人間は死ねば黄泉の国に行く…のか?

日本人は、死んだらどうなると、考えているのでしょうか。

 

 

古事記には、どう書いてあったか。

イザナギとイザナミは、夫婦の神でした。妻のイザナミが出産の事故で亡くなり、黄泉の国に去ってしまいました。夫のイザナギはそれを追って行くと、妻のイザナミは醜い姿で、鬼の女たちを従えていました。姿を見られて激怒してイザナミは、夫を追います。イザナギは逃げ、この世と黄泉の国とを分ける坂道を岩で塞ぎました。

イザナギが、黄泉の穢れを祓うと、アマテラス、スサノヲ、ツクヨミの三柱の神が生まれました。イザナミの死をめぐる、有名なエピソードです。

当時の人びとの考えをまとめてみます。

 a 人間は死ぬと、黄泉の国に行く
 b 黄泉は、地底にある
 c 黄泉には、鬼や悪神がおおぜいいて、穢れている
 d 黄泉とこの世は隔てられて、自由に往き来できない

本居宣長は、人間は死ねば黄泉の国に行く、と断言しました。江戸時代の国学者で、日本の古典に精通する彼がそう言うのだから、これが古来からの日本人の考え方です。とは言え、海の彼方の常世や妣が国も、死者のおもむく場所と考えられていました。

イザナミの物語の重要な点は、神も死んでしまうことです。

日本の神々は、もともと、山や川や海や、太陽や月といった、自然です。自然なので、自然の定めで死ぬこともあるのです。神自身が死を前にうろたえます。人間と同じです。ならば、神が人間を死から守ってくれたりしません。

人間は、神に頼らず、自分で、死に立ち向かう。これが日本人の原体験です。

仏教が入ってくると…

そのあと、仏教が入ってきました。

仏教は、むずかしすぎる哲学のようで、はじめは理解できませんでした。それに、仏は神のようなものだと思われたので、いまさらわれわれに必要だろうか、という議論もありました。それでも、よさそうだから、取り入れてみようということになりました。

そのうち、仏教に夢中になる天皇も現れ、気がつけば、貴族はあらかた仏教の熱心な信者になっていました。

仏教の何が、新しかったのでしょうか。

第一に、煩悩の考え方。人間はマイナスを背負っている、という考え方です。穢れは、祓えば消える。煩悩を断つのは、そう簡単ではありません。

第二に、地獄の考え方。人びとは悪行の報いで、地獄に堕ちる。日本人は輪廻を信じないので、それは道教風の、死者がおもむく場所となりました。

 

平安時代には天台宗と真言宗が盛んになり、鎌倉時代には浄土宗・浄土真宗や禅宗、日蓮宗が盛んになります。

江戸時代には、幕府の政策で、仏教がイエと結びつきました。イエごとに宗旨が決められて、お寺に登録される制度です。

それまで、浄土宗は浄土宗、禅宗は禅宗、…と、宗派によって考え方がずいぶん違いました。それが、どの宗派もだんだん似通ってきました。親戚の葬式に行くたび、まごつかなくてすむからです。盆や彼岸などの年中行事も、各宗派で共通になりました。

日本人は「死後」をだいたいこう考えている

こうしてできあがった常識をまとめると、つぎのようです。

 a 人間は死ぬと、仏の弟子になる。いや、もう仏である
 b 仏の弟子なので、俗名のほかに、戒名をお寺につけてもらう
 c 死んだあと、三途の川を渡って、あの世に行く
 d 戒名を記した位牌を仏壇に祀って、お祈りする
 e お盆には、死者はあの世からもどってくる

人間が死ぬとどうなるのか、誰に聞いても、日本人はだいたいこう答えます。これは、仏教の見かけをしているけれど、実は、仏教と関係がありません。

 

 

まずa。死んだら仏弟子になるわけでも、まして仏になるわけでもありません。bの戒名は、出家者の名前である法名が変形したもの。仏典になんの根拠もない、日本ローカルな習慣です。cも俗信です。dの位牌は、もともと儒教・道教のもので、それが転用され、仏壇(イエ制度のアイテム)と結びつきました。eは、起源の不明な、仏教以前の風習です。

