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幕末維新の情熱はいずこへ? いつから日本人の頭は悪くなったのか
岩倉使節団。明治6年から既に、日本人の頭は悪くなっていた
と解く 博識の著者主張 以下に 全文引用
倉山満
iRonnaのノーベル賞特集の記事です。
幕末維新の情熱はいずこへ? いつから日本人の頭は悪くなったのか
なんでもかんでもGHQのせいにしても仕方がない。
これだから日本人は…。吐き捨てるように使われる枕詞(まくらことば)だ。
曰(いわ)く、島国なので田舎者根性が強くて卑屈だ。曰く、争いごとを好まない性格なので、世界と戦えない。曰く、傑出したリーダーが出てこない。いても潰される。
では、その日本人の性質について、神武創業以来2600年間一貫してそうであったと証明した上で発言しているのであろうか。
島国根性だと言うなら、卑屈さのカケラもないイギリスはどうなのか。世界と戦えないなら、北条時宗はなぜモンゴルに勝ったのか。傑出した指導者など、天武天皇、藤原不比等、源頼朝、北条泰時、足利義教、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康…わが国史では無限に数えられる。
何より、明治維新をやり遂げ、日露戦争に勝利したわれわれの先人たちは、「世界史の奇跡」とさえ呼ばれる。
いわゆる日本人にかかる枕詞は、明治までの日本人には、ほとんど無縁だ。確かに圧倒的多数の国民は“ノンキ”だったかもしれないが、“ノンキ”でいられたのは、危機に際しては“やるときはやる”のが日本人だったからだ。「これだから」の日本人になるのは、日露戦争以後の話なのである。
では、いつから日本人は頭が悪くなったのか。私は二つの答えを用意している。ただ、答えの前に、わが国近代史における教育を振り返りたいと思う。
日本が“ノンキ”でいられなくなった時点は、特定できる。1756~63年の七年戦争のときだ。七年戦争とは、ヨーロッパの五大国が世界の大国になった戦争である。発端はオーストリアとプロイセンの領土紛争であり、フランスとロシアがオーストリアと結び、イギリスはプロイセンを支援した。五大国の抗争は世界中に飛び火し、1762年9月にイギリスはマニラを占領した。当時のフィリピンはスペインの植民地であり、イギリスはフランスに味方したスペインとも抗争した結果、アジアにも大戦は飛び火したのだった。
さて、これが日本にとって意味するところは何か。いわゆる「鎖国」が不可能になったということである。17世紀、日本はポルトガルとスペインを締め出し、オランダを長崎の出島に閉じ込めた。彼らヨーロッパの大国は、日本の前になすすべがなかった。日本の軍事力が彼らのそれに上回っていたからだ。
当時のスペイン・ポルトガルとオランダは、三十年戦争で抗争していた。いわば江戸幕府は、三十年戦争にオランダ寄りの中立を示したこととなる。中立を可能にするのは武力である。「鎖国」とは、江戸幕府による武装中立なのである。
1762年のマニラ陥落とは、その武装中立が不可能になったことを意味する。ポルトガルを追い出してから100年以上、江戸幕府は泰平を貪(むさぼ)っていた。軍事力は放棄されたに等しい。それに対してヨーロッパは絶え間なく戦乱を続け、今やアジアにまで進出している。仮にヨーロッパ人が日本に来なかったとしても、タマタマに過ぎない。
現に1808年、フェートン号事件が発生した。ナポレオン戦争の最中、イギリス船がオランダ船を追い回し、長崎を荒らしまわった。これに対し江戸幕府は、水と薪を与えてお引き取り願うばかりだった。
時の将軍は徳川家斉。50年にも及ぶ長期政権を築く。その治世は、1787~1841年に及ぶ。その間、経済は発展した。しかし、国防努力は何一つなされなかった。「祖法」である「鎖国」にしがみつき、何もしなかったのだ。もはや「鎖国」など不可能であるのはフェートン号事件の一事で明らかだが、幕府の指導者たちは改革を恐れた。平和な時代に国防努力など、敵を作るに決まっている。ならば、国際情勢の現実から目をそらし、安逸を貪る方が安泰だ。経済は絶好調だし、外国から直接侵略されるわけでもない。
