同級生3年3組、田端歳文くんから荒川政吉くん(まっさん)を介しての懐かしい写真を紹介します。
筑豊炭田(香春町)で育った我々の心のふるさと勾金中学校(学び舎)が心のどこかでしかなかった記憶を田端君によって原風景として蘇りました!
筑豊炭田(香春町)で育った我々の心のふるさと勾金中学校(学び舎)が心のどこかでしかなかった記憶を田端君によって原風景として蘇りました!
写真提供:田端君ありがとう<m(__)m>
第二豊州炭鉱のボタ山は当時生きてましたね。と言うのも炭鉱・坑内で掘った石炭のボタをワイヤロープで巻き上げてボタ山のてっぺんからドドドーパラパラーとボタをトロッコから落としていたのを覚えてますか?昭和40年~43年頃あの光景は日常茶飯時でした。ボタ山は日々成長をし続けてました。その後昭和48年頃第二豊州炭鉱閉山。
遠く左に見えているボタ山は三井五坑のボタ山です。周辺には炭住(長屋)そして炭鉱夫専用の銭湯、原竹布団店、なぎの精肉店などがありました。
昭和34~35年ごろ父親の自転車オートバイの後ろにしがみつきながら銭湯に入りに行ったのを覚えております。
昭和34~35年ごろ父親の自転車オートバイの後ろにしがみつきながら銭湯に入りに行ったのを覚えております。
仕事帰りの筋骨隆々のおいちゃんたちがおでこと顔全体に石炭とボタのススで眼だけをぎょろぎょろしながら気持ちよく湯船につかっていました。
銭湯から出ると炭住長屋の真空管ラジオだったでしょう春日八郎の歌が♪~流れておりました。
銭湯のすぐそばに上清炭鉱(かみきよたんこう)の坑口がありました。坑口を覗くと入り口は薄暗くトロッコの線路伝いの先は急こう配で次第に真っ暗闇に包まれて、子供心に怖い、恐怖心さえ感じました。我々の親世代のおいちゃんたちは命がけで石炭掘る仕事しているのだと思うと・・・・子供でしたがジーンとくるものが・・・・。
我々が小学生のころは小倉方面、行橋方面に行くには山を越える必要がありました。そうです。峠道の七曲りでした。当時は舗装されておらず、がたがた道をバスでガタゴトと・・・
その後、日本高度経済成長とともに道路新設と拡幅工事が進んでバイパスも整備され、小倉、行橋に行くのも便利になりました。
50年以上の歳月は風景もすっかり変えてしまいました。時代の移り変わりなのだから仕方ないのかもしれません。
古き良き日本が懐かしく思い出される今日この頃です。
田端君、まっさん、懐かしい写真を本当にありがとう。
※炭住、銭湯、ボタ山風景は3年2組の遠矢正法君の絵でも紹介しております。
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まっさんお疲れサマー。
おじんのこんなしゃれ誰にも受けないかな?
同級生皆さんのコメント待ってますよー(^^)/