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川口 マーン 惠美】ドイツ人が封印した過去「ドイツ帝国」とはどんな時代だったのか 帝国建国150周年を機に振り返る
西洋史の 復習には もってこいでは?
川口 マーン 惠美
ドイツ人が封印した過去「ドイツ帝国」はどんな時代だったのか - ライブドアニュース
「ドイツ帝国」という史実
1871年1月18日、ドイツ帝国が建った。
それまで、この場所には、30余りの大小とりどりの領邦が寄り集まっていたのだが、突出していたのがプロイセン王国と、オーストリア帝国。オーストリアはちょうど、シシィの愛称で知られるエリザベト皇后の時代で、領土は膨張し、文化は爛熟しすぎていた。一方のプロイセンは、規律正しく、上昇志向旺盛な若い軍事国家だ。
1866年、現デンマーク、及び北ドイツに位置する領土の帰属をめぐって、この両国が対立し、戦争が勃発した。ドイツ人同士が戦った普墺戦争だ。その結果、オーストリア帝国は2ヵ月足らずの間に、プロイセンに打ち負かされた。
これで弾みをつけたプロイセンは1870年、フランスとの戦争を始める(普仏戦争)。フランスという共通の敵に対する敵対心を煽ることで、一気にドイツ諸邦を束ね、プロイセンの主導でドイツ統一に持ち込むというのが狙いだった。その作戦の中枢には、ビスマルクという老練で、かつ偉大な政治家がいた。
普仏戦争はドイツ軍の優勢の下で進み、ビスマルクの念願通り、いよいよドイツ統一が迫る。
71年1月、パリ郊外のヴェルサイユ宮殿の鏡の間でドイツ皇帝の即位式が催される。こうして、冒頭に記したようにドイツ帝国が成立したのだが、この時点では、フランスとの戦争はまだ終結していなかった。
つまり、ドイツ諸侯は、わざわざ敗色の色濃い敵地フランスに出向いて、彼らの宮殿でドイツ帝国建国の式典を、これ見よがしに催したのである。このやり方が、フランス人の神経を逆撫でしたことは言うまでもない。
48年後、このドイツ帝国が第1次世界大戦に敗れた時、その講和条約の調印式が、同じくヴェルサイユ宮殿の鏡の間で行われたのは、決して偶然ではなかった。ここでドイツが連合国相手に結ばされたのが、過酷すぎる戦時賠償で有名なヴェルサイユ条約だ。
今年は、そのドイツ帝国成立から数えて150周年に当たる。しかし、ドイツでは、公的な機関がそれを話題にすることも、美術館や博物館が(コロナ規制があるので、たとえばオンラインで)特別展示として取り上げることも、一切なかった。
実は、これまでも、「ドイツ帝国」という史実はほとんど無視され続けているので、今年も従来通りに過ぎなかったのだと言えば言える。
しかし、ドイツ帝国の存在は、ドイツの近代史を振り返ったとき、それほど小さな出来事だろうか。しかも、奇しくも150周年の今年、それをここまで封じ込めてしまうことは果たして妥当なのか。
ヒトラー「前」とヒトラー「後」
封じ込めの理由は、歴史的な解釈というより、政治的判断だ。言うなれば、ドイツでは今なお、「ドイツ帝国」をどう扱うべきかが確定していない。
ドイツが戦後、深刻に直面した問題は、ホロコーストという負の遺産をどのようにして取り除いていくかということだった。ナチズムに対する反省、そしてそこからの脱却こそが、ドイツ人が新しく出発するための喫緊、かつ最大の課題だった。
そこでドイツが取ったのは、ナチを絶対悪と定め、戦後のドイツから切り離すという手段。つまり、「現在」と「未来」を救うために、彼らは「過去」を切り捨てた。
それは、ドイツの歴史を、ヒトラーを境に「前」と「後」に真っ二つに分断することだった。「後」の世界に生きるのは反省後のドイツ人で、「前」の悪しき物は引き摺っていないと言うのが、戦後ドイツの大前提となった。ドイツの近代史の解釈には、是々非々はなかった。
では、ドイツ帝国は?
