薩摩の隠れ念仏
一向宗弾圧の理由
加賀藩(現在の富山県地方)で、室町幕府守護だった富樫正親が北陸吉崎に本山を置く一向宗の農民達に滅ぼされ、百姓衆が約100年間にわたり“百姓の持てる国”として自治したことに、諸藩の大名は危機感を持ったようです。
佐賀のキリシタンが弾圧されたときも、一向宗の門徒がキリシタンに加勢したという噂がたち、薩摩藩や相良藩は恐怖に感じました。その結果、一向宗は天下国家を乱すとして取り締まりの対象になりました。 さらに、藩に収めるべき年貢も、お布施や上納金として本願寺に流れたといわれ、役人の気分を害したようです。
薩摩藩は明治の新政府に中核となる人材を多く輩出しました。その結果、明治2年に神仏分離令が発令されると、他藩より徹底的に廃仏毀釈が進み、仏教寺院が破壊されました。藩主島津家の菩提寺で、歴代藩主の墓地がある福昌寺も廃寺となり、現在でも復興していません。 鹿児島県で現在までに復興された寺院は、島津家が弾圧した浄土真宗が一番多いというのは、皮肉な現実だと思います。