1841年、家斉死去の年に改革が始まった。水野忠邦の天保の改革である。隣国の清は、アヘン戦争によりイギリスになぶり者にされていた。一応、江戸幕府の指導者もバカではない。清の次は日本の番だと理解していた。改革、すなわち富国強兵の必要性を自覚していた。そして家斉の死を待った。代替わりの際に権力を握り、その上でできることからやろうとしたのだ。
結果、見事に失敗した。しょせん、水野は官僚である。出自は大名だが、心性は木っ端役人である。既に権力を握っている連中に気を遣い、できること“だけ”やろうとする。日本人基準の「できること」など侵略者には関係ないことを、こういった連中には理解できないのだ。日本を侵略から防ぐのに必要なことをやらねば、殺されるか奴隷にされるだけだ。富国強兵、強い政府を作って税金を集め国の軍隊を作る。ところが、それをやろうとしたら、既得権益層の反発を招く。大名たちは、勝手に年貢をとって自分の軍隊を持ちたい。それを取り上げられるのは真っ平ごめんだ。「それでは日本が滅びる」などという説得だけで、この絶大な既得権益を取り上げられるわけがない。幕府は、そうした大名の上に君臨している。さらに既得権の塊(かたまり)だ。
1853年、ペリーが来るまで何の改革も進まなかった。それどころか、ペリーが来てからも改革は進まなかった。天保の改革、嘉永の改革、安政の改革、文久の改革、慶応の改革…。かけ声はかかるが、本質的には何一つ進まない。延々と議論がされるのが、「参勤交代を緩和すべきだ」「神戸を外国に開国すべきかどうか」だ。いずれも、幕府が滅び、明治政府が外国との交際を始めてみれば、忘れ去られるような話である。ところが、幕末の政治家たちは、「日本を守る」という本質と全く関係のない、これら些末な争点で大真面目に政局を動かしていた。ただ動かしていただけだったが。
ここまで江戸幕府が愚鈍でも、なぜ日本は救われたか。最終的には、正論を押し通す人たちがいたからである。
元治元年12月15日(1865年1月)、長州の功山寺で高杉晋作は決起した。たった1人で、3千人の敵に立ち向かう覚悟だった。功山寺決起に、後の元勲たちが駆けつけた。クーデターは成功し、大村益次郎の天才的用兵もあって、長州は幕府との四境戦争(第二次長州征討)を撃退する。
これを見た薩摩の大久保利通は薩長同盟に踏み切り、討幕をやり遂げる。そして、大久保の手によって、富国強兵は成し遂げられた。
徳川幕閣や旗本八万旗など、幕末維新の危機に何の役にも立たなかった。数百年前の栄光に溺れ、単なる特権階級と化していたからだ。真のエリートではない。真のエリートとは、「己の命よりも責任が重い」と自覚している者である。高杉や大村、そして大久保こそが、真の国を救った真のエリートだった。彼らの受けた教育に注目すべきだろう。
高杉は、吉田松陰の松下村塾の筆頭である。高杉は藩校の「偏差値エリートコース」を捨て、松陰の門を叩いた。松陰の教えは「自分が日本を救うつもりで勉強しろ!」だった。記録に残された松陰を見ると、自分が征夷大将軍になったつもりで勉強し、教え子にも教育している。農民に等しい下級武士の伊藤博文や、足軽の子供の山県有朋に対し、「自分がトップに立ったつもりで勉強しろ!」と説いているのである。そして、自ら実践する。
大村益次郎は、緒方洪庵の適塾の出身である。適塾は医者を養成する私塾だが、原書で西洋の知識を追い求める若者が集まっていた。医学に限らず、あらゆる知識を吸い込み、議論した。住み込みの全寮制。実験と観察、一次資料の考察。ゼミと討論による完全実力制が、適塾の特徴だった。イギリスのイートン校からオックスブリッジのエリート教育と同じことをしていた。
大久保利通は若い頃は郷中教育を受けた。年長者が年少者を指導し、軍事規律のように結束する。大久保は青年期には西郷隆盛らと“自主ゼミ”を開き、いつの日か日本の役に立てる自分になるべく、学びを続けていた。
