不眠閑話

政治、経済、教育、文化、社会、時事など。殆どは旧ブログからのコピペ・転載です。

【再掲】大学院で成長したこと

2022-07-09 12:46:37 | 教育
自分自身の半生をかえりみて「我ながら成長したな」と思うのは、文章を書くスピードと、本を読むスピードが、学生時代とは比較にならない程速くなった事である。
   
鍛えられたのは、主に大学院時代ーー今にして思えば、大学院というのは、互いを高めあうというより、才能を潰し合う場所であった。(それが逆説的な形で教育になっていた。)
    
潰されないためにーー或いは、ナメられないためにーー必要な事は、①とにかく良い論文を書く事、②実力の違いを周囲に見せつける事であった。
   
そのために、ゼミの発表は、常に緊張感を伴って行われていた。ゼミで発表する時は、①他人に論破されないよう完全に論理武装しておき、②それなりの水準の論文を準備しておく必要があった。また、他人が発表する時は、相手の論文の弱点をひたすら探して批判した。(批判的でない質問ばかりしていると、それはそれでまたバカにされるのである)
    
不意打ちを食らわないため、私は先手必勝の精神で将来を見据えて、いつも2、3本の論文を用意していたし、自分の研究について、いつどんな質問が来ても大丈夫なように、論理武装していた。
    
逆にいうと、大学院で潰れていく人は、そういう準備が出来ない人ーー発表日が決まってから重い腰をあげて、ようやく論文の執筆に取りかかるような、面倒くさがり屋の人である。(大抵の人がこのタイプであった。)
      
そういう人は、大抵ゼミの発表で炎上する。炎上というのは、文字通り四方八方から袋叩きの目に遭って、皆の前で公開処刑される事である。公開処刑のエグさは大学院生でなければ、分からないだろう。
     
私は臆病者ゆえに、公開処刑だけは本当にイヤだったので、いつも死に物狂いで研究していた。
   
「笑われない論文を書かなくてはいけない」というプレッシャーのなか、出来るだけたくさんの本を読み、出来るだけたくさんの文章を書いた。そうして書き上げた文章の中でも、上手く書けた部分だけを、さらに抽出して最終的な論文を仕上げていった。(嫌々というより、元々研究が好き、というのもあったかもしれん。)
    
そんな風にして、必死に研究を続けた結果、いつの間にか活字を読んだり、書いたりしているのが当たり前になった。また、文章の「上手く書けた部分」の水準が、次第に私の研究の標準(スタンダード)になっていった。
     
そんな次第で、読んだり、書いたり、考えたりする事が、次第に苦痛ではなくなっていき、むしろ私の中の「当たり前」になっていったのである。
     
そういう修羅場を経験した事で、初めて私の中で「成長」と呼べるものが生まれたのだろう。

いや、そういう経験をしないと人は変われないという事でもあるのだろう。

【再掲】アクティブラーニングの矛盾

2022-07-04 22:59:58 | 教育
【再掲】アクティブラーニングの矛盾
   
最近、教育界で「アクティブラーニング」という事が、さかんに言われている。
     
これは従来の、受動的な「知識詰め込み式学習」に対し、学習者が能動的な「授業参加型学習」を言う。
       
それ(アクティブラーニング)は、単なる知識の「丸暗記」ではなく、「自分の頭で考える」という「思考力」に重点を置いた教育で、それまでの画一的な考え方をやめて、自分の考えを自由に述べて、他者と対話していこうという教育になる
      
まあ、その教育理念の是非はここではおいておこう。
      
私が気になったのは、「アクティブラーニング」という事が問題になると、従来の教育を「古い」と一蹴し、なんでもかんでも「アクティブラーニング」と大合唱したがる連中の事である。
      
連中の何が面白いかというと、「アクティブラーニング」を推進したがる教育家のくせに、皆流行に乗ったように「画一的な考え方」「同じ考え方」をしていて、実は全く「アクティブ」に思考していないという点である。
            
アクティブラーニング」「アクティブラーニング」と大合唱して、その理念を丸暗記して話している教師は、アクティブラーニングの何たるかが、実は全く理解出来ていないーーむしろ「丸暗記」型の人なのである。
        
むしろ、「アクティブラーニング」のあり方に疑問をもって、旧弊な教育の価値を大切にする人の方が、自分の頭で考えているだけアクティブに、主体的に思考している。
         
私はそこに皮肉を感じるのである。


学問について

2022-06-30 15:53:00 | 教育
太宰治の名言。長文だが、良い事を言っている。あと、さり気なくゆたぽん(少年革命家)を論破してた。以下、コピペしておく。
     
※  ※  ※
勉強というものは、いいものだ。代数や幾何の勉強が、学校を 卒業してしまえば、もう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが、大間違いだ
      
植物でも、動物でも、物理でも化学 でも、時間のゆるす限り勉強して置かなければならん。日常の生活 に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。
      
何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、それから、 けろりと忘れてもいいんだ。覚えるということが大事なのではなくて、 大事なのは、カルチベートされるということなんだ。
        
カルチュアという のは、公式や単語をたくさん暗記している事でなくて、心を 広く持つという事なんだ。つまり、愛するという事を知る事だ。
    
(中略)
           
学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものな んだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一 つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。勉強 しなければいかん
    
そうして、その学問を、生活に無理に直接に役 立てようとあせってはいかん。ゆったりと、真にカルチベートされた 人間になれ!」
    
ーー太宰治「正義と微笑」

※  ※   ※
添付したのは、麻生太郎。確かこの人、「義務教育は小学生まで」とか、ハゲた事、言ってなかったっけ?



【再掲】「大学を半分にせよ」という暴論

2022-06-26 21:17:50 | 教育
よく、「大学の数を半分にすればいい」という人がいるが、実際に大学の現場を知っている者の立場から、一言言わせて頂くと「暴論」である。
    
なぜ暴論か? 地方のFラン大学は「博士号取得者の雇用の受け皿になっている」からである。
    
私の知り合いには、大学で博士号を取得したものの、就職が見つからなくて、大学の非常勤講師と日雇い労働の仕事で食いつないでいる、みたいな人が、普通にいる。
   
いわゆる「高学歴ワーキングプア」という奴である。
   
そういう人の中には、優秀な研究者もいるが、生活が安定していないので、腰を据えて研究する事すら出来ない。
    
ただ、非常勤講師として実績をつめば、地方のFラン大学が、そういう人を正規の教員で雇ってくれることもある。だから、地方Fラン大学は必要なのである。
   
もっとも、今は少子化なので、地方のFラン大学も日本の学生だけでは運営出来ない。そこで、留学生を入れる事で、なんとかやりくりしている、という非常に厳しい経営状態である。
   
それが日本の大学の現状なのである。

そんななか、「大学を半分にすればいい」「Fラン大学を潰せばいい」などと安易にやったら、大量の高学歴ワーキングプアが路頭に迷うことになるが、それでいいのか?
    
そういう人達は、新しい職が見つからなくて、フリーターみたいになるかもしれないし、在野で燻り続けるかもしれない。いずれにせよ、ただでさえ研究力が低下している日本で、さらなる頭脳流出が加速する事に違いはない。

以上の事から「大学を半数にせよ説」は、「ナンセンス」なのだと結論する。

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URLは参政党の人。この人は「日本に大学が多いのは、役人の天下り先に必要だから」の一言で済ませているが、そんなに単純な問題ではない。