【科学が立証】豊臣秀吉「本能寺の変を事前に知っていた」説は正しかった

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【科学が立証】豊臣秀吉「本能寺の変を事前に知っていた」説は正しかった 科学の成果が、歴史を裏付けた…! - ライブドアニュース

 

 

行軍する兵士たちの消費エネルギーから排泄物の量まで計算して「中国大返し」の難易度を検証した『日本史サイエンス』が、日本史ファンの間で話題を呼んでいる。「科学的」に導かれたのは、「中国大返しを実現させた豊臣秀吉は、本能寺の変が起こると事前に知っていた」という意外な結論だった。はたして、秀吉は明智光秀の裏切りを察知していたのだろうか? 「本能寺の変」研究のトップランナーである三重大学の藤田達生教授が、この結論を徹底検証した。

 

実際の行程を推定してみる

本能寺の変のあと、秀吉が光秀を倒して信長の後継者として認知され、天下の趨勢を決したのが「中国大返し」だった。それは、秀吉が中国地方の毛利氏攻略のため布陣していた備中高松城(岡山県岡山市)から、光秀との決戦の場となった山崎(京都府大山崎町)までの常識を超えた高速の行軍だったとされている。

 

6月5日~13日、高松から山崎まで8日間で走破した「中国大返し」の行程図(筆者の推定)

 

 

『日本史サイエンス』第2章「秀吉の大返しはなぜ成功したか」において著者の播田安弘氏はこの行軍を、読者が理解しやすいよう、約30kmをコンスタントに8日間歩いたという想定のもとで難易度を科学的に考察している。

ただし実際の中国大返しは表に示したように、備中高松から秀吉の本城だった姫路城(兵庫県姫路市)までの前半と、姫路城から山崎までの後半では、異なる性格をもっていたと考えられる。

 

中国大返しでの日ごとの移動距離と宿営地

 

前半は、毛利軍の追尾を警戒して2~3日間で92kmを走破するという猛烈に速い進軍だったのに対し、後半は、明智光秀側の動きもにらみながら慎重に行軍している。たとえば、光秀と親しい土佐の長宗我部元親の摂津上陸を阻むため、別動隊が淡路を攻撃したのは効果的だった。

筆者は、実際の1日あたりの平均行軍距離は、前半3日間は約30km、後半5日間は約20kmだったと判断する。また、前半の姫路城に帰るまでに必要な物資は、ふだんから用意されていたと考える。そして姫路城において、6月9日からの後半の行軍に必要な物資が、総がかりで準備されたとみるべきであろう。

兵士の食料を手配するのは不可能

さて播田氏は、大返しに従軍した兵士の1日あたりの消費エネルギーを割り出すことで、注目すべき指摘をしてみせた。

兵士の体重を、旧帝国陸軍の兵士の平均体重52kgと仮定し、1日の行軍時間を8時間、携行品は鎧・鉄砲・刀・長槍など約30kgの重量があったとして、運動強度を数値化したメッツ値をもとに計算し、この行軍では、兵士の1日あたりの消費エネルギーは約3700kcalに達していたと見積もったのである。これは、東日本大震災で救助活動にあたった警察官や自衛隊員の1日あたりの消費エネルギーに匹敵するという。

6.5(メッツ値)×8(時間)×52(kg)×1.05(係数)
    +1.0×16(時間)×52(kg)×1.05(係数)=3712.8(kcal)

※1日あたりの消費エネルギーは以下の式で求められる
 メッツ値×運動時間×体重×1.05+1.0×安静時間×体重×1.05

これだけのエネルギーをまかなうには、兵士1人あたりで1日に、おにぎりにして約20個が必要となるという。全軍2万人ではじつに約40万個となり、重量にすれば約40tにもなるというのである。

明智光秀(本徳寺蔵)

 

ただし、2万人というのは山崎の戦いにおける秀吉側の軍勢であり、秀吉の御咄衆(おはなししゅう)であった大村由己が著した『惟任退治記』によれば、この軍勢には総大将の織田信孝をはじめとする大坂城からの合流軍が含まれていたので、実態としては大返しの総兵数は1万人程度と推測するべきである。

