勾金中学校1968卒業生ブログ

コロナに負けないで生き抜いている地元田川の同級生 海外 日本各地の皆さん元気ですか!負けたらいかん。

香春町立勾金中学校校歌♪~ (昭和48年の写真)を背景にユーチューブにて公開。

2020-09-14 10:32:31 | 日記
荒川政吉君(まっさん)よりユーチューブ画像届きましたので公開します!

この写真をパソコンで拡大してみると運動場(ground・グラウンド)に部活動をしている生徒が数名、そして校舎の両脇にセーラー服の女生徒(夏服)が鞄を片手に下校しているのが見て取れますね。
昭和48年の写真に写っている(生徒)は、我々より5~6年くらい後輩だと思われます。

同級生の皆さんは気づきましたでしょうか?そうです昭和43~47年頃グラウンドをブルドーザーで削り取っていたのを覚えております。
(当時groundは北側が低く、南北に傾斜していた。高低差約1.5m)

運動場の傾斜を重機で整備した跡(南北傾斜を水平に均す工事)校舎側に地層の断面がはっきり写っております。
(小関裕而作曲・オリンピックマーチの伴奏♪で全校生徒で行進した運動場です!)
南北に1.5m以上の高低差があったんですねぇ、秋季大運動会で走っていた時には気付きませんでした。

更に時代は進み・・・
旧校舎周辺の雑木林と第二豊州炭鉱の事務所から勾金中学校へと続く道、(ボタを均した様な道)丘もレンコン畑も、大きなボタ山も跡形もありません。すべてが改修・新設され、道路、校舎、運動場、香春町総合運動公園等々に生まれ変わったのであります。

更に々に時代は進み・・・現在では、
香春町の人口減少に伴い、次世代の学校教育・現場も劇的に変わりつつあります。
ふるさと香春町がこんな形で変わって行くのも複雑な気持ちですな。
どんなに変わろうとも、どんなに遠く離れていようとも、
好きです!香春町ですばい!
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古関裕而の世界
(紺碧の空)胸が熱くなるような感動を覚えたユーチューブを拝借いたしました・・・
古関裕而の世界,素晴らしいの一言ですな,天才! 敬服いたします。


昭和48年 勾金中学校周辺の懐かしい風景。

2020-09-10 10:44:30 | 日記

同級生3年3組、田端歳文くんから荒川政吉くん(まっさん)を介しての懐かしい写真を紹介します。
筑豊炭田(香春町)で育った我々の心のふるさと勾金中学校(学び舎)が心のどこかでしかなかった記憶を田端君によって原風景として蘇りました!
写真提供:田端君ありがとう<m(__)m>

第二豊州炭鉱のボタ山は当時生きてましたね。と言うのも炭鉱・坑内で掘った石炭のボタをワイヤロープで巻き上げてボタ山のてっぺんからドドドーパラパラーとボタをトロッコから落としていたのを覚えてますか?昭和40年~43年頃あの光景は日常茶飯時でした。ボタ山は日々成長をし続けてました。その後昭和48年頃第二豊州炭鉱閉山。

遠く左に見えているボタ山は三井五坑のボタ山です。周辺には炭住(長屋)そして炭鉱夫専用の銭湯、原竹布団店、なぎの精肉店などがありました。
昭和34~35年ごろ父親の自転車オートバイの後ろにしがみつきながら銭湯に入りに行ったのを覚えております。
仕事帰りの筋骨隆々のおいちゃんたちがおでこと顔全体に石炭とボタのススで眼だけをぎょろぎょろしながら気持ちよく湯船につかっていました。
銭湯から出ると炭住長屋の真空管ラジオだったでしょう春日八郎の歌が♪~流れておりました。

銭湯のすぐそばに上清炭鉱(かみきよたんこう)の坑口がありました。坑口を覗くと入り口は薄暗くトロッコの線路伝いの先は急こう配で次第に真っ暗闇に包まれて、子供心に怖い、恐怖心さえ感じました。我々の親世代のおいちゃんたちは命がけで石炭掘る仕事しているのだと思うと・・・・子供でしたがジーンとくるものが・・・・。

我々が小学生のころは小倉方面、行橋方面に行くには山を越える必要がありました。そうです。峠道の七曲りでした。当時は舗装されておらず、がたがた道をバスでガタゴトと・・・
その後、日本高度経済成長とともに道路新設と拡幅工事が進んでバイパスも整備され、小倉、行橋に行くのも便利になりました。
50年以上の歳月は風景もすっかり変えてしまいました。時代の移り変わりなのだから仕方ないのかもしれません。
古き良き日本が懐かしく思い出される今日この頃です。
田端君、まっさん、懐かしい写真を本当にありがとう。

※炭住、銭湯、ボタ山風景は3年2組の遠矢正法君の絵でも紹介しております。
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