
2021年、3月某日。
私は、簡易書留で届いたオレンジ色の封筒を受け取り、人並みにわくわくした気持ちで――チケット開封の儀を行うオタクなら誰しもそうであるように――のりづけを剥がした。
もっとも、もともとの推しのチケットは随分と前から電子チケットになっていたため、「紙のチケットを郵送で受け取る」ということ自体が久しぶりのことで、それに伴う緊張感と期待感というものは、それなりにあった。
だが、そうはいってもどこか生温い覚悟で開けてしまった私を、今となっては叱りつけたい。
(油断、していたのだ。なんたって、及川光博ワンマンショーの、“初めての”チケットだったのだから。)
ミシン目のついた黄色い紙を取り出し、封筒の窓から見えていた自分の名前と住所、ではないほうに目をやる。
そこに書いてあることが、はじめ理解できなかった。

[1階] ――よし。
[1列] ――――?
…………???
人間、本当に時間が止まることがあるらしかった。
悠久の時を経て、私は漸く認識した。
初めてのワンマンショー、最前列を、引き当てた。
次の瞬間、慌ててスマホをひっ掴み、検索窓に文字を打ち込んだ。
[森のホール21 座席表]
19、19って、そうだな、ちょっと端っこか、そんな気がする。
表示された画像に、いよいよ訳がわからなかった。
大げさでなく、4度見5度見くらいした。
ど真ん中である。
これは大変なことが起きてしまった。
うれしい気持ちは確かにある、あるのだが、それ以外の感情が多すぎて、もうぐっちゃぐちゃである。
――私よりももっと相応しい人はいくらでもいるのではないか。
――大事な大事な初日の最前ドセン。しかもこれは二年ぶりのツアー。
――秋口に好きになりはじめて、ゆくくるこそ遠隔参加はしたものの…………ゆくくる!
そう、ゆくくる。
2020年末、ネット配信されたあのゆくくる。の、愛哲。一日目、ゆくミッチー公演の愛哲。人生で初めて書いた(当たり前)愛哲。
読まれたのだ。しっかりと読まれた。
(簡単に記しておくと、受験生なのですが試験前に聴くのにおすすめのやる気が出る、闘志がみなぎる一曲をぜひ教えてください、といった内容でした。一曲といわず3曲、4曲名前を挙げてくださいました。きっとお誕生日24時間ニコ生のこと書いたのが功を奏したんです。ニコ生パワー。ありがとうございます。いつもお世話になっております。)
そのことを思い出すと余計に、というかもはや”怖い”の域である。
……私、そろそろ死ぬんだろうか。
と、しばらくいろいろ考えた。
しかし私の出した結論は、「行く」だった。
なぜかって、これは私の信条ともかかわってくるのですが、巡り合わせ、といいますか、せっかく私のところに巡ってきてくれたチケットなんだと、意味があって理由があって私のもとに来たんだと、まあそんな感じです。そう思ったから。
と、いうことで、少しのウキウキと多量の不安を抱えつつ、審判の日までを過ごした。
軽く、ほんと軽く自分用にメモしておきますが、だいぶ紆余曲折ありました。 前日が入学式だったり法事と思いっきりバッティングしたり。なんと、法事に出てから行きました。寛大なおばあちゃんありがとう、天国で土下座するね待っててね。
グッズ買わなきゃとか、ああタンバリン持ってない、当日新グッズで出て即買ったとしても届かない(そりゃそうだ)(会場物販大事、ウィルス許すまじ)、ゆくくるのタンバリンお譲りしてもらえないかなとか、メイクどうしようネイルどうしようとか、あれこれ準備をしたが、一番大変だったのは、服だった。
なんと、前日に買った。
ずっとなんとなく探してはいたが、どうも納得いく服に出会えない。
エメラルド、難しすぎるのだ。なんか淡い色流行ってませんでしたか? 私の見てたお店が悪かった? 結局ハニーズで買いましたが?