そこを修正して計算すると、必要なのは毎日約20万個のおにぎりとなり、重量にすれば約20tとなる。これは播田氏の想定の半分である。

しかし結論としては、それでも播田氏による検証と同じで、これだけの食料を緊急に、必要な地点に手配することは、ほとんど不可能と言ってよいだろう。

自衛隊の猛訓練に等しい疲労感

播田氏の計算を援用すると、それに加えて飲料水は毎日約2万Lが必要で、四斗樽にすると277個となる。さらに味噌や塩、梅干しなどの副食品も必要不可欠である。進軍には、武将用の騎馬900頭、輸送用の駄馬1050頭が必要であり、すると飼葉や水なども必要で、さらに、それらを運送する駄馬も確保せねばならない。

しかも、当時の山陽道は未整備で険しい山道が多く、とくに最大の難所とされる船坂峠(岡山県と兵庫県の県境)は高低差が大きく、道も狭くて滑りやすく、梅雨時でもあることから行軍にはかなりの困難をともなったとみられる。

播田氏は、現在の自衛隊の空挺団には、30kgの装備を携行して山岳地帯の100kmを2泊3日で踏破するという行軍訓練があることを紹介し、中国大返しに従った兵士たちの消耗度は、現代の選りすぐりの自衛隊員に課せられるのと同様の訓練を、8日間にわたって強行した場合にひとしいと指摘する。そして、はたして山崎の戦いで兵士たちはまともに戦えたのか、「大きな疑問」であるとしている。

これに関しては、宣教師ルイス・フロイスがその著書『日本史』にこのように記しているのが参考になる。

この軍勢(秀吉軍)は幾多の旅と道のり、それに強制的に急がせられたので疲労困憊していて、(予想通りには)到着しなかった。

山崎の戦いでは、秀吉軍の兵士は、播田氏の疑問通りだった可能性が高い。

豊臣秀吉(高台寺蔵)

 

疲れ切った兵士でもよかった

ならば、なぜ結果的に秀吉は勝利を収めたのであろうか。

秀吉は、みずからの体験によって、情報と宣伝が戦いの勝敗を決定することを学んでいた。極端にいうならば秀吉は、戦場では使いものにならなくても、可能なかぎり早く兵を返せばよいと判断していたのではあるまいか。

実際に、「秀吉、無事帰還す!」との情報が、分散し、情勢を日和見していた旧織田家臣団を味方につけ、ひとつにまとめることに直結した。とくに、戦場となった山崎に近い地元勢力である摂津高槻城主の高山右近や、摂津茨木城主の中川清秀の参戦は、形勢を決定的なものにした。

秀吉は自身の最大の課題を、「奇跡の中国大返し」に成功したと喧伝することに絞っていたと考えられる。実際の戦闘は、高山氏や中川氏ら、地元摂津の大名衆に委ねればよかったのである。現に、山崎の戦いで最前線に布陣したのは秀吉軍本隊ではなく、中川清秀、高山右近、木村重茲、池田恒興、加藤光泰ら、いずれも摂津および畿内の諸将であった。

 

山崎の戦いの布陣図。最前線の中川清秀、高山右近、木村重茲、池田恒興、加藤光泰は大返しをみて秀吉に従った畿内周辺の諸将

 

 

播田氏は、中国大返しに関する考察の結果として、次のように述べる。

中国大返しにともなうリスクを小さくするためには、あらかじめこのような行軍が必要になることを想定し、それを実行するために時間をかけて、さまざまな準備をしておくしかないことがわかります。言い換えるならば、そうした準備が整い、リスクより成功の期待値のほうが十分に大きくなったと判断したからこそ、秀吉は中国大返しに踏み切ったのでしょう。

