市民権の広がり 民主政の基本となる市民権は、ギリシアの場合はそのアテネの市民権法にみられるように、市内に住む市民に限定されていた。それに対してローマ市民権は、ローマの支配領域の拡張に伴い、各地に設けられた植民市の市民にも市民権が与えられた。またギリシアでは認められなかった解放奴隷もローマでは市民として認められた。こうしてローマでは市民権付与に寛大であり、その範囲も次第に広がっていった。- 奴隷制の違い 基盤であった奴隷制も、ギリシアの奴隷制は家内奴隷が主であったが、ローマの奴隷制では戦争捕虜の奴隷化が進み、大規模な奴隷制労働による大土地所有制が発達するという違いがあった。
古典古代の民主政
前510年、アテネでは市民によって独裁者ペイシストラトスが追放され、僭主政から民主政へと大きく舵を切った。翌前509年、ローマではエトルリア人の王が追放され貴族共和政に移行した。ギリシアでは前5世紀中頃のペリクレス時代に民主政の完成期を迎えた。ローマでは(ギリシアのような史料は明確ではないが)前3世紀にホルテンシウス法で民主政の成立を見た。時期的なずれはあるが、いずれも地中海世界の古典古代に都市国家における民主政を実現したものであった。両者には共通する性格も多いが、それぞれの個性も認められる。ローマの民主政の個性について、前記以外にも次のような指摘があるので紹介しておく。
(引用)共和制になってからのローマは、貴族政時代のギリシアのポリスに似た国制をもった。毎年二人が就任する最高官の統領(コンスル)、また法務官(プラエトル)などの高官の任期は一年で、行政や司法の官であるとともに軍司令官だった。役人はすべて名誉職であった。しかしローマでの高官で注意すべきは、彼らが昔の王のもっていた大権(インペリウム、軍指令権、行政権、死刑をふくむ懲罰権)をもっていたことだ。その外出には先導吏(リクトル)たちが大権を象徴するファスケス(斧と棍棒の束)をかついで露はらいの役をした。彼らの腰かける椅子も特別製といったわけで、ローマでは役人が偉いのである。したがってローマは役人をきめるのに選挙により、アテネのように籤引きなどにはなりえなかった。<村川堅太郎他『ギリシア・ローマの盛衰―古典古代の市民たち』初版1967 再刊1993 講談社学術文庫 p.132>
ローマにギリシアのような僭主政は出現しなかった。護民官は「消極的独裁者」といわれ僭主的な存在であったが、それも民主政の枠内での権限を出ることはなかった。またギリシアのような衆愚政治にも陥らなかった。それには保守層を基盤とした元老院による集団指導が機能していたことが考えられる。<村川堅太郎他『同上書』 p.132-135>
ローマ共和政のもとでの公職選挙
共和政から帝政へ
前2世紀後半には共和政の動揺は覆い隠すことが出来なくなり、前1世紀の「内乱の1世紀」といわれた混乱期に、スラ、ポンペイウスなど軍人が政治権力をふるうようになり、前46年にカエサルの独裁政権が成立した。元老院による共和政を維持しようとした勢力によってカエサルは暗殺されたが、その貢献者として登場したオクタウィアヌスが前27年にアウグストゥスの称号を贈られて、皇帝として君臨するローマ帝国が成立した。