北条泰時が開基した常楽寺(神奈川県鎌倉市)。泰時の墓石がある(出所:Wikipedia)


◎日本の未来を見据えていた12人(第10回)「北条泰時」

(倉山 満:憲政史研究者)

 これほどドラマの主人公にしづらい偉人は、いないのではないだろうか。

 揉め事が起こる前に解決してしまう。だから、ドラマが起きない。地道な仕事だけを黙々とこなす。派手さが無い。

 そして、業績がわかりにくく大きすぎるので、その偉大さが理解できない。

 鎌倉幕府第三代執権・北条泰時とは、そのような人物である。

[JBpressの今日の記事(トップページ)へ]

頼朝の武家政治を模範に

 南北朝の動乱期、宮方(南朝)の総帥として武家方(北朝)と戦った北畠親房は、歴代天皇の年代記として『神皇正統記』を記し、南朝の正統性を称えつつ、鎌倉幕府のような武士の世の再現を目指して足利幕府に従った武士たちの非道を糾弾した。

 だが、その『神皇正統記』で激賞されている人物が2人いる。1人が、前回の本欄で取り上げた源頼朝。もう1人が今回の主人公、北条泰時である。親房は、「頼朝泰時がいなかったら日本は無かった」とまで激賞している。

 敵であるはずの親房にまで、このように賞賛される北条泰時とは、如何なる人物であったのか。

 泰時は、寿永2年(1183年)生まれ。源平合戦の渦中である。父は北条義時。頼朝の側近だったが、目立たぬ存在であった。祖父は時政。頼朝の義父として側近の地位にあった。頼朝の妻が北条政子。時政の娘で義時の姉である。

 頼朝は、幼少の頃から泰時の聡明さと穏やかな人格に、目をかけていた。泰時には数多の逸話が残るが、そのほとんどにおいて賢明な人格者として称揚されている。あまりの賞賛の列挙は、そのすべてが事実と断定するのに躊躇するほどだが、泰時がそのような人物として伝わっているという事実は認識できる。

 泰時は武勇にも優れていて、13歳で流鏑馬を務めている。

 泰時も終生、武家政治の模範として頼朝を尊敬した。事実、頼朝が始めた道理と公正の政治は、泰時において完成、歴代武家政権に模範として受け継がれていくこととなる。

 頼朝を継いだ二代将軍頼家には嫌われた。頼家は、人格的にも政治的にも、未熟だった。泰時は、飢饉の際にも蹴鞠(けまり)に没頭する頼家に対し、理を尽くして側近を通じて諫言した。当時の頼家は、鎌倉幕府の実力者であった時政や義時も手を焼いていた。19歳の泰時を若輩と侮った頼家は(自分も20歳なのだが)、「時政・義時をさしおいて」と激怒する。泰時に所領の伊豆での謹慎を命じる。これに対し泰時は、「用があって帰る」と下向した。泰時の正義感を示す挿話である。

 その伊豆でも飢饉に民は苦しんでいた。特に、領主が農民に米や金を半ば強制的に貸し付けており、もはや夜逃げするしかない。そこで泰時は領主への借金の証文を持ってこさせ、皆の前で燃やして見せた。領内の民は、泰時への感謝と北条一門の繁栄を願ったとか。この種の逸話だらけの人物は、泰時以外だと聖徳太子くらいだろうか。

 頼家は、時政・政子・義時ら北条一族主導で将軍を廃され、弟の実朝が三代将軍に就任した。実朝は当代一の文化人で、穏やかな性格は泰時と合った。実朝は若い御家人から学識豊かな者を集めて学問所番を設置したが、その筆頭が泰時であった。

 文武に優れ、人格穏やかだが、時の最高権力者にも諫言する正義感。父、義時にも臆せず意見したとの記録も残る。

 慢性的に血なまぐさい政争が続く鎌倉幕府で、最高権力者の地位を獲得したのは北条義時である。義時は戦いの中で、父の時政をも放逐した。だから、義時の評判は、すこぶる悪い。やり手だが、陰険な政争家との評価で一致している。その反動が泰時への極端な評価となったとも言える。

朝廷を武力で「制圧」

 泰時は成長するにつれ、比企合戦、和田合戦、承久の乱と義時の戦いに参加する。北条家は常に楽な戦いをしていたわけではなく、自分たちの傀儡である実朝を暗殺されたことで、苦境に陥っていた。将軍不在を好機と見た後鳥羽上皇は、鎌倉から権力を奪還しようと兵をあげた。

 朝敵となった義時を救ったのが、政子だった。政子が朝廷に犬のように使われていた武士の境遇を救い出してくれた故・頼朝の恩を説くと、北条氏に反感を持つ武士たちも一斉に立ち上がった。総勢十九万とも言われる武士が集結し、京都に向かって進軍する。その総大将が泰時だった。

