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イエズス会は倭寇を恐れており、1555年に書かれた手紙の中で、ルイス・フロイスは、倭寇の一団から身を守るために、宣教師たちが武器に頼らざるを得なかったことを語っている[2]。

倭寇[編集]
1571年のスペイン人の調査報告によると、日本人の海賊、密貿易商人が支配する植民地はマニラ、カガヤン・バレー地方、コルディリェラ、リンガエン、バターン、カタンドゥアネスにあった[1]。マニラの戦い (1574)、カガヤンの戦い (1582)で影響力は低下したが、倭寇の貿易ネットワークはフィリピン北部に及ぶ大規模なものだった。イエズス会は倭寇を恐れており、1555年に書かれた手紙の中で、ルイス・フロイスは、倭寇の一団から身を守るために、宣教師たちが武器に頼らざるを得なかったことを語っている[2]。
日本人によるフィリピン侵略の恐れについて書かれた最古のものは1586年の評議会メモリアルである。マニラでは日本人の倭寇が単なる略奪以上の野心を持っているかもしれないと推測されており「彼らはほとんど毎年下山しルソンを植民地にするつもりだと言われている」[3]と警鐘を鳴らしていた。
豊臣秀吉とフィリピン[編集]
日本人在フィリピン、c. (1590) Boxer Codex
1592年に豊臣秀吉はフィリピンに対して降伏と朝貢を要求してきたが、フィリピン総督ゴメス・ペレス・ダスマリニャスは1592年5月1日付で返事を出し、ドミニコ会の修道士フアン・コボが秀吉に届けた。コボはアントニオ・ロペスという中国人キリスト教徒とともに日本に来たが、コボとロペスは、朝鮮侵略のために九州に建てられた名護屋城で秀吉に面会した。原田喜右衛門はその後、マニラへの第二次日本使節団を個人的に担当することになり、アントニオ・ロペスは原田の船で無事にマニラに到着した[4]。
1593年6月1日、ロペスは日本で見たこと行ったことについて宣誓の上で綿密な質問を受けたが、そのほとんどは日本がフィリピンを攻撃する計画について知っているかということに関するものであった。ロペスはまず秀吉が原田喜右衛門に征服を任せたと聞いたと述べた[5]。ロペスは日本側の侵略の動機についても答えた。
フィリピンに黄金が豊富にあるという話は万国共通である。このため兵士たちはここに来たがっており、貧しい国である朝鮮には行きたがらない[6]
ロペスはまた日本人にフィリピンの軍事力について尋問されたとも述べている。アントニオ・ロペスはフィリピンには4、5千人のスペイン人がいると答えたのを聞いて、日本人は嘲笑った。彼らはこれらの島々の防衛は冗談であり、100人の日本人は2、300人のスペイン人と同じ価値があると言ったという[7]。ロペスの会った誰もが、フィリピンが征服された暁には原田喜右衛門が総督になると考えていた[8]。
その後、侵略軍の規模についてロペスは長谷川宗仁の指揮で10万人が送られると聞いたが、ロペスがフィリピンには5、6千人の兵士しかおらず、そのうちマニラの警備は3、4千人以上だと言うと、日本人は1万人で十分と言った。さらにロペスに10隻の大型船で輸送する兵士は5、6千人以下と決定したことを告げた[9]。ロペスは最後に侵攻経路について侵略軍は琉球諸島を経由してやってくるだろうといった[10]。
1597年2月に処刑された26聖人の一人であるマルチノ・デ・ラ・アセンシオン(スペイン語版)はフィリピン総督宛の書簡で自らが処刑されることと秀吉のフィリピン侵略計画について日本で聞いた事を書いている。「(秀吉は)今年は朝鮮人に忙しくてルソン島にいけないが来年にはいく」とした[11][12]。マルチノはまた侵攻ルートについても「彼は琉球と台湾を占領し、そこからカガヤンに軍を投入し、もし神が進出を止めなければ、そこからマニラに攻め入るつもりである」と述べている[11][12]。
朱印船貿易と日本人町[編集]
豊臣秀吉はキリスト教布教の伴わない南蛮貿易を望み、自らルソンとの交易を推進しようとしていた。両国が本格的に貿易を始めたのは1592年、豊臣秀吉によって朱印船貿易がおこなわれるようになってからである。
スペインは当時、同じくスペイン領のメキシコとマニラを結ぶガレオン貿易を重要視しており、フィリピンには商人やキリスト教のアジア布教を目的とした宣教師が多く訪れている状況であった。日本人が東南アジアに進出すると、自然とこれらの商人を相手とする通商が発展していった。貿易に従事する多くの日本人が東南アジアに移り住み各地で日本人町を形成し、フィリピンにもマニラなどに日本人町(DILAW:黄色の意)が作られた。
1570年には20人ほどだった日本人居住者は、17世紀には1500人、最盛期には3000人にもなった。1614年にはバテレン追放令を受けてマニラに到着した大名、高山右近をスペイン人フィリピン総督、フアン・デ・シルバらが歓迎している。しかし1633年以降の鎖国令によって、日本人町は衰退しやがて消滅。
鎖国の後、日本は公的な外交を中国(明、清)、朝鮮、オランダ、そして事実上の勢力下においた琉球に限っており、フィリピンを含む各国との交流はほぼ断絶した。
徳川幕府によるフィリピン侵略計画[編集]
日本によるフィリピン侵略は秀吉だけでなく、1630年に松倉重政によって計画が行われた。マニラへの先遣隊は1631年7月、日本に帰国したが1632年7月までスペイン側は厳戒態勢をしいていた。1637年には息子の松倉勝家の代においても検討がなされた[13]。
その後、5年間はフィリピンへの遠征は考慮されなかったが、日本の迫害から逃れてきたキリスト教難民がマニラに到着し続ける一方で日本への神父の逆流が続いていた……松倉重政の後を継いだ息子の松倉勝家は、父に劣らず暴君でキリスト教の敵であったが、勝家が島原の大名として在任中に、最後のフィリピン侵略の企てに遭遇することになる。— 海軍大学校 (アメリカ合衆国)レビュー、69(4)、10、2016、pp. 8-9[13]
オランダ人は1637年のフィリピン侵略計画の発案者は徳川家光だと確信していたが[14]、実際は将軍ではなく、上司の機嫌をとろうとしていた榊原職直と馬場利重だったようである





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