ヒトラーの出現は、第一次世界大戦の敗北と密接に関係している。ドイツを、その第一次世界大戦に導いたのがドイツ帝国だった。つまり、ドイツ帝国はナチのドイツの前段階であり、それどころか、ドイツを誤った方向に導いた可能性があった。
排外的な愛国主義、軍国主義、反ユダヤ主義……それはナチと限りなく似ていた。中でも、それを主導していたプロイセンに、一番強くその嫌疑がかかった。
ドイツではしかし、80年代の終わりに一瞬だけ、これらがテーマになったことがある。歴史家エルンスト・ノルテが、ヒトラー政権に対するあまりにも一方的な見方をそろそろ修正する必要があると主張したことで、ナチズムについての論争が野火のように拡がり、瞬くうちに大火になった。
ノルテの言わんとしたことは、ナチの復権ではない。彼は、ナチをそろそろ一つの歴史として検証する時期が来たのではないかと問うた。歴史は分断されたわけではないのだと。
しかし、結果を言えば、ノルテは長い論争の末、「歴史修正主義者」という烙印を押されて敗北した。その結論は、「前」と「後」の繋がりは、これまでよりも、もっと徹底的に否定されるべきだということに等しかった。
こうして、ドイツ人のホロコーストに関しての「無条件の反省」は強化され、それと共にドイツ帝国も隅に追いやられた。このような国を、思い出したり、ましてや祝ったりすることは危険だった。
「記憶されない文化」として
そうするうちに、「無条件の反省」はいつしか彼らの自慢となった。
2016年5月、ドイツの大手紙『ディ・ヴェルト』はこう書いた。
「虐殺の歴史は無視するものと、いつでも相場が決まっている。ただ、それを告白した国がただ一つある。ドイツである」
1月28日は、毎年、欠かさずドイツの国会で、アウシュヴィッツ解放の記念式典が行われる。ここ数年は、「Erinnerungskultur(記憶の文化)」という新造語まで定着した。「Erinnerung(記憶)」と「Kultur(文化)」を合わせた造語だ。
ナチの犯罪を忘れがちな若い人たちに、ホロコースを思い出させ、反省を促すことがこの造語の目的である。つまり、ホロコーストには、こうして今なおスポットライトが煌々と当てられている。
では、「記憶されない文化」となったように見えるドイツ帝国というのは、いったいどういう時代だったのだろう。
確かに、今の視点から言えば、伝統的な枠組みを残した、貴族や豪農や軍が支配する反動的な官僚国家であったことは間違いない。しかも、この統一は、フランスのように国民の手によって行われたものでもなかった。そういう意味では、日本の明治維新と似ているかもしれない。
ただ、一方で、ドイツ帝国は、進歩的な社会主義的政治システムを果敢に採用した国でもあった。当時の産業国家としては極めてリベラルで、その上、科学技術も突出していた。
産業革命に出遅れたため、工場の設備などは、かえってイギリスやオランダなど先進国よりずっと進んだ技術投資がなされた。1880年代の終わり頃、ドイツはすでに米国に次ぐ、世界で第二の工業国となっていた。
ドイツ産業の強みは当時より、石炭、製鉄、機械にあり、鉄道の大々的な敷設が、産業の発達を強力にバックアップした。それに伴って、自然科学や技術も目覚ましい発展を見せた。その後、ドイツ帝国が軍事で突出していくのは、当然の成り行きと言えた。
資本主義の発達とともに貧富の格差が広がり、労働争議が激しくなったが、それに対しても、当時の宰相ビスマルクは「社会主義者鎮圧法」と「社会保障制度の整備」という、まさしく飴と鞭政策で臨んだ。工業化で破壊された環境問題の改善やインフラの整備にも力が注がれた。
ただ、1888年、ビスマルクを重用した初代のドイツ皇帝ヴィルヘルム1世が崩御し、あとを継いだ長子フリードリヒ3世も99日で病没すると、その息子ヴィルヘルム2世が即位した。この若き新皇帝はビスマルクを追い払って、一人、暴走を始める。
帝国主義に憧れた彼は植民地の獲得を図り、さらに、陸軍国プロイセンで海軍を増強するという愚まで冒した。当然、それらはことごとく失敗しただけでなく、英国、フランス、ロシアの怒りを買い、1914年7月、第一次世界大戦が勃発する。今のドイツの歴史観でいけば、こうしてドイツは間違った道に突入していくことになる。
ドイツ帝国建国150周年を機に
10年余り前、ベルリンに夢中になって、足繁く通っていた時期がある。
1871年の最初のドイツ統一から、1990年の2度目のドイツ統一の間に焦点を絞り、歴史の舞台になったところを訪ねて、過去の出来事を現在に投影させながら、『ベルリン物語 都市の記憶をたどる』を著した。
その120年の間にベルリンは何度もその姿を変えたが、ベルリンは今も躍動し続けていると感じる。
蛇足ながら、ビスマルクは驚くほどインパクトのある人物だが、今のドイツでは、あまり評価されていない。ファンは日本の方が多いのではないか。
今回、ドイツ帝国建国150周年を機に、現在のドイツの歴史観に掛かっている、強力なホロコーストのバイアスを見る思いがした。そして、これこそが、ドイツの歩んだ戦後の道がいかに険しかったかということを象徴しているのだろうと気づき、何となく神妙な気分になってしまった。
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