ローマ帝国は奴隷制社会だったか
このようにイタリアの大土地所有農業は、奴隷制労働による直営方式の果樹・牧畜経営と、小作制に傾斜していく穀物畑が併存し、その他に自由民の農民による小経営も存在した。その中で奴隷制大農園が農業経済のなかで優越していたことは確かである。
しかし、農業経営のなかで奴隷制経営が優先していたのは、古代のなかでは稀な例で、イタリアの他にシチリアがそれに匹敵し、その他には古典期のアテネで小農民の奴隷を用いての経営が優先していたぐらいである。かつては地中海世界全般にわたって奴隷制が優越していた、従ってローマ帝国は奴隷制社会であった、と見做されていたが、現在は否定的に見られている。たしかにギリシア・ローマ時代を通じ、奴隷はあらゆる職種、分野に及んでいたので、そのような印象を受けたのもやむをえないが、あらゆ職種において奴隷労働が自由人労働を圧倒するほど優越していたとは言えない。その意味で古典古代を「奴隷制社会」と呼ぶことは、学問的には正しいとは言えない。<弓削達『ローマはなぜ滅んだか』1989 講談社現代新書 p.98-99>
奴隷制社会とは
ローマの奴隷制をどうみるか
ローマ市民社会では、人間は法的にも自由人と奴隷にはっきりと分けられていた。自由人はさらに、出生からの自由人なのか、奴隷であった者が解放されて自由人になった(解放奴隷)なのかが峻別されていた。人を物として所有しその労働の成果を搾取する奴隷制は、歴史上の多くの社会に見出されるが、その中でも古代ローマは典型的な奴隷制社会であるといわれることがある。ところが、近年の実証的な研究で、奴隷制大農場が普及していたのは、ローマの海外征服戦争の相次ぐ勝利によって、莫大な数の奴隷が安価に流入していた前1~2世紀の中・南部イタリアのみであると、指摘されることが多い。この結果、ローマ市民社会を、全体として奴隷制社会と呼ぶことは、困難になりはじめている。<島田誠『古代ローマの市民社会』1997 世界史リブレット3 山川出版社 p.73>