当時の老中や勘定奉行の幕閣から調べてみた。勘定奉行の小栗上野介に、久光が「琉球通報」の貨幣鋳造を申し出ている。
しかし、小栗上野介は「鋳造権は徳川家が160年間安泰できた、最大の武器だ」と徹底して反対している。すると、久光は1000人の兵で水野 忠精(みずの ただきよ)を脅し、小栗上野介を町奉行に配転させたうえで、水野老中から、3年間限定の「琉球通宝」鋳造許可を得ている。
それが久光の最大目標である。同行していた小松帯刀家老、大久保利通らが贋金づくりに絡んでおり、この3年間の「琉球通宝」で終わらず、なんと偽・薩摩天保通宝、メッキ二分金となり、明治初年まで拡大していったのだ。それらが倒幕資金になったのだ。
しかし、小栗上野介は「鋳造権は徳川家が160年間安泰できた、最大の武器だ」と徹底して反対している。すると、久光は1000人の兵で水野 忠精(みずの ただきよ)を脅し、小栗上野介を町奉行に配転させたうえで、水野老中から、3年間限定の「琉球通宝」鋳造許可を得ている。
それが久光の最大目標である。同行していた小松帯刀家老、大久保利通らが贋金づくりに絡んでおり、この3年間の「琉球通宝」で終わらず、なんと偽・薩摩天保通宝、メッキ二分金となり、明治初年まで拡大していったのだ。それらが倒幕資金になったのだ。
「芸藩志」、「広島県史」など精査していると、島津家は鋳造総裁の市来四郎を御手洗、広島藩に出張させて、広島藩から正金10万両の貸し付けと見返りに、中国産地の鉄と銅を購入した、という歴史的事実がでてきた。
大崎下島・御手洗は薩芸交易で栄えた港である。足で歩けば、近年、住吉神社の改築工事がなされた。「薩摩天保通宝」がたくさん出てきたという。(重伝建を考える会・理事)。実証だ。
島津家は鹿児島のすべての寺をつぶし、広島藩から買いつけた銅鉄で、290万両という膨大な贋金を使った。倒幕の基軸が薩摩の贋金づくりにあったのだ。つまり、贋金が亡国をなす。
メッキ二分金が三井組から近畿地方に流れて、ハイパー・インフレ(超インフレーション)を引き起こした。民は物価高騰で困窮し、打ち壊し運動になった。
これは徳川家の経済政策に大打撃となった。「ええじゃないか運動」を引き起こした。慶喜が、とうとう経済政策に行き詰まり、政権を朝廷に返上する大政奉還となった。
経済が政治を動かす。典型的な事例だ。
経済が政治を動かす。典型的な事例だ。
薩摩藩はニセ2分金で、長崎のグラバーなど貿易商から、大量の武器と軍艦を購入している。同時に、国内の諸藩にも売り渡していた。
そのうえ、薩摩の倒幕派が贋金で密輸入した武器を、鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争で使っていたのだ。
そのうえ、薩摩の倒幕派が贋金で密輸入した武器を、鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争で使っていたのだ。
問題は島津家の贋金が世界中にまわっていたことだ。明治新政府の重大な外交問題になった。どのように回収するか。
徳川幕府にも、明治新政府にも、薩摩の贋金は政治の根幹を揺るがした歴史的重大事件となった。
負の側面にしろ、「日本史の教科書」にも記載すべき重要な出来事である。それでなければ、なぜ徳川政権が、安政通商条約で貿易量を急激に伸ばしながら、経済政策に行き詰まったのか。
民の生活を根幹から弱体化(塗炭の苦しみ)させたのか、という真実が国民に示されないことになる。
民の生活を根幹から弱体化(塗炭の苦しみ)させたのか、という真実が国民に示されないことになる。