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日本人より中国人が評価:日本近代化の父、小栗上野介
今日 たいていの日本人は 忘れているけど・・
いい記事です
山崎 養世
日本人より中国人が評価:日本近代化の父、小栗上野介 横須賀造船所を造った男の生き様とその最後 | JBpress (ジェイビープレス)
今が人類史の変わり目なのだろう。
人類は一つのspeciesであり、共通する巨大な「無意識」を持つと主張したユングは、そのようなことはあり得ないとする師フロイトと激論となった。
その時、突然にタンスが巨大な物音を出したという一節が、ユングの「分析心理学」(みすず書房)にある。
日本経済の顔になる渋沢栄一を主人公とするNHKの大河ドラマ「青天を衝け」に小栗上野介(おぐりこうずけのすけ)が登場した。
万延元年(1960年)の遣米使節に抜擢されて、帰国後は外国、江戸町、勘定、歩兵、陸軍、軍艦、海軍の各奉行など幕府の要職を歴任した小栗上野介は、株式会社制度、郵便、通信、商工会議所、商社、西洋式のホテル、経営管理と会計、近代的な鉄製品加工、船舶修理、陸海軍、フランス語教育、近代社会を支えるネジまでも日本に導入した。
司馬遼太郎には「日本近代化の父」と評価され、大隈重信には「我々が行っている近代化というのは、小栗上野介の模倣に過ぎない」と評され、東郷平八郎元帥には「バルチック艦隊に勝てたのは小栗上野介のおかげであった」と感謝の揮毫が遺族に贈呈され、現代中国では、日本の近代化に最も貢献したともされる。
しかし、これまでは、小栗上野介のことを知る日本人は稀ではないか。やはり、歴史が動き出したのだろう。
かく言う私も、最初に出会った時には「小栗様」のことはかすかな記憶しかなかった。子供の頃に読んだ万延元年遣米使節団を描いた歴史書のなかで、確か「目付」だった人、と言う程度しか私の頭にはなかった。
2015年4月29日のことであった。
初めてのファスティングとトレーニングのために、私は高崎駅でレンタカーを借りて草津温泉に向かっていた。
高崎の市街地を過ぎると車の通行も減り、川沿いの道をのんびりとドライブしていた。ふと、道路の右側に「小栗上野介の寺 東善寺」と言う看板が見えた。
「こんなところに小栗上野介の寺があるのか」と少し驚き、急ぐ旅ではないから、お寺の駐車場に車を止めて階段を登って小さな山門をくぐった。
境内にひとけはないが小さな記念館があったので入ってみた。
少し暗い建物の中には、子供の頃に本で見た小栗上野介の正装した姿の写真、そして、小さな籠などがあった。
籠の前には、「この籠に押し込められ、烏川の河原で斬られた」と言うことが書いてある。
「えっ、殺されたんですか?」と驚いた。何か空気が重くなった気がしてきた。
建物を出て、小さな境内を見て回ると、小栗上野介の胸像がある。いかにも賢そうな秀でた額が印象的な細面だ。
隣には幕末の重臣にして思想家の栗本鋤雲(じょうん)の像がある。
立て札を読むと、小栗上野介忠順の少年期に大旗本であった父親が栗本鋤雲に私塾を小栗邸で開講させた、いわばパトロンであったとのこと。
小栗上野介と栗本鋤雲は終生親交したという。
日本を植民地化しようというヨーロッパ列強に対しては鎖国を継続し、その意図がないアメリカを開国する時の相手国と見定め、ペリー来航の1年前から国際法と英語での交渉を研究して開国し、漁村横浜を開港してたちまちに国際都市として開発し、倒幕運動には恭順して江戸を戦火から救い、今に至る近代日本の礎を築いたのはあなた方幕府側なのに、すっかり忘れられているのですね・・・。
そう思いながらも、そろそろ行かなくてはと切り上げるつもりだった。
小栗上野介忠順の事績が書いてあるこの看板を撮影して終わりにしよう。「iPad mini」ってほんとうに便利だなと思いながら看板を撮影した。
映らないのだ。目の前に鮮明に見えている看板の文字だけが映らずに、真っ白になった。
おかしいな、看板だけを撮るからそうなるのか、それじゃあ、横の仏像も入れてみようとiPad miniのカメラで再び撮影した。また、映らないのである。
過去にもこのようなことがあったので、その時と同じく声に出して言ってみた。
「何か、私にお伝えしたいことがおありなのですね。分かりました。まず、お参りをさせていただきます」と申し上げてから、お墓を探すとどうも裏山の階段を登った先にあるらしい。
赤い前掛けをしたお地蔵様や大きな異形の顔をした石像が並ぶ。死者を弔っているのだろう。
その先にお墓があるはずだと見当をつけて階段を登って行った。やはり、お地蔵様や石像は小栗上野介と共に斬首された家来や村人を祀ったものだった。
