安永期の宣長は『古事記』の解釈に基づき、世界の成り立ちや日本の優越を喧伝し、その解釈をめぐって論争を盛んに行っていた。宣長は古伝と世界のありさまの一致を説く一方で、儒仏の宇宙論を否定する。一方で、宣長には明確な宇宙像は存在しなかった。そのため、宣長の批判対象である儒者が、天地やそのあり方をめぐって、宣長に反論することは必定であった。宣長は不可知論で儒者からの批判をかわそうとし、その際に参照されたのが現実の天地のあり方の不可思議さであった。
しかし、天明期以降の宣長は西洋由来の天文や暦に関する知識を積極的に受容する。宣長は『沙門文雄が九山八海解嘲論の弁』において、西洋からもたらされたとする地球(球体)説の正しさを積極的に主張することで、仏教的宇宙像への批判を展開する。宣長の『解嘲論の弁』執筆動機は、仏教的宇宙像への論難であった。弟子である服部中庸の『天地初発考』が創造したような、『古事記伝』と西洋天文学の宇宙像に基づく宇宙論が正しいという前提が宣長にあって、それを確固たるものとするために展開した批判だったのである。宣長は、中庸が国学的宇宙像を創造する際に多くの助言を与えている。しかし、自身の言葉で『古事記』の解釈から宇宙論を創造することはできなかった。そこには、宣長が用いた漢意批判と不可知論によっては『古事記』を逸脱出来ないという事態が存在したのだと考えられる。
一方で、中庸の『三大考』は、『古事記伝』から発想を得ており、『三大考』以降、叢生する国学的宇宙論は宣長が引いたレール上に存在している。国学における西洋天文学の活用や宇宙論の創造は、宣長に端を発するといえるのではないだろうか。