鎌倉時代の仏教の、とんがったところはなくなって、みごとに丸くなっている。死の意識がぼんやりし、自己意識もぼんやりしてしまっています。

国学で、古い時代の日本の人びとの心性を復元

日本人は、人間が死んだら、どうなると考えているのでしょう。

人びとの最大公約数は、a~eのようです。これは、仏教か。仏教のように思っている人びとが多い。けれども、それはみかけにすぎません。日本の古くからの慣習が、イエの制度と結びついて、江戸時代に定着したものです。年忌法要など、そのなかみは、仏教とほぼ関係ありません。

いっぽう江戸幕府は、朱子学を奨励しました。武士たちは、言われる通りに、朱子学を学び始めた。読んでみると、しっくり来ないところがいろいろあります。中国と日本は、社会が違うので、当然です。

 

死についてはどうか。人間が死んだらどうなるか、儒学の古典には書いてありません。生きている人間の政治を、担当した。死については、仏教が担当し、僧侶が葬儀を行なった。うまく棲み分けていました。

そこへ、国学がおこります。国学は、日本にも古いテキストがあるのだから、朱子学の要領で読んでみましょう、という運動です。契沖や賀茂真淵が先鞭をつけ、本居宣長がそれを徹底させました。

本居宣長が読み解いたのは、古事記です。古事記は、神々や人間の生き死にを記しています。この世とあの世の対比は、宣長の興味をひき、さまざまな神々を、この世界のあちこちに配置する、宇宙論を構想しました。そして、古い時代の日本の人びとの心性を復元し、それがこの世界のありのままの姿だとしました。

死の穢れがない

平田篤胤は、本居宣長の没後の弟子です。宣長の考えを発展させて、平田神道を始めました。そして、「英霊」を発明しました。

篤胤は言います。人間は死んで、黄泉の国に行くのではない。目に見えない霊となる。とりわけ、国のために命をささげた人びとは「英霊」として、この世界にとどまる。

 

 

本居宣長の説を、書き変えてしまっています。しかもその根拠が、はっきりしません。篤胤の創作です。「英霊」なので、死の穢れがない。堂々と祀ることができます。英霊のアイデアに、幕末の官軍(西軍)、そして明治の陸軍が注目しました。そして、靖国神社が国の手で建てられます。

靖国神社は、陸軍、海軍、内務省の三省が所管しました。政府は、「国家神道は宗教でない」としました。宗教でないのだから、仏教やキリスト教や、どんな宗教を信じる国民にも礼拝を強制できます。

こうして、人間の死をめぐって、伝統的な仏教の見解と、政府の見解とが、二重に主張されることになりました。そして人びとは、これを当たり前だと受け入れ、「おかしいではないか」と声をあげるひとはいなかったのです。

明治政府は天皇を戴くので、正統な政権だと主張しました。そのため天皇を、神話時代にさかのぼる特別な存在だと印象づけました。「現人神」です。

この天皇に対する国民の義務を、「大義」といいます。帝国憲法には、兵役の義務が定めてあります。兵士は戦場で、命を落とすこともあります。すると、英霊となって、靖国神社の神となります。「悠久の大義に生きる」とは、こういうことでした。

「いつ」死を考えれば良いのか

さて、いまはそういう死に方はなくなって、誰もが個人として、自分ごととして死ぬようになりました。

死ぬのは個人です。でもそれは、行為なのでしょうか。人間は、意図して死ぬわけではありません。死にたくないと思っても、死ぬときは死んでしまいます。死にたいと思っても、そう簡単には死ねません。死ぬとは、自然の出来事だからです。死は、このように、本人の行為をはみ出していて、本人の行為とは言えません。

 

死という出来事の全体は、死が起こるその最中には、見通せないのです。そのずっと手前で、想像してみるしかないのです。

つまり、死を考えるなら、死ぬ予定がなくてぴんぴんしているとき。つまり、今です。