 戦いは、鎌倉方の圧勝だった。だが、楽勝ではない。京都突入を阻止しようとする上皇軍に対し、幕府軍は宇治川を渡れずに苦戦していた。泰時は激戦の中で息子と部下を死なせ、自分も責任を取って激流の宇治川に突撃しようとしたほどだ。総大将ともあろうものが血迷っていたとも言えるし、責任感の裏返しでもあった。

 義時の戦後処置は過酷を極め、幼帝は廃位。践祚(せんそ:皇嗣が皇位を受け継ぐこと)はしたが即位(皇位の継承を宣言すること)をしないままの廃位で、御所の地にちなみ「九条半帝」と呼ばれた。「仲恭天皇」のおくり名がなされるのは実に明治3(1870)年、649年後である。乱の首謀者である後鳥羽上皇と順徳上皇は島流し。さらに自ら申し出た土御門上皇も配流となった。等々、皇室にとって驚天動地の大事件である。江戸時代の国学が、義時・泰時親子を逆賊として扱ったのは、理由がないことではない

 しかし、義時を頂点とする鎌倉幕府からしたら、「主上御謀反」なのである。ちなみに乱の直接のきっかけは、「土地裁判で後鳥羽上皇の妾に依怙贔屓をせよ」である。完全に因縁を付けられているのだが、もしこれを認めれば、1つの所領に一族の命を懸ける「一所懸命」の武士の存在意義の否定である。政子が説いたのは、この道理だった。道理に逆らうものは、治天の君でも謀反人である。ただし、皇室そのものは絶対に廃さない。日本独特の法原理である。

 学者の中には、承久の乱こそ真の鎌倉幕府の成立だと説く者もいるほどだ。強力な抵抗勢力として残存していた朝廷に対し、鎌倉の武力が優越した瞬間だった。

 だが、軍事力だけでは政権の運営はできない。泰時は叔父の時房とともに六波羅探題を設置、戦後処理・治安維持・行政の安定化に務めた。中世において最も重要な行政とは、土地をめぐる訴訟である。泰時は時房と協力し、京都を中心に西日本一帯に鎌倉幕府の影響力を強めた。

時房と築いた集団指導体制

 貞応3年(1224年)、父の義時が死に、跡目争いが起きかけたが(伊賀局の変)、政子の裁定で泰時が後継者となった。翌嘉禄元年(1225年)には、頼朝以来の鎌倉幕府最高の頭脳であった大江広元、そして尼将軍と言われた政子が相次いで死去した。

 この時、泰時は42歳。この時代の平均年齢を考えれば円熟と貫禄の歳なのだが、あえて独裁を回避した。あらゆる最高文書には叔父、時房の連署を求めた。そのことから時房は、「連署」と呼ばれる。2人は「両執権」とも称された。泰時と時房の盟友関係は強固で、生涯一度も裏切ることがなかった。時房もまた文武両道に優れた人格者で、承久の乱後の不穏な社会を鎮めるのを主導したのが、鎌倉幕府安定化の理由でもある。

 さらに、泰時は「評定衆」を設置する。集団指導体制による裁判の効率化が目的である。学者と実務官僚を並べ、実力者の訴訟への介入を回避した。この時代の土地裁判は利害調整が目的であり、現代で言えば“陳情処理”が実態に近く、実力者の利害調整の場なのである。だが泰時の政権においては、幕府実力者でも裁判実務に向かない者は徐々に評定から排除されていった。

 同時に北条宗家に家令の制度を導入、自らの手足となる側近制度を充実させた。後年の、得宗専制を支える御内人の原型である。北条宗家の政治力が北条庶流や他の御家人を圧するからこそ、泰時の融和的な姿勢が可能になるのだ。簡単な話だが、力なきものが温和な態度を取っても舐められるだけだ。泰時が実行した穏健な政治姿勢は、最強の力を持つからこそ可能だったのだ。

 嘉禄2年(1226年)、摂関家の九条家より迎えた藤原の頼経が正式に征夷大将軍となった。儀式を行う存在にすぎないが、泰時は「鎌倉殿」すなわち頼朝の後継者として尊重した。鎌倉幕府とは、「頼朝の理想を受け継ぐ者の政府」なのである。朝廷にはできない公正な裁判を行う者こそが鎌倉殿である。泰時は他の御家人に対し自らが鎌倉殿でなく、同輩中の首席として振る舞った。