幕末の最終局面で、高杉が時代を動かし、大久保が正論を通した。それができた土壌は、当時の日本人の少なからずの人たちが「何が正解かを分かっていた」ことがある。
松下村塾や適塾は極端な成功例だが、江戸時代を通じて学問熱は盛んだ。京都には一定数の知識人が常に集まっていた。手紙を通じて、知識人たちは情報をやり取りしていた。負けた側の幕府とて、全員が愚かだったわけではない。幕府や水戸藩は限られた情報(information)から、必死に知見(intelligence)を導き出していた。自分の頭でモノを考えていたのだ。
何より、江戸時代の識字率は、ほぼ100%である。外国は、平民が白痴でも、一部のエリートが国を支えるのが普通だが、日本は国民全体の平均値が国を支えている。
さて、明治になってどう変わったか。
初等教育(今の小中学校)は整備された。それまで寺子屋で教えていたことを、国が責任を持って文盲を作らない制度にした。義務教育である。大日本帝国の義務教育を受けた日本人は、よほどの例外を除き、読み・書き・計算・愛国心を身に付けていた。
一方、高等教育は大失敗した。
勘違いしてはならないのは、日露戦争までの栄光は、江戸の教育を受けた人たちが国を指導した賜物である。その人たちですら、日露戦争の勝利で「平和ボケ」した。日本人の頭が悪くなったのは、明治40(1907)年である。日露戦争勝利の2年後である。なぜ、この年か。
日露戦争の講和であるポーツマス条約が結ばれた時点で、日本はロシアの復讐を恐れていた。こちらは2年の大戦争で弾薬が切れ、国力のすべてを使い果たした。裏切って攻めてきたら、幕末維新以来の努力は水泡に帰す。外交でなんとか時間を稼いだ。
そして、1907年。立て続けに協商が結ばれた。日仏協商、日露協商、英露協商である。日英と露仏は同盟国であり、英仏は既に協商を結んでいる。すなわち、この4カ国が事実上の同盟国となったのだ。仮想敵はドイツ。第一次大戦まで、三国協商はドイツとにらみ合いを続ける。日本だけが安全地帯となった。
ここに緊張の糸が切れた。筆頭元老の2人、伊藤博文と山県有朋が本気の大喧嘩を始めた。伊藤は、デモクラシーの必要性を説く。日清日露戦争に勝つまでは、元老とその傘下の官僚・軍人による指導が必要であった。だが、その課題を達成した以上、民権に移行していくべきであると考え、シビリアンコントロールに着手していく。
それに対して山県は、現実の政党政治家の見識の欠落、特に軍事に対する無知を理由に、むしろ軍や官僚機構の特権を守る方向に走る。これが後の悪名高い、統帥権の独立となる。大正時代は、民権を求める政治家と、特権を守ろうとする官僚の抗争で推移した。それで許された。既に、大日本帝国は世界の誰も滅ぼせない強大な国となっていたのだから。官僚が特権を貪ろうが、国民は民権を謳歌する時代だった。
文官は東京帝国大学法学部出身者が大半であり、陸海軍の将官は陸軍大学校・海軍大学校を卒業した学歴秀才が占めることとなる。学歴秀才とは、採点者が求める正解を答える能力に秀でた者のことである。「一高~東大」「三高~京大」のように、ナンバーズスクールから帝国大学に進む者が自動的にエリートと目されるようになり、同じように陸軍士官学校や海軍兵学校も閉鎖的な世界となった。
自分の頭で考える江戸のインテリジェンスは失われていたが、それでも高校教育における教養と、大学の独自性は存在した。ナンバーズスクールは全寮制であり、共同生活を送るうえで自分の専門外の教養に触れることができた。憲法専攻の学生が文学や工学に最低限の知識があるのは珍しいことではないし、逆もまた然り。
大学も、特色があった。早稲田大は東京専門学校で出発し、政治家とジャーナリストを養成する学校。慶応義塾は、財界人を送り出した。中央大は英吉利法律学校、法政大は東京仏学校が前身である。一橋大や神戸大は、商学部が看板だった。国公立(官学と言われた)でも、北海道大の前身はクラーク博士で有名な札幌農学校であり、農学部が看板大学である。いずれも別に、最初から大学ではない。ただ、やがて大正中期までに、すべて「大学」の看板を掲げ、特色をなくしていく。
