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日本共産党創立90周年の月に思う   森下宏人

2012年07月31日 | 松ケ江情報

日本共産党(以下「共産党」という)は1922年7月15日(大正11年)に党を創立し、この7月で90周年になります。

私が共産党員となって47周年の月でもあります。

私が共産党に入ったのは、就職先の市役所職場での共産党員の献身的な活動に共感したからです。労働者の要求解決や「市民の幸せなくして、自治体労働者の幸せはない」と市政民主化のために活動する姿に心動かされました。

何が彼を動かしているのか、後で分ったことですがそれは「国民の苦難軽減と安全のために活動する」という立党の精神をもつ日本共産党の党員だったからです。

かつて市役所のなかには「一引き二ゴマ」という言葉がありました。出世するには1番にコネ(引き)があること、2番にはゴマをすることという意味です。

私には柳田桃太郎(門司市長・参議員)という「引き」があり、上司から「君の希望する人事をするから」と言われたことが何度もありました。

1度きりしかない人生をどう生きるかを考えました。私は自分の利益だけにとどまらず多くの人の利益のために活動する共産党員の道を選びました。

私が共産党員になり始めの頃、「息子さんは悪い道に入った」と親に告口する人もいました。母親は「息子が何か悪いことをしましたか」と反論したと聞き立派な母親だと思いました。

 

 

 

 

 

戦前(今から67年前)の日本は、自由や人権、民主主義のひとかけらもない暗黒の時代でした。

このなかで、共産党は「この戦争は間違っている」「国民が主人公の日本」「労働の8時間制」「農民に土地を」などを掲げてたたかいました。他の党は大政翼賛会に合流し侵略戦争推進の側に立ちました。

天皇制政府は共産党の影響が広がるのを恐れ、共産党を国賊、非国民、アカ呼ばわりし弾圧しました。

小説「蟹工船」を書いた共産党員作家・小林多喜二の虐殺はよく知られていますが、弾圧は一国民にも及びました。

佐世保(軍港)にいた母の弟は当時進歩的といわれた中央公論社の「改造」の読書会をしたことで、特高警察に付きまとわれある日突然いなくなったと聞きました。

共産党は多大な犠牲や困難ななかでも主張を曲げなかった唯一の政党です。その主張は日本国憲法に生かされました。真理や道理は犠牲や時間がかかっても将来に生きるということが私の確信になっています。

私は、不公正な同和行政をただすたたかい、国保料値上げ反対のたたかい、行財政の民主化のための地方自治研究などいろんな活動をしてきました。

退職後はこの松ケ江の地で地域住民のためにと活動をしています。

いま、国民の苦難の根っ子には「財界中心・アメリカいいなり政治」という病根があります。ここにメスを入れることが出来るのは、財界にもアメリカにも堂々と物が言える共産党だと思っています。

しかし、多くの国民は共産党の真の姿を知らされていません(巨大メディアには載らない)。そのために共産党をもっと強く大きくしなければならないと90周年の月にあたりあらためて決意をあらたにしているところです。

 
 
 

 


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