みどりのまきば

認知症予防に不定期で日記を書いてみます。

富岡のひまわり畑

2020-10-04 20:51:00 | 日記

先日の上毛新聞に、富岡のヒマワリが見頃であるとの記事が出ていたので、訪問しました。

新聞記事で紹介されると、訪問者が一気に増えると思われましたが、今年は混雑しておらず、ゆっくりと観て回れました。

ちょうど富岡製糸の話題性が高かったので、お客はそちらに流れたのかもしれません。




群馬の森 彼岸花

2020-10-03 18:03:00 | 日記
今日は天気が良かったので、朝早く自転車で群馬の森まで彼岸花を観に行ってきました。

蚊の大群と格闘しながら撮影した写真をアップします。

また、群馬の森を抜けて、サイクリングロードを北上(2~3km)すると、土手沿いでコスモスと彼岸花が共演していたりと、自転車ならではスポットに出会えるのが醍醐味です。






赤谷公園の睡蓮

2020-09-25 18:20:00 | 日記

高崎市吉井町の牛伏山の麓、赤谷地区(小字名)には農業用水の貯水池があります。

以前(30年ほど前?)訪問した際は池の中洲にお墓があり、その周りに葦が生い茂んだ陰湿な場所で、人を寄せ付けない印象がありました。しかし、今ではすっかり閑静な公園に整備されております。

牛伏山に登った後の体力回復のために立ち寄るのもよいかもしれません。
群馬ネタで例えるなら、草津温泉に入った後の仕上げ湯として、沢渡温泉に入るような流れでしょうか。

牛伏山には過去に何度も登っているのですが、車道がとても狭いのが難点です。対向車とすれ違いはカーブ付近のみ可能という認識です。
私は第二駐車場に車を停めて徒歩で登るか、自転車のどちらかです。
学生の頃はママチャリでも登れましたが、今は
ムリ。ギヤ比が大きすぎて体力が続きません。

9月の連休中にも一度訪問しましたが、最近はロードバイクで登る方と遭遇する機会が増えています。

ちなみに、赤谷公園に訪れる方の人数のピークは毎年6月頃かと思われます。午前中は睡蓮が観られ、夜には蛍の飛び交う様子が観られるからです。

以上、ローカルネタでした。

今年の6月に撮った写真(PLフィルター使用)をアップします。




心の燈台 内村鑑三

2020-09-18 17:40:00 | 日記

群馬県民は小学校の頃から「上毛かるた」(郷土かるた)で遊んで来たので、大人になってもまだ多くの札を忘れずに覚えている方もいらっしゃると思う。

当時の私は句を覚えて遊ぶことに夢中で、登場人物に興味を持つことはありませんでしたが、大人になってから改めて札を読んでみると、なんと郷土愛に溢れていることかと気付かされたものです。

また、キリスト者2名を登場させている点が印象的です。

「心の燈台・内村鑑三」と「平和の使徒・新島襄」の2名。

今でこそ群馬にも多くのキリスト教会が存在し、地域に溶け込んでいますが、ゼロからの開拓者の苦労と辛抱はどれほどのものか、想像に難くありません。

内村鑑三の本はたくさん出版されていますが、最近になって「いのちのことば社」から新刊(ロマ書の研究)が出たというので、購入しました。
新刊と言っても当時の出版本は文語体で書かれているため読みづらいので、新たに口語体の現代文で書き直された本です。

聖書の中に『あなたのみことばは私の足のともしび私の道の光です。』(詩篇 119篇 105節)という言葉があり、「心の燈台」とはこの詩篇の言葉と関連がありそうな感じがします。

人生は暗い夜道を歩くようなものだから、どうしても光が必要となります。
光を持っていない場合の選択肢としましては、①無鉄砲に突き進む(大怪我をする確率が高い)、②誰かが切り開いてくれた道を歩む(多くの人でごった返しているので、流されたり押しつぶされ、自分を見失う)、③自分の殻に閉じこもる(社会との繋がりを断つ絶つ)……などが考えられます。

聖書の言葉はまさに人生を照らす光であり、最終到達地まで照らす光量を持つ光といえます。

内村鑑三は聖書の言葉を分かりやすく解き明かす賜物を持った方なので、多くの方が彼の書籍を読んで心の“もや”が晴れたのではないだろうか。それこそ「燈台」のごとく、聖書の言葉から迷い出ることのないように導く、案内役として相応しい方だと思います。





明日のことは明日が心配します

2020-05-10 20:41:00 | 日記

こんにちは。只今自粛中につき、自宅の庭に咲いた薔薇を撮影しました。

モッコウバラとピエールドゥロンサールです。

世の中は新型コロナウイルスの話題で充満しており、先行き不安な状況だと煽る一方なので、テレビからひとまず離れ、聖書のことばに耳を傾ける時間を増やしました。

"ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。"
マタイの福音書 6章 25〜34節

■モッコウバラ




■ピエールドゥロンサール