昭和初期の愚かな国策については、贅言(ぜいげん)を要すまい。鼻につくエリート意識の高級官僚や陸海軍の軍人たちは、大日本帝国を滅ぼした。ソ連の片手間の中国の片手間のイギリスの片手間にアメリカへ喧嘩を売るような真似をしない限り、滅びないはずの国だったのに。遥かに困難な状況で、明治維新や日露戦争はやり遂げられた。江戸幕府の腐敗した官僚は駆逐された。ところが昭和期になると、政府と軍の無能な官僚主義によって、国を滅ぼしてしまった。
では、いつの間に無能な官僚が跋扈(ばっこ)したのか。時計の針を、1871(明治4)年に巻き戻す。この年、岩倉具視を団長とする、岩倉遣欧使節団が派遣された。使節は2年に渡り欧米を遊覧し、多額の国費を浪費しながら、何の成果も出せなかった。一方、留守政府は着実に改革を進めて結果を出している。帰国後、完全に主導権を留守政府に奪われた大久保利通は、留守政府の首班である西郷隆盛と抗争し、権力を奪還する。
大久保ら留守政府は、当然のごとく強い風当たりを跳ね返さねばならない。そこに、留学帰りの面々が取り入り、派閥を形成する。自然と、「岩倉使節団の成果は有為の人材が欧米の学問を修めて帰ってきたことにある」と喧伝されるようになる。
最初、東大法学部卒業生は、無試験で高級官僚に任用された。驚くべき特権である。また、大学に残り助教授に昇進した者は、国費で欧米に留学できた。
では、彼らに江戸の若者たちのような知性があったであろうか。たかが1年や2年で帰ってきた岩倉使節団の連中に何ができるか。特に批判すべきは、津田梅子である。5歳でアメリカに留学し、20歳で帰国したときには日本語を忘れていた。何のための留学か。岩倉使節団には5人の女子がいた。年長の二人は早々にホームシックになって帰国。残り3人も、日本の男に飽き足らなくなっていた。ちなみに、津田梅子は生涯独身である。
明治以後、「ではのかみ」が幅を利かせるようになった。学会では、「ドイツでは」「イギリスでは」と、外国の文献の紹介が学問として扱われた。医学のような技術主体の学問は、まだよい。当時は、最新の技術の輸入が、喫緊の課題であった。極端に言えば、何も考えずに、技術だけ覚えればよい。
しかし、歴史や政治のような、極めて人文科学的要素が強い学問でも、「ではのかみ」が幅を利かせる。明治に輸入された実証主義歴史学はドイツから輸入された。明治時代に日本の大学の多くは、ドイツを模範とした。ところが、少しでもドイツの大学を知る者は、「どこをどう真似したら、これがドイツ風なのだ?」と仰天する。少なくとも、「誰も気づかなかった一次史料を探してきて翻刻し、読書感想文を並べると論文が出来上がる」など、ドイツで実証主義と呼ぶ者はいない。
地域研究にしても、そうだ。たとえば、タイの研究をタイ語で始めたのは戦後だ。それまでつまり戦前世代は、英語など洋書のタイ研究をありがたがるだけだった。現地語を読まないのが当然視された。舶来崇拝を通り越して、植民地根性である。こうした欧米の学問を翻訳するだけの学問モドキを、「横のものを縦のものにする」と称した。
政治など、自分が生き残る術である。情報がすべて開示されるなどありえない。現実政治は試験問題とは違うのだ。限られた情報の中で自ら知見を見つけ出さねばならない。
明治の指導者が国の進路を誤らなかったのは、江戸の教育を受けていたからである。明治以降の教育を受けていた昭和世代は、現実には有害無益だった。自分の頭で考えることを放棄した、末路だ。
その起源を求めるなら、岩倉使節団だろう。明治6年から既に、日本人の頭は悪くなっていたとも言える。さて、この病理。今はどうなっているであろうか。
これだから日本人は…。が、ようやく100年を超えた。だが、2600年の歴史の中で、たかが100年、誤差の範囲である。
幕末に戻ったつもりで真剣に学ぶべきではないだろうか。
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