gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

まだまだ続く病気の嵐

2021-05-16 12:11:09 | 日記
秋には心不全で緊急入院、ついでにペースメーカーの電池入れ替え手術もしました。
入院中にたまたま主治医が病室に来てくれた時に娘が母のいびきがすごいと伝えたら睡眠時無呼吸症候群の検査を受けることになりました。
個室に1泊して頭に機器をつけて睡眠時の呼吸を調べます。
期間を開けてまた1泊の検査を受けます
一時間に50回くらい呼吸が止まっているとの診断されました。まともに眠れていなかった訳です。
昼間眠い(若い頃、宿直業務ある仕事していた)から眠いのは職業病だと思っていたんです。CPAPという睡眠時に鼻から空気を送る機器をつけることになりました。
さすがに昼間眠くて仕方ないはなくなりました。
次の年には心不全で年間6回入院。
一回の入院期間は二週間から1ヶ月くらいかかりました。
両手に点滴、口に酸素吸入、胸に携帯心電図、心電図に乱れがあると看護士が様子を診に飛んできてくれます。
これ程何度も入院すると循環器科は安心する実家のようです。
あまりの入院続きに原因の一つとして人工透析を受けることに。
まず腕の静脈と動脈をつなぎ血流を増やすシャントをつくる手術を受けました。
退院後自宅近くにある透析クリニックを紹介してもらいそこに死ぬまで週三回、一回4時間から5時間かかります。
医療費は年間450万円ほどかかりますが
障害認定級により自己負担額が決まります。
ようやく心不全も起こさず体調は安定していまに至ります。
つぎは白内障の手術受けました。
元々近視でしたが焦点を遠くがよく見えるか近くに持って来るか決められます。
手術後顔のしみや部屋の隅のほこりが目立って見えました。びっくりでした。

順調に

2021-05-13 14:21:26 | 日記
人工透析が始まってからは心不全にもならず、体調も安定しています。
体重も一定に保たれ(究極のダイエット)とひそかに思っています。

けれど切断した足の小指のとなりの指をぶつけ骨にひびが入ったり、白内障の手術したり昨年末には一過性脳虚血発作で救急車のお世話になりました。
今年は数年ぶりに他科の受診後に足が重く動けなくなり酸素飽和量が87で緊急入院しました。
カテーテル手術で細くなってる心臓の血管にステントを入れたり、風船でふくらまし血管を拡げたり骨盤や足のつけの血管も同じく。

コロナ下の入院なのでPCR検査の結果が判明するまでの24時間は個室でした。
緊急入院なので家族に必要な物を持ってきてもらったのですが本人には会えず病棟の入口で看護士さんが受けとりはこんでくれます。
大部屋内はベッド回りをカーテンで仕切り患者どうしの会話も出来ない徹底した感染防止ぶりです。
出入りするのは医師や看護士のみ、今まで経験したことのない入院期間でした。


3週間前の夜家の前で転び左足2か所骨折し不自由な生活を送っています。

大学病院の神経科、産婦人科以外全科制覇しました。
ここで何度も命を救ってもらい今でも普通に生活出来ています。


ハワイ旅行

2021-05-10 10:07:20 | 日記
バイパス手術は一旦心臓を停め人工心肺装置につなぎ、詰まっている血管から左足内側、左腕内側、胃の前の血管をつなぎ循環させました。
胸骨を左右に切ったあとは輪っかでつないであるのでレントゲンには輪っかが数本写ります。
手術の翌日から早期離床であるいてトイレに行かされました。
手すりを伝わってじわりじわりと歩くつらさ。
3、4日で個室から4人部屋へ移動。
心臓血管外科は、手術が終わったら退院まで早いです。