大返しのリスクを軽減するには、事前にその必要性を想定し、さまざまな準備をしておくしかなかったというのである。では、秀吉にはなぜそれが可能だったのだろうか。

あらかじめ見抜いていた「光秀の謀反」

拙論(『本能寺の変』講談社学術文庫)によると、織田家臣団のなかで生き残りを懸けて光秀との派閥抗争の渦中にあった秀吉が、本能寺の変を事前に想定していた可能性は十分にある。実際に、光秀の謀反の真因に関連して、変からわずか4ヵ月後の天正10年10月に著された『惟任退治記』(前出:大村由己筆)には、次のような一節がみえる。現代語訳して掲げよう。

光秀は、将軍足利義昭を推戴し、2万余騎の軍勢を編成して、備中に向かわずに、密かにクーデターを企てた。これはまったく発作的な恨みからではなく、年来の逆心からであることを、(人々は)知り察していた

大村らの秀吉側の人間にとっては、光秀が信長に対して「年来の逆心」を抱いていることは、常識に近かったと思われるのだ。

とりわけ、信長が四国外交の方針を変更し、それまで光秀が良好な関係を築いてきた長宗我部元親の討伐を決めたことは、光秀の体面を大きく傷つけ、恨みにつながったと容易に推測できる。大村が書いている「将軍足利義昭の推戴」も、一見唐突だが、意外に違和感がなかったことなのかもしれない。

情報の重要性を熟知していた秀吉が、こうした状況のなかで、光秀や毛利氏の周辺などにアンテナを張り、光秀の叛意をあらかじめ察知していた可能性は高い。

敵方・毛利を震えさせた秀吉の言葉

そのことを強く示唆する史料として、毛利氏家臣の玉木吉保が記した「身自鏡」(みのかがみ)の一節を紹介しよう。本書は元和3(1617)年に成立したもので、毛利元就・輝元・秀就の三代に仕えた吉保の自叙伝として広く知られている。

本能寺の変の報を6月3日夜に知った秀吉は、翌4日に毛利氏と講和を結んだ。吉保は、このときの秀吉と毛利氏の外交僧・安国寺恵瓊(えけい)との講和交渉のシーンを、次のように活写している(現代語訳は筆者)。

秀吉(右)との講和交渉に臨んだ安国寺恵瓊(月岡芳年『教導立志基三十三:羽柴秀吉』)

 

羽柴秀吉が安国寺恵瓊を密かに(石井山の陣所に)呼んで、中国(毛利氏の領国)を平定するための私の謀(はかりごと)を見せようと仰り、(毛利氏家臣で)味方になった武将たちの連判状(名前と花押を据えた文書)を(恵瓊に)投げ出された。そこから洩れている(毛利家の主な)武将は、五名にすぎなかった。恵瓊は肝を潰し、膝を震わせた。秀吉は、このような計略はかつて日本にはなかったと思っていたところ、毛利輝元殿の御謀(おはかりごと)が深かったため、信長がお果てになってしまったと仰り、したがって今は毛利・吉川・小早川の御三家と和睦して上方に戻り、明智光秀を討ち果たして信長の恩に報いたいので御同心いただきたいと、起請文(神に対する宣誓文)を作成のうえで仰った。

秀吉は毛利氏との大決戦の前に、毛利方の多数の重臣をあらかじめ寝返らせるという「かつて日本にはなかった」空前の計略を実現していたことを明かし、恵瓊の膝を震わせるほどのショックを与えた、と吉保は記しているのである。

しかし筆者には、なぜ毛利氏が秀吉との講和にただちに応じたのかが、長い間、腑に落ちなかった。

この時点では、秀吉は北近江三郡と播磨・但馬・因幡を支配していたにすぎない。それに対し、毛利氏は10ヵ国に影響力をもつ大大名であった。彼我の軍事力の差は歴然であり、毛利氏は講和を引き延ばせば引き延ばすほど有利だったはずだ。にもかかわらず、なぜ秀吉の思惑のまま即座に講和に応じたのだろうか。

その答えは、引用した「身自鏡」の、太字にした箇所にあった。

毛利輝元殿の御謀が深かったため、信長がお果てになってしまった

毛利輝元(毛利輝元博物館蔵)

 

