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ヒロポン 1950年 少年百数十名 集団  事件が発生したが、検挙された加害者の少年の殆どが、ヒロポンと同じメタンフェタミン

1949年から1950年(昭和25年)にかけて埼玉県で少年百数十名による集団強姦事件が発生したが、検挙された加害者の少年の殆どが、ヒロポンと同じメタンフェタミン製剤「ネオアゴチン」の常習者であり、過度の使用の結果いずれも中毒症に陥り、幻覚、幻聴、被害妄想






芸能界へのヒロポン蔓延に対して警鐘を鳴らしている[114]。作家の中にも蔓延しており、船山馨のように自らがヒロポン中毒であったとカミングアウトした作家の他にも、流行作家の多くがヒロポンに頼って作品を執筆しており、朝日新聞が社説天声人語で「戦後派文学、肉体派文学はほとんどヒロポン文学といつてよいほど、ヒロポン中毒の頭脳の中からはき出されたものである」などと指摘したこともあった[115]。
「笠置シヅ子#エピソード」および「柳家三亀松#人物」も参照
戦前、戦中と異なり、より効果が強い注射による摂取が増加してきたことによって、覚醒剤中毒症の症状はより激化する傾向となっており、終戦直後の1946年(昭和21年)には早くも慢性覚せい剤中毒者が東京大学神経科に入院し、精神医学会からも「注射薬も費出されるということになってしまいまして、注射に頼る人が大分出て来た。こうなってから私どもが全く思いがけなかった程癖になる人、受醒剤の嗜癖の状態というべきことが起ってきたのであります」「相当量続けて使っているという人に著しい精神症状呈して来るものがあるということに気付いたのであります」などと乱用による薬物依存症発生の指摘があっているが[34]、これらの薬物依存症の患者はヒロポン中毒者の略で「ポン中」などと呼ばれていた[116]。加えて、中毒者が行う不潔な注射器の使い回しは、ウイルス性肝炎の伝染機会を増加させ、輸血後肝炎が感染拡大する遠因となった。
芸能界や文学界にヒロポンが蔓延する中で、1947年(昭和22年)に作家織田作之助や漫才師ミスワカナがヒロポンの大量摂取により死亡したと報道されると(両名の死因については諸説あり)[117]、世間の注目度が増して、ようやくその毒性についての研究が進むことになった。同年の内科学会においては「一般健康人が本剤を使用するのは大いに注意する要がある。我々の調査でも本剤は習慣性があり投與量増加しなければ効果なく、又疲労感は一時的にはないが後より強い疲労現はれ、注意散漫し集中的な仕事は出来ない。中事生等盛んに試験中にのんでゐるが尿意を常に催し、集中した勉強は出来ない」「私は本剤の如きは飽迄、医師の監督の下に慮方し又剤薬として管理される要あるを提唱する」と、学生が受験勉強用に飲用するなど、国民が広く使用している実態と、毒性に対して効果は限定的であり、医師の管理の元に使用すべきとの提言もなされている[34]。
「織田作之助#没後」および「坂口安吾#ヒロポン・アドルム中毒」も参照ヒロポンを互いに注射する姿の漫才の林田十郎(左)と芦乃家雁玉(右)。1948年
ヒロポンが社会問題化するなかで、その規制が本格的に議論されるようになるのは、1949年(昭和24年)に入ってからとなった。10月24日の参議院厚生委員会において、ヒロポンに対する言及が初めて行われたものの、その後の11月25日の参議院本会議においては「この頃はやるヒロポンの注射であるのでありまして、果して結果がいいかどうか。これはその麻藥を使用するところの医者が藪医者であるか名医であるかに全くよるのでありまして、」と処方次第との答弁があっている[118][34]。このヒロポンは医学的には有用であるという見方は、規制反対派の論拠となり、1950年(昭和25年)12月8日付読売新聞社説「編集手帳」においては「ヒロポン禍は事実である」としながらも、「ヒロポンそれ自体が有害なのではない。それが医療の範囲を超えて乱用されたことに問題がある」と原因はヒロポンでなく悪用する方だと指摘し「近代科学に目をそむける未開人の意識であり、科学に対する野蛮な鎖国である」などとヒロポンの全面的製造禁止法案の議論を進める国会に釘をさしている[119]。
詳細は「覚醒剤取締法#経緯」および「住友ファーマ#商標」を参照
しかし、根強い有用論はあっても、国会でヒロポンが取り上げられてからは、規制の方向に大きく舵をきられていくこととなる。厚生省も着々と規制を進めており、1949年3月に薬事法の施行規則改正でヒロポンなどの覚醒剤を劇薬に指定すると、生産数量を旬報で報告をさせるなどの措置を講じ[120]、9月には、メタンフェタミンとアンフェタミンそれぞれの錠剤を「国民医薬品集」から削除して、製造を厚生省大臣の許可制とした。さらに、10月には各都道府県知事あてに事務次官通牒発出し、製薬業者に注射剤の製造自粛を勧告したが、それまでの生産分のストックや密造によって市中には大量のヒロポンや他社の覚醒剤が流通しており、乱用に歯止めがかからなかった。当時、都市には戦火で身寄りを失ったいわゆる浮浪児が多数路上生活していたが[121]、その浮浪児のヒロポン乱用は止まらず、40~50本も乱用しているような子供もいたという[122]。
