話題は先取りするものだが、遅れ気味な日記を書くあたり、
人生においても置いてきぼり感満載だったり・・・
そのうち、大雪が降る中、台風の話題なんぞ持ち出しそうで怖い今日この頃。
ってことはさておき。
終戦記念日を経て、戦争の傷跡について・・・
最近思ったことというよりは、自分が「なんとか四半世紀生きた!」
とか言ってたころの話題なんだが・・・
終戦60周年のその年、私は長崎にいた。
長崎といえば、あの『ヒロシマ、ナガサキ』のナガサキ。
終戦の年の8月9日、原爆が投下された街だ。
私は大分出身で、しかも厳選されたド田舎といっても過言ではないほどの過疎地で、
「兵隊となった祖父が北の国では捕虜となり、酷い目に遭っていた」
というようなことは耳にしたことがあっても、一般人の被害というものには疎かった。
どこかの校舎に爆弾が落とされ、ひとり命を落とした人物の像が存在するくらい、
空襲の被害が少なかったらしい。
そんなわけで、長崎に居たその年、原爆被害がいったいどれほどのものかという関心があり、
そういった番組の特集も多かったため、真剣に見入っていた。
閃光のあと、激しい衝撃が走り、あっという間に街は炎に包まれ、地獄と化した。
ひとことで言うとそうなんだが、問題はその瞬間じゃなくて、その後、
苦しみながら生きてきた人たちの壮絶な人生が、肝なのだと思う。
「多くの尊い命が奪われた」・・・ただ、そんなことを言いたいだけじゃない。
あの時代、あらゆる場所で死に行く人はいたのだから・・・
原爆によって、原爆症などの後遺症や傷を負わせられながらも生きてきた人たちは、
肉体的苦痛はもちろん、それよりも重い、精神的苦痛を味わってきた。
特に理不尽な『差別』にはずっと苦しめられてきたという。
爆心地に近い場所で被爆した人間は、結婚にも影響した。
もう少し離れた場所で被爆したことにして、嫁に行く人も多くいたという。
ひどい火傷を負ってしまった人は、銭湯へ行くことも許されなかったらしい。
まるで伝染病のような扱いだった。
そういう特集の類を観た私は
「自分が悪いわけじゃないのに、そんな目に遭わなければならないだなんて・・・」
ひどくいたたまれない気持ちになったので、
それを「生まれも育ちも長崎市」 の友人たちに話すと・・・
「ああ……そういうのっていい加減うんざりするよ。ずっと聴かされてるとね」
という、意外な答えが返ってきたのだ。
いや、義務教育のころから、平和を推進する街で育っている人たちが
そういう風に言うなんて思ってもみなかった。
「え? そうなん?」
意外に感じている私に、彼女たちは頷いた。
「実際被害者の話って、とてもひどい目に遭いました。辛かったです。ばっかりなんだもん。
それしかないの?って感じ」
「暗くなる話題だから、もう聞きたくないって人いっぱいいるし」
「うちのばあちゃんなんか、(原爆被害者だけど)触れてほしくないっていってる」
「せっかく忘れた辛い記憶を掘り起こしてほしくないって人も多いよ?」
・・・ということらしい。
実際、県内の放送局には「もう、原爆の特集の放送はやめてもらいたい」という
高齢者の苦情(?)が結構寄せられていたとか。
彼女らの話を聞いて、なんとなく「被爆体験とか、もういいよ」という人たちの気持ちは分かった。
戦後、いったいいつから、平和教育などの一環として、
体験を語ってもらうことを実施しはじめたのかは分からない。
でも、誰かに語るまでは被爆者の方々も理解を得られずに苦しかったんじゃないかと思う。
もしくは、思い出したくないけれど、勇気を持って話してみましたという人もいる。
「われわれの苦しみを理解してほしい、と二度とこういった犠牲者を出してはならぬ!」
という強い想い・・・
語る側、聞く側・・・と、どうにもこの温度差というものが、奇妙に感じられるのだ。
私はたまたま他県の人間だったため、知らなかったところを改めて教えてもらった気がして
真剣に聞き入ったが、これが毎年毎年否応もなく聞かされていたら、
どうだったか分からない。
何を行うにしても賛否両論があることを思えば、そんなもんかもしれないが・・・
もしかしたら、原爆症の認定を貰うため、必死になってる人たちが興ざめさせて
しまうところもあるのかもしれないし・・・
平和教育や平和活動にも、もう一段工夫が必要なんではないかと、
