いったい何があったのか

ドイツとロシアを結ぶ海底ガスパイプライン「ノルド・ストリーム2」。完成間近だったこの大プロジェクトが、米国の制裁とEUの数多の国々の反対で長らくストップしていたことについては当コラムでも何度も書いた。

ところが今、工事再開が決まり、うまくいけば8月末にも完了し、さらにうまくいけば、年末には運転開始とか。いったい何があったのか?

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米国がこのプロジェクトに参加した企業に制裁をかけ、工事の進行を阻止していた理由は、ヨーロッパがロシアのガスに依存しすぎるという懸念、さらには、米国がNATOでロシアの脅威から守っているはずのヨーロッパが、よりによってロシアと組んでお金儲けをするとはけしからんということだった。どちらも安全保障上の問題と言える。

ただ、「ヨーロッパ」というのは正しくなく、このプロジェクトは冒頭に述べたように、ドイツとロシアの虎の子プロジェクトだった。ドイツ以外のヨーロッパの国々は、それぞれ異なった理由で、ことごとく反対の立場をとっていた。中でも一番激しく反対していたのがウクライナだった。

ウクライナは冷戦時代からずっと、ロシアと西ヨーロッパを結ぶ陸上のガスパイプラインの経由地で、このガス輸送がもたらす収入がウクライナの国家収入のかなりの割合を占めている。一方のロシアにとってもガスの収入は貴重であり、パイプラインを牛耳るウクライナにはそれなりの配慮をせざるを得なかった。

 

しかし、「ノルド・ストリーム2」が稼働すれば、ロシアはヨーロッパ向けのガス輸出に陸上パイプラインを必要としなくなる。これは、ウクライナにとっては単に収入減という問題だけでなく、重篤な安全保障上の問題だ。

ウクライナはそうでなくても2014年以来、クリミア半島を巡ってロシアとは敵対関係にある。パイプラインが不要になれば、ウクライナはロシアに一捻りされる危険が高まる。

少し話を戻すと、ノルド・ストリーム2に反対する米国の声がとりわけ大きくなったのは、トランプ政権の時だった。トランプ嫌いのドイツ人は、米国による内政干渉であると憤ったが、前述のように、同プロジェクトにはEUのほとんどの国が反対だったので、ドイツの分は悪かった。

その後、トランプ氏は敗退したが、米国のノルド・ストリームへの反対は超党派によるものだったため、政権が変わってもその態度は不動だった。それどころか、今年3月にはブリンケン国務長官が制裁措置をさらに強化したため、皆が、プロジェクトは本当に水泡に帰すかと思ったほどだった。

ところが5月末、バイデン大統領は突然、「プロジェクトはすでにほぼ完成しており、これを妨害するのは米欧関係にとって生産的ではない」と言って、制裁を解除した。ドイツ政府がバイデン大統領を就任以来、異常なほど丁重に扱い、ドイツメディアも戦後最大の大統領と持ち上げていたのには理由があったらしい。

ワシントンでの陰謀

ただ、その後の展開は再び見えなくなった。ドイツと米国の間で進んでいた交渉には厳しい箝口令が敷かれていたらしく、中身は外に漏れなかった。ウクライナの処遇が協議されていたことは確かだが、その協議にウクライナが参加していたのかどうかさえよくわからない。

そうするうちに、ゼレンスキー大統領が7月12日、ベルリンを訪れた。会談後の共同記者会見で、メルケル首相は横に立つゼレンスキー大統領に対して、ドイツはロシアの暴力は絶対に許さないと強調した。その時の、ゼレンスキー大統領の押し迫ったような表情が印象的だった。彼がメルケル首相の言葉を信じていないことは誰の目にもわかった。

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ウクライナがドイツに持つ不信感は、国営会社ナフトガスのCEOの、「ロシアが将来、我々や、我々のパイプラインを威嚇しても、ヨーロッパは懸念を表明すれば良いだけだ。彼らのガス供給はもう保証されている」というコメントにも如実に現れている。

ちなみにこの会見でメルケル首相が強調したのは、1)ロシアのガスのウクライナ経由の輸送は、現在の契約2024年を超え、2034年まで延長されなくてはならない。2)ドイツはこの10年の契約延長を可能にするために、あらゆる手段を行使する義務を負う等々。