大東亜戦争期の日本本土空襲により多く発生した戦災孤児に端を発する浮浪児や不良少年らは、ヒロポン欲しさに犯罪を犯すようになっていたので、ヒロポンが少年犯罪激増の元凶となっていた。1949年(昭和25年)の警察の見解として「少年ヒロポン患者薬代欲しさから盗みやユスリ・・都内に『ヒロポン禍』が目立ってふえ、とくにこれに伴う青少年犯罪が激増しつつある」「恐るべきヒロポン禍薬欲しさのスリ窃盗犯罪青少年の半数は中毒」「青少年のカクセイ剤中毒患者は毎年増加の傾向にある、法規制の改正により製造を中止する以外ない」という発表があっている[123]。1949年に警視庁保安部が補導した青少年のうち半数がヒロポン中毒であり、補導されていない青少年を含めると、東京都内だけでも青少年のヒロポン中毒者は15,000人に達すると予想された。それでも恐るべき数であったが、翌年の1950年になると、文部省の推計でその数は倍の30,000人なった[115]。2022年(令和4年)で日本全国で検挙された覚醒剤事犯の検挙者数は6,289人であり、東京都内の青少年のみでその約5倍のヒロポン中毒者がいたことになる[124]。
詳細は「戦災孤児#概説」および「GIベビー#統計・調査」を参照
そして、ヒロポンなどの覚醒剤規制を決定づける凶悪少年性犯罪が発生する。1949年から1950年(昭和25年)にかけて埼玉県で少年百数十名による集団強姦事件が発生したが、検挙された加害者の少年の殆どが、ヒロポンと同じメタンフェタミン製剤「ネオアゴチン」の常習者であり、過度の使用の結果いずれも中毒症に陥り、幻覚、幻聴、被害妄想の症状が現れていることが判明、また、捜査の過程で「ネオアゴチン」の製造が厚生大臣から認可された販売制限量を超えていたことも判明し、製造会社は薬事法違反の行政処分を受けている[125]。この凶悪事件は世間を震撼させて、覚醒剤の害悪性を広く国民に知らしめることとなった[126]。
少年の集団強姦事件が明るみに出た直後の1950年(昭和25年)2月、厚生省薬務局は「医師、歯科医師又は、獣医師の処方せん又はその指示」がなければ覚醒剤は購入できないという、当時の薬事法(現・薬機法)で可能なもっとも厳しい規制を決定した。しかし、これでも効果は限定的なもので、浮浪児らヒロポン中毒の少年たちは、劇薬として医師の処方箋や指示がないと入手できなくなったヒロポンを、薬局などを脅迫して入手したり、医師に対しても頼み込んだり、ときには脅迫までして1か月~1年といった長期に渡る処方箋や指示書を発行させて覚醒剤を入手し続けた[126]。
現行法では対応できないのは明らかとなっており、全面的な禁止に向けて新たな法律の制定が必要という認識が国会内にも広まっていった。参議院厚生委員会を中心に議論が深まっていったが、衆議院大蔵委員会の公聴人質疑において、朝鮮戦争特需への対応で、特に製鉄所や造船関係の工場では、深夜残業が当たり前となっており、工場労働者に会社側がヒロポンを支給させて長時間勤務を強いているという実情も明らかにされた。覚醒剤問題は、少年犯罪だけでなく労働環境の悪化の元凶ともなっており、国による早急な対応が求められた。そして、ついに1951年5月18日、覚せい剤取締法案が参議院厚生委員会の議員4人を発議者として国会に提出され、6月13日には衆議院本会議で可決し、30日に公布され、同年 7月30日に施行された[127]。同法により日本では「限定的な医療・研究用途での使用」を除き、覚醒剤の使用・所持がすべて厳禁されている[注釈 3]。
詳細は「覚醒剤#日本における法規制」および「覚醒剤取締法#刑罰」を参照
覚せい剤取締法が施行されても、覚醒剤中毒者による凶悪事件は後をたたず、1954年(昭和29年)4月19日に、授業中の小学校内で生徒が覚醒剤中毒者によって殺害されるといった衝撃的な文京区小2女児殺害事件が発生。さらに同年6月25日には中毒者が通行人5人を川に投げ落として幼児3人が死亡する事件も発生[128]するなど中毒者による殺人事件が続発、より取り締まりが強化されていくこととなった[129]。この年、販売組織などを通じた調査が行われ、全国の常習者は285万人と推定された[130]。
ヒロポンは#効能・効果に記載の通り、覚せい剤取締法における「限定的な医療・研究用途での使用」としてナルコレプシーや鬱病などの症状の治療を目的に大日本製薬の後身企業大日本住友製薬および現在の住友ファーマに至るまで生産・販売が続けられ、日本薬局方上は処方薬(処方箋医薬品)の覚醒剤として残っている。その投与方法は、1回2.5〜5mg、1日10〜15mgを経口投与するとされているが、重要な注意事項として「反復投与により薬物依存を生じるので、観察を十分に行い、用量及び使用期間に注意し、慎重に投与すること」「本剤投与中の患者には、自動車の運転など危険を伴う機械の操作に従事させないよう注意すること」「治療の目的以外には使用しないこと」が徹底され、厳格な管理のもとで使用されている[131]。
脚注





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