が飛び出そうだった
長い興行は始まったばかり
大成功を納められますよう日々、祈らせて頂きます
MOZUで初お見掛けして以来、気になる役者さんℓσνє
自分の事だけでは済まない
團子君の事
そして澤瀉屋と言う看板
きっとメンタル強いから乗り越えられる
いよいよ今日が初日
成功陰ながら祈らせて頂きます
澤瀉屋よ永遠なれ