手術前日、娘たちに電話しょうか悩みましたが万が一手術中に死んでしまったら
やはり虫が知らせたのね、となりそうな気がして辛抱しました。
子どもたちは術後のICuには面会に入れませんので普段通りに暮らしておくよう手術のことは知らせませんでした。
私はひとりっ子で両親、父は3年前母は1ヶ月前に亡くなっていましたので夫だけが手術中待機してましたが、先に手術が済んだ小学生のお父さんが一緒にいてくださったと聞きました。ありがたいことです。
Icuで麻酔から覚める瞬間のことです。ベッドの左側の上から両親が心配そうに見つめていました。
あれ、今私どこにいるのと思った時麻酔からさめました。
すると医師たちが現れのどや腹に刺さってたチューブをいきなりひきぬきました。
Icuには2、3日いましたが、まわりがバタバタとあわただしくなるとどなたかが亡くなっていきました。
生死が紙ひとえの世界でした。
手術後から糖尿病のインスリン注射が朝昼晩と寝る前に射つようになりました。
以来現在にいたるまでずっと射ち続けています。

無事退院して5ヶ月後にハワイ旅行に娘2人を連れていきました。

まだ死ねません

2021-05-09 09:09:28 | 日記
カテーテル手術の最中は、鼠径部の部分麻酔なので声かけて返事を受けて意識の確認をされました。
「先生、私まだ死ねないんです。子どもたちはまだ小さいし、母が亡くなってまだ日もたたず、遺産もまだ一円もな使ってないので」「大丈夫、助けるから」
ナースステーションの隣の病室で半裸のまま、意識朦朧の状態です。
心筋梗塞は二回目の発作が起こると致死率がぐんと上がるそうです。
留守番している娘たちは、小5、小1でした。
22年前はまだスーパーに売っている惣菜もなく、ママ友が毎晩ごはん食べさせてくれてました。ありがたいことです。

退院間近のリハビリで五階の階段を上り下りをするとのこと、普段の生活でもそんなしんどいことやらないのに。
担当医師は石田純一さんに似ていました。
命も助かり無事退院しました。
病院食のおかげかスッキリ痩せてました。
自宅に戻ると実家の仏壇が鎮座してました。
入院中に夫が運んでくれたのです。
お寺さんに魂を抜いてもらい、買った仏壇屋さんに運んでもらったとのことです。
退院3ヶ月後、またしんどい日々が。
受診してバイパス手術をすることに。
翌年1月に手術決まりました。
担当教授医師から教授室で説明を受けて
「何か質問は?
「実はハワイ旅行が当選しているのですが、手術後、いつになれば行けますか」
「前向きでよろしい」




過去1999年以来に14の病気患いました。

2021-05-08 22:00:42 | 日記
始まりは、心筋梗塞でした。
母がガンで入院してたので毎日仕事帰りに顔を見せてソッコー自宅に戻り、子どもたちの夕食作りの日々。
夏の真っ盛りに大汗かいて見舞いに行った病室でインターンの担当医師が、私の様子を見て外来受診を勧めてくれました。循環器科で検査中でした。
そんな生活していたんですが、1ヶ月に母が旅立ちました。
そんなこんなでようやく仕事に復帰した初日の夜中に寝ていたら急にゾウが胸を踏みつける様な苦しさで目が覚めました。
苦しい時に飲むようにと、処方されていたニトログリセリンの錠剤を飲むが一向に苦しさがおさまりません。
これはおかしいなぁ、重大なことが起こってる。あわてて救急車を自分で呼びました。
冷静に住所氏名、状況を伝えた積もりでしたがなんと無意識に旧姓を伝えていたらしく、救急隊員さんから旧姓でよばれました。
自分では簡単に考えて処置してもらったらその場で帰れると、夫に自家用車で追いかけてもらいました。
早速カテーテル手術とのこと、それが終わったらすぐ帰れるって思い夫にまっててね、夫にストレッチャーに乗って声かけたら医者が何言ってるの、あんた死にかけてるんやで。
それ以後の記憶がありません。
結果49日間入院しました。
真下の病室フロアーで母が1ヶ月前になくなっていたんです、そこで私は命を救ってもらいました。