イギリス憲法よりはるかに早かった御成敗式目

 そして貞永元年(1232年)、「御成敗式目」(貞永式目)を定めた。

 泰時は執権就任以来毎朝、自ら律令を研究するのを日課とした。評定衆の中から特に学識に優れた太田康連、矢野倫重、斎藤浄円、佐藤業時をブレーンとして、長年の研究を重ねていた。

 泰時の考えは、その書状に残されている。既に律令は、武士の世の現実に合わなくなっていた。誰も公家法を顧みようとはしない。法を知らねば、法を破っても罪悪感が無い。刑罰が軽い律令を破り、武家法にのみ従う武士が続出していた。こうした法秩序の紊乱(ぶんらん)に対し、裁判は頼朝公以来の先例常識や道徳で行ってきた。しかし、常識や道徳は常に移り変わるし、先例が無いこともある。また、違法が先例となった例もある。たとえば、北条時政が盗賊を検非違使に渡さず死刑にした事例だ。検非違使に渡さないことも死刑にしたことも公家法では違法だが、現実には時政の行為によって秩序が生まれ、守るべき先例、法として踏襲されていったような事例だ。こうした社会情勢の変化に対し、現実に即した法体系を成文化すべきである。

 かくして、51条の法典ができあがった。

 後年、鎌倉幕府を倒した建武の親政が混乱し、足利尊氏・直義兄弟は幕府を再興した。足利幕府とは御成敗式目による秩序を理想としていた。その政権発足に際し発せられた建武式目は、御成敗式目の追加法である。江戸幕府の武家諸法度も、式目の後継法である。

 現代の民法でも「権利の上に眠る者は保護されない」と、土地を占有した者が20年住み続ければ元の権利者から所有権が移るとされるが、これは御成敗式目に遡る。

 まさか泰時が令和の日本を見通していたわけではないが、現実に立脚した法を体系化したからこそ今でも通用する原則となったのである。

 さらに言うなれば、江戸の寺子屋では御成敗式目が習字の教科書として使われた。江戸の子供たちは男女問わず初等教育で、国語と道徳と歴史を同時に学習したのである。それに耐えるだけの哲学と実用性が御成敗式目には存在したのだ。

 自身が法学者となった泰時の哲学は、実はイギリス憲法に照らすとわかりやすい。

 イギリス法の原理は2つである。1つはCommon Law。いわゆる伝統法である。もう1つが、Equity。衡平と訳される。イギリス人は歴史の中に蓄積された先例の中に紛争解決の知恵を求める。同時に、新しい社会に対応できる知恵として、常識や道理を重んじる。

 御成敗式目の精神である「頼朝公以来の先例と道理」を思い起こすではないか。

 イギリスのマグナカルタが1215年。そこから400年の停滞を経て、17世紀に2度の革命を乗り越えて、そこから数百年かけてイギリス憲法は生成発展してきた。イギリス憲法は世界中の憲法の模範として尊敬されている。そのイギリス憲法と同じものを、マグナカルタと同時代の日本人が法典としてまとめたのである。

哲学があった実務家

 泰時の治世は概ね平穏に推移した。時に紛争が起きても、泰時がたちどころに解決するので、大きな戦乱や政変に至らない。その最後が、仁治3年(1242年)に四条天皇が崩御した際の皇位継承問題だった。泰時は順徳天皇の子孫を快しとせず、後土御門天皇の系統が皇室の直系となる道を選んだ。こうして即位したのが後嵯峨天皇である。この天皇が自らの皇位継承で持明院統と大覚寺統の争いを引き起こし、南北朝の動乱を招くなど、さすがの泰時も見抜けるはずがない。

 泰時とて、失敗することもある。「飢饉のたびに人身売買を解禁し、その後に禁止する」のような政策を繰り返してもいる。

 だが、文武両道に優れ、自らを律し、職務に誠実に、しかし他人に侮られない宰相であり続けた。

 泰時本人の意識は、頼朝の掲げた理想を実務的に実行した現実主義者だったろうし、事実その通りだ。だが、一流の学者であった泰時には、行動の端々に哲学が垣間見られる。

 最後に。日本国の最高法典は17の倍数である。

 聖徳太子憲法は、もちろん17条。律令は、律が6条、令が11条。御成敗式目は17の3倍。建武式目は、17条。禁中並公家諸法度も17条。大日本帝国憲法は全文こそ76条だが、第1章天皇は17条。しかも無理やり1条を増やしている。

 唯一例外が日本国憲法で、103条。補則の1条でも削れば17の倍数になったのだが、無理やり日本の伝統とかけ離れたのか。あるいは、このような日本の伝統とかけ離れた憲法など、そう遠くない未来に捨て去るべきだとの暗号か。

 実務家こそ歴史に学び、哲学を見出してほしいものだ。

筆者:倉山 満