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mek********
mek********さん
2015/9/18 19:17
理由は二つあると思います。 一つは九州戦国史に無知であること。 戦国通と呼ばれる人でも九州方面には興味がなく、九州戦国史の年表がわかっていない人はいます。 宗麟が息子の義統に家督を譲り、隠居した時期などわかってない戦国通は大勢いるでしょう。 もう一つは大友家は両頭政治だったと思いこんでる人達です。 両頭政治とはその大名家に司令塔が2人いて、当主と当主に近い実権をもつ2人による政治体制です。 大友家は一時期、隠居の宗麟と現役当主の義統の2人による両頭政治が行われました。 日向出兵は当主は義統でも、両頭政治であったから当然宗麟も責任を問われるべきだという意見があるのです。 そのことから日向出兵の失敗と罪科は宗麟の責任だという声がでてくるんです。 さて、ここからが世間に対する反論ですが、 じつは大友家が両頭政治をはじめたのは耳川敗戦後からです。 日向出兵での義統の不甲斐なさに大友家中では「義統を当主からおろして宗麟公をもう一度当主に」という動きがおきます。 宗麟は息子をかわいそうに思い、「あくまで大友家の当主は義統である」と主張し、この動きを退けます。 しかし家臣達の諫言を無下にあつかう事はできず、しかたなく「武将として現役復帰はするが、あくまで息子義統の補佐に徹する」として、復帰はするものの息子の立場を守りました。 こうして隠居から復帰した宗麟でしたが、まわりの家臣達は宗麟と義統の両者に指示をあおぐようになり、悪しき両頭政治がはじまったわけです。 親の心、子知らずで義統は政治に口を出すようになった父宗麟を疎むようになります。 このように大友家は一時期両頭政治をやっていた事から、その勘違いで日向出兵でも宗麟が大々的にかかわっていた思いこんでいる人達が多いんだとおもいます。 あとそれと、隠居とはいえ息子の軍勢の後をおって日向入りしたことがさらに宗麟の指揮だったという勘違いを強くさせているのもあると思います。
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質問者からのお礼コメント
宗麟にとっては痛い気分でしたね。
お礼日時:2015/9/24 22:40