そんなこんなで、万端ではないけれどやれるだけのことはやって、ついに当日を迎えた。
心の準備は全然オッケーではなかった。
別のアーティストさんを応援していたころから、関東近郊ならどこまででも行くぜと、富士急なんかもソロ参戦したことがあったが、松戸に行くのは人生初だった。乗り換えも初めての駅でソワソワしたが、途中グッズのトートバッグを見かけ、勝手に救われた気持ちになった。緑の人について行けば会場に辿り着くとはよく言ったものだ。
新松戸駅に到着した。
会場に向かうらしき人を見つけたので、怪しまれないように気をつけながらいそいそとついて行く。……なんせ一人なのだ。
執事のチエホフさんがツイートしていた通り、桜が咲いている。
靴については服と裏腹、早々にザ・エメラルドなGUのパンプスをゲットしていたのだが、母親の忠告を聞いて、スニーカーで行って会場で履き替えることにしていた。……大正解だった。駅から会場まで、しっかりしたお散歩コース程度はあったように思う。
なかなか会場が見えてこないので、無駄にそわそわしていたが、無事に辿り着くことができた。名も知らぬベイベーさんたち、ありがとう。
検温と消毒関門を抜け、チケットをセルフもぎり、どう考えても座席位置を確認する必要なんて無いのだが何故か座席表の掲示を確認、落ち着かない気持ちのままに前方の扉から入って、前に、前に、まだ前に……。だんだんと歩が進まなくなってくるのをどうにか進めて、もう座席のないところまで。
券面の数字と座席の数字をこれでもかと見比べて、ようやく荷物を下ろし、腰を下ろした。軽く辺りを見回すが、前方はまだあまりお客さんは入っていなかった。ただでさえ1席空きであるのに、なんともいえない心細さが募っていく。
遥か高くまでそびえる緞帳の壁。
その麓には、緑にラメの輝ける、SOUL TRAVELERロゴのあしらわれたモニタースピーカーが2台、ボーカル様に。
いそいそと靴を履き替えたり、メガネをかけるかかけまいか悩みながら付け外ししたり、光る指と手首の装着に苦戦したり、前日の夜指先を緑に染めながら組み立てたポンポンの形を整えたり。一晩じゅうガサガサ煩かったと後に母から苦情がきた。
流れているのはまったく聴いたことのない洋楽。聴き入る余裕もなく、これこそがJames Brownなのだと認識できたのは次に参加した公演でのことだった。
気づけば会場内はエメラルドのベイベー&男子で満たされていて、だいぶ直前だったように思うが、両隣にも人が来ていた。右隣は私と同じくおひとりのようで、左隣はなんと、量産っぽい若い方だった。元いた界隈で見慣れていた姿に、思いがけず安堵がもたらされたのはここだけの話である。
緊張していないわけではないが、あまりに厚い緞帳の裏側に迫りくるものはどうにも捉えられず、現実味がないまま、スマートフォンをしまって、タンバリンのない指先を握りしめた。
場内が暗くなり、爆音が響き出し、ギラギラと照明が動き出す。
賑やかなイントロダクションが終わり、しんとすべての音が止んだ刹那、厚い壁が視界の上へ抜けていくその先に――――彼はいた。
ああ、この音は、念願のPurple Diamond、やはりアルバムと同じ、この曲からはじまるのだ、うれしい、望んでいた1曲目だ、その思考もしっかりしながら、目はそこにいる彼を、その一点のみを映した。
じんわりと持ち上がる重低音に高まる期待感、機械のごとく静止状態にあって顔貌を隠していたその手が、ゆっくり、ゆっくり開いていって――――
あまりの美しさに、お人形かもしれないと思ってしまった。
月並みな、と思うだろうか。否、そのとき私は本気でそう思った。
――――――
肝心のライブ本編の記憶は、実はそれほど鮮明ではないのだ。
時間が経って忘れてしまったのではなく(今となってはそれもないとはいえないが)、そもそも録画に失敗しているような感覚である。
厳密には、帰りの電車とその後数日間に書き殴ったメモがあって、何があったか何を思ったか、多少なりとも記すことはできているのだが。それはそれとして、だ。
ぼんやりと、きらきらと、印象とでもいうべきものが、結晶になって、心の中に落ちている。
それが、私の初心者ベイベーの記憶だ。
――愛の試練に得たもの、記録に残せないものを抱えて、私は一生ベイベーなのだ。
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