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フラメンコの独自性に気づいたの巻

もう大分前ですが、NHKのある番組で、禅寺の僧侶、玄侑宗久さんがおっしゃった一言が心に残っています。「繰り返すことで“無意識”になって“自然と”身についてしまう──それが芸事。それはとても宗教的。」

意識しないでやれるようになるまで繰り返しやるのが芸事のお稽古。
芝居もフラメンコもそこは同じかと思います。


ただ、本番は、何かが違う。


それは何だろう──とずっと考えてました。


芝居の稽古は「役づくり」だから、本番は、舞台に一歩出てしまえば緊張なんて忘れて、その“役”として生きています。

フラメンコはその人そのもの=「素」が本番に必ず出るみたいなんです。

カンテさん、ギターさんと一緒につくり上げていくものだから、ある意味真っさらな素の状態で臨まなければ、その瞬間一体化できないんじゃないかしら。

私なんてまだまだそこまでいけてなく、どこかしら役を演じている感覚で踊っているところがある。だから中途半端なんです。


もなみ先生のバイレは、同じヌメロを何回か見ていますが、いつも違って見えます。
そのときのギターさん、カンテさんとのやりとりの中で違ってくるのも当然でしょうが、その時々の踊り手の心情がいつも同じではない……というのもあるんでしょうね。

群舞にしても、同じ曲、同じ振付なのに踊る人が変われば全く違うように思えます。

先生の師匠のラファエルが去年エストレーヤで踊ったアレグリがものすごかったというのを何回か書きましたが、あの日、ラファは日本滞在最後のライブでした。思えばあのアレグリは、そんなラファのいろんな思いが渦巻いて生み出された瞬間だったんだろうなと。。


だから私は、大きい舞台でつくられるフラメンコより、こじんまりとしたタブラオの方が好きです。

その人そのもの、その時の心情が出る(隠せない…むしろ隠さない)フラメンコ。
もともと、虐げられた人々の内なる叫びそのものだったわけですからね。
感性をめいっぱい見開いて、素の自分をさらけ出して──
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