そんな風に少し思ってしまった夏の日。
人生においても置いてきぼり感満載だったり・・・
そのうち、大雪が降る中、台風の話題なんぞ持ち出しそうで怖い今日この頃。
ってことはさておき。
終戦記念日を経て、戦争の傷跡について・・・
最近思ったことというよりは、自分が「なんとか四半世紀生きた!」
とか言ってたころの話題なんだが・・・
終戦60周年のその年、私は長崎にいた。
長崎といえば、あの『ヒロシマ、ナガサキ』のナガサキ。
終戦の年の8月9日、原爆が投下された街だ。
私は大分出身で、しかも厳選されたド田舎といっても過言ではないほどの過疎地で、
「兵隊となった祖父が北の国では捕虜となり、酷い目に遭っていた」
というようなことは耳にしたことがあっても、一般人の被害というものには疎かった。
どこかの校舎に爆弾が落とされ、ひとり命を落とした人物の像が存在するくらい、
空襲の被害が少なかったらしい。
そんなわけで、長崎に居たその年、原爆被害がいったいどれほどのものかという関心があり、
そういった番組の特集も多かったため、真剣に見入っていた。
閃光のあと、激しい衝撃が走り、あっという間に街は炎に包まれ、地獄と化した。
ひとことで言うとそうなんだが、問題はその瞬間じゃなくて、その後、
苦しみながら生きてきた人たちの壮絶な人生が、肝なのだと思う。
「多くの尊い命が奪われた」・・・ただ、そんなことを言いたいだけじゃない。
あの時代、あらゆる場所で死に行く人はいたのだから・・・
原爆によって、原爆症などの後遺症や傷を負わせられながらも生きてきた人たちは、
肉体的苦痛はもちろん、それよりも重い、精神的苦痛を味わってきた。
特に理不尽な『差別』にはずっと苦しめられてきたという。
爆心地に近い場所で被爆した人間は、結婚にも影響した。
もう少し離れた場所で被爆したことにして、嫁に行く人も多くいたという。
ひどい火傷を負ってしまった人は、銭湯へ行くことも許されなかったらしい。
まるで伝染病のような扱いだった。
そういう特集の類を観た私は
「自分が悪いわけじゃないのに、そんな目に遭わなければならないだなんて・・・」
ひどくいたたまれない気持ちになったので、
それを「生まれも育ちも長崎市」 の友人たちに話すと・・・
「ああ……そういうのっていい加減うんざりするよ。ずっと聴かされてるとね」
という、意外な答えが返ってきたのだ。
いや、義務教育のころから、平和を推進する街で育っている人たちが
そういう風に言うなんて思ってもみなかった。
「え? そうなん?」
意外に感じている私に、彼女たちは頷いた。
「実際被害者の話って、とてもひどい目に遭いました。辛かったです。ばっかりなんだもん。
それしかないの?って感じ」
「暗くなる話題だから、もう聞きたくないって人いっぱいいるし」
「うちのばあちゃんなんか、(原爆被害者だけど)触れてほしくないっていってる」
「せっかく忘れた辛い記憶を掘り起こしてほしくないって人も多いよ?」
・・・ということらしい。
実際、県内の放送局には「もう、原爆の特集の放送はやめてもらいたい」という
高齢者の苦情(?)が結構寄せられていたとか。
彼女らの話を聞いて、なんとなく「被爆体験とか、もういいよ」という人たちの気持ちは分かった。
戦後、いったいいつから、平和教育などの一環として、
体験を語ってもらうことを実施しはじめたのかは分からない。
でも、誰かに語るまでは被爆者の方々も理解を得られずに苦しかったんじゃないかと思う。
もしくは、思い出したくないけれど、勇気を持って話してみましたという人もいる。
「われわれの苦しみを理解してほしい、と二度とこういった犠牲者を出してはならぬ!」
という強い想い・・・
語る側、聞く側・・・と、どうにもこの温度差というものが、奇妙に感じられるのだ。
私はたまたま他県の人間だったため、知らなかったところを改めて教えてもらった気がして
真剣に聞き入ったが、これが毎年毎年否応もなく聞かされていたら、
どうだったか分からない。
何を行うにしても賛否両論があることを思えば、そんなもんかもしれないが・・・
もしかしたら、原爆症の認定を貰うため、必死になってる人たちが興ざめさせて
しまうところもあるのかもしれないし・・・
平和教育や平和活動にも、もう一段工夫が必要なんではないかと、
そんな風に少し思ってしまった夏の日。