この部分の意味を、筆者は理解しかねていた。しかし、信長に京を追放されて備後の鞆(とも)の浦(広島県福山市)に亡命していた将軍義昭を介して、天正10年2月、安芸の毛利氏が土佐の長宗我部元親に軍事同盟(芸土同盟)を持ちかける動きがあり、それが同年5月までに義昭と明智光秀の交信をもたらし、ついに本能寺の変が発生したことが判明したことで(前出拙著『本能寺の変』)、はじめて解釈が可能になった。

すなわち、6月4日に秀吉が恵瓊に語った「毛利輝元殿の御謀」とは、土佐経由での義昭と光秀の連携であり、それによって光秀がクーデターを起こしたことを、この日までに秀吉が知っていたと解釈することができる。秀吉は独自の情報網を駆使して、本能寺の変の裏面まで正確に理解していたことになるのである。

毛利氏の中枢にいた恵瓊は、こうした本能寺の変の裏の人間関係を知っていた可能性がある。だからこそ秀吉のおそるべき情報収集能力を見せつけられ、肝を潰したのだ。毛利氏が即座に講和に応じたのは、恵瓊が毛利氏の生き残りを秀吉の将来に賭けたからではないか。

現地に行けばわかる「通説のありえなさ」

もしもこのような理解が成り立つなら、播田氏の指摘のように、秀吉はあらかじめ謀反を想定し、そのときに備えてリスク軽減に努めていたと考えることができる。

ここで1ページ目に掲げた表に記した、秀吉軍の宿営地に注目したい。万を超える軍勢が野営(いわゆる野宿)を続けるのは体力が著しく消耗するため、長距離行軍では寝場所の問題は深刻なのだが、これだけ手回しよく沿道の城下町や寺内町を確保できたことは、偶然とみなせるものだろうか。

常識的には不可能な中国大返しが見事に成功した要因の根本には、秀吉の神業のような情報収集能力があった。もはや、光秀が毛利氏に派遣した密使が誤って秀吉方の陣所に入ったため、秀吉が毛利氏に先んじて信長横死の情報を得た、といった通俗的なイメージは、当然のことながら再検討されなくてはならない。

織田信長(長興寺蔵)

 

そもそも、このような重要な用件を託された使者が、敵陣に迷い込むなどというミスを犯すだろうか。この疑問は、実際に備中高松の故地に立ってみれば氷解する。秀吉陣所があった石井山は、直線距離にして、吉川元春の陣所があった岩崎山とは2km、小早川隆景の陣所があった日差山とは4kmも離れていて、しかも、向かう道筋も異なっている。そのような事態が起きる可能性はきわめて低いのである(拙著『秀吉神話をくつがえす』(講談社現代新書)。読者にも実際に現地を訪ねてみることをお勧めする。

戦場のインテリジェンス

かりに秀吉が光秀の使者から情報を得たのだとしても、それをただちにインテリジェンス(精査した情報)として信用するはずがない。敵方がもたらした情報や風聞は参考にはなりえても、それによって政策決定することなど、ありえないのである。もしも情報が誤報や謀略であるにもかかわらず、勝手に毛利氏と講和し、全軍を挙げて上方をめざしたならば、秀吉のほうが謀反人として信長に処断されてしまうだろう。

秀吉が6月3日に変の情報を得るや、迷うことなく毛利氏に講和を持ちかけたのは、自前のルートで、クーデターに関するインテリジェンスを誰よりも早く入手していたからにほかならない。そして、そのためには、変が確実に勃発すると予想し、周到に準備していなくてはならないのである。

中国大返しから山崎の戦いまでの主な動き
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以上のように、サイエンスの視点からの播田氏の指摘をもとに考えを進めると、「中国大返し」の成功の理由は、秀吉の圧倒的な情報収集力と危機管理能力、そして、時にみずからに都合のよい虚偽まで交えながら(上の表の6月5日)、日和見の諸将を味方につけた情報発信力にあったことが明らかになる。

今後の歴史研究が積極的に採り入れるべき重要な視点を呈示していただいたことを、播田氏に深く感謝したい。

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