ただ、この陸上輸送10年延長は、実はすでに2019年にドイツ政府の調停で決まっていた。2024年以降、年間400億㎥のガスの輸送を保証することにより、ウクライナには少なくとも年間20億ドルのトランジット料が入る。これをドイツが負担すると言われている。

ドイツ政府は、どれほどお金がかかろうともノルド・ストリーム2を完成させなければならない。そうでなくては、22年に原発を止めた時点で電気の供給が不安定になる可能性がある。だから、ウクライナを何が何でも説得する必要があったのだ。

ゼレンスキーとの会見の3日後、メルケル首相はワシントンに飛び、バイデン大統領と会談した。事態が終盤に近づいていることは誰の目にも明らかだった。ただ、会談後の共同記者会見ではパイプラインは前面に出ず、それがかえって不自然でもあった。しかし、間違いなくこの時、ノルド・ストリーム2は蘇ったのである。

 

フランクフルター・アルゲマイネ紙によれば、それ以来、ウクライナのメディアでは、「ワシントンでの陰謀」という言葉が飛び交っているという。メルケル首相とバイデン大統領が、ロシアに対しては政治的威嚇を演じ、ウクライナに対しては経済援助をぶら下げ、ノルド・ストリーム2を復活させたという意味だ。

メルケルとの会談の後、ホワイトハウスは急遽、ゼレンスキー大統領を8月30日に招聘した。しかし、その頃には、もうノルド・ストリーム2は完成しているかもしれない。

メルケル首相に対する餞別なのか

ノルド・ストリームを巡っては、不明な点が多い。

昨今のEU、とりわけドイツは、執拗なまでにカーボンニュートラルに拘っている炭素を出す産業には投資もさせないという風潮が出来上がっている中で、ドイツが抜け駆け的にガスパイプラインに莫大な投資をすること自体がすでに矛盾だ。しかし、メルケル首相は、「ガスは石炭の代わりとして、まだしばらくは必要だ」と述べ、矛盾を繕う手間さえ省いた。

ノルド・ストリーム2は、メルケル首相のプーチン大統領に対する最後のプレゼントと言われる。そのため、自分が首相である間に、どうしてもこれを片付けたかったというわけだ。

では、バイデン大統領は? これは彼のメルケル首相に対する餞別なのか。それとも、バイデン大統領は単にメルケル首相に懐柔されたのか。そもそも、メルケル首相がいなくなれば潮目は変わっていたかもしれないのに、なぜ彼は9月のドイツの総選挙が終わるまで待たなかったのか。

米議会は両院ともノルド・ストリーム2には絶対反対だった。だから、ホワイトハウスはわざわざ、この妥協と引き換えにドイツから何かの見返りを得たわけではないと、バイデン大統領を庇うための言い訳までしている。議会に至っては、今もノルド・ストリームには納得していないという。バイデン大統領は、なぜ、自分の立場を危うくしてまで、ノルド・ストリーム2を軌道に乗せたのか。

なお、ウクライナに関して言えば、この面積だけは大きいが経済は弱小、政治的にも不安定で、これまでも常に大国に翻弄されてきた国が、今、また翻弄されているからと言って、ただ同情すれば済むほどヨーロッパの政治は単純ではない

ゼレンスキー大統領の顔つきから、ドイツや米国から圧力がかけられているだろうことは想像できるが、ヨーロッパの小国の外交手腕は巧みだ。特に、ウクライナは今や、ロシアにとってもヨーロッパにとっても最後の砦となりうる地政学上重要なポジションを占めている。

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彼らがこのポジションを利用しないはずはなく、以前から希求していながら果たせなかったNATOやEU加盟の話が、今なら叶えられると狙っている可能性は高いのではないか。

ウクライナのNATO加盟は、ロシアにとっては「超えてはならない一線」だ。これが浮上した時点で、ヨーロッパとロシアの関係は極度に緊張するだろう。そうなれば、ヨーロッパ情勢の不安の元を作ったのは、元を正せば再びドイツということになる。

メルケル後のヨーロッパに、メルケル治世16年が残す足跡は限りなく大きい。