さらに5分ほど登っていくと小栗上野介の墓に行き着いた。
墓地には凄まじいことが書いてあった。慶応四年(1868)4月6日朝だから大政奉還、王政復古の翌年のことだ。
小栗上野介忠順は家臣三名とともに斬首され、その胴体はこの場所に埋葬され、その首級は養子又一の首級とともに遠く館林に送られ、新政府軍(東山鎮撫総督岩倉具定)の首実検を受けた後、(館林の)法輪寺に葬られた。
のち、小栗上野介の知行地の村人たちが首級を奪取し、一周忌当夜この地に埋葬するに至った、とのことだった。
後で、東善寺のご住職から教えていただくことになるのだが、この頃の小栗上野介は、前年に徳川慶喜に東海道決戦論を主張して入れられず、幕府解散で勘定奉行を免ぜられて知行地の上州倉淵村に戻り、帰農を決意して、村人たちと自活して新しい人生を切り開くことを目指していた。
小栗上野介の卓越した手腕が、新政府軍にはよほど怖かったのだろうか。それとも、幕府につくものはこうなるのだと言う見せしめだろうか。
斬首した首と胴体を別々の場所に埋めた、しかも、父子揃って。あまりにむごい仕打ち。そして、決死隊を作って殿様の首を取り返した村人たち。凄まじい決心だったろう。
あまりのことに衝撃を受けて涙がこぼれた。「本当にご無念でございましたでしょう。あなたさまのことは、私が伝えて参ります」と再び声に出し、ひたすらに手を合わせて祈った。
そして、もと来た階段を降りて、再び小栗上野介の事績の書いてある看板の前に立った。撮影した。写っている。今度は写っているのだ。
紛れもなく、目の前の文字がiPad miniに写っていた。
不思議に耐えず、本堂の玄関で案内を請うた。ご住職が出てきてくださった。このようなことがありましたと今撮ったばかりの映像の数々をお見せした。
「ホウ」と言われたご住職、村上泰賢師から本堂に招じ入れていただき、詳しくお話を伺った。
そして、本堂に展示された、小栗上野介の驚くべき歴史的な事績の詳細な大きなパネル、当時の写真や資料、東郷元帥からの感謝の揮毫や清水組(現清水建設)に建設させた日本最初の築地ホテルの模型などの貴重な数々をご案内いただき、最後に村上師のご著作、平凡社新書「小栗上野介〜忘れられた悲劇の幕臣」まで頂戴した。
村上師は小栗上野介研究の第一人者であることはのちに知った。
そして、村上師がおっしゃったことに私は驚いた。
「日本人よりも中国人の方が小栗様のことを知っていますよ」
「彼らは決して呼び捨てにせず『小栗さま』と呼びますよ。先日も、上海のテレビ局が取材に来ましたよ」
「小栗上野介のことを研究している若い歴史学者も杭州にいますよ」
なぜなら、その2週間後に私は上海と杭州に行く予定があったからである。
そして、私はその2週間後に、東禅寺とその周辺まで来て小栗上野介を取材した上海のテレビキャスター唐佳音さんに会い、さらに杭州に行った時に、小栗上野介についても記述した明治維新の著作のある西湖畔の章太炎記念館の若い学芸員の方に会うことができたのだ。
2人は異口同音に、「中国ができず、日本ができた開国と近代化の最大の功労者は小栗様である」として小栗上野介に対する熱い思いを語ってくれたのだ。
とりわけ唐さんは祖父母から3代に渡り日本に留学し、ワールドビジネスサテライトにも出演したという。流暢な日本語を話す方だった。
それからの私は、政治のトップ層にお目にかかったり食事をする機会には何度か、小栗上野介にまつわるこの不思議な話をお伝えするようになった。
話だけではなかなか伝わらないので、ここにお見せしている一連の小栗様の映像をお目にかけた。
翌2016年初の安倍晋三総理は施政方針演説において、「一言を以って国を滅ぼすものありや。『どうにかなろう』という一言、これなり。幕府が滅亡したるはこの一言なり」という小栗上野介の言葉を引用した。偶然だろうか。
折しも、日本の近代産業遺産のユネスコの世界遺産登録の話が進んでいる頃であった。
小栗上野介がフランス政府の支援を得て横須賀に建設した「横須賀造船所」は、最新鋭の蒸気機関と金属加工技術を導入し、あらゆる工業製品を造る総合工場であり、近代的な経営管理と会計処理、技術教育機関を備え、日本の近代工業の発祥の地となった。
そこで製造された大砲や銃器が日清日露の武器となり、故障や破壊を受けた艦船の修理を日本で初めて横須賀造船所が行った。
今でも、横須賀造船所は米軍の横須賀基地のドックとして使用されている。
東郷平八郎が「日本海海戦の勝利は小栗さんが横須賀造船所を造っておいてくれたおかげ」と小栗上野介の遺族に感謝し揮毫したのは、この徳川幕府建設の当時最新鋭の造船所によって、日本近代工業化と経済の基盤が全国に築かれたことによるとのことだ。
富岡製糸場は横須賀造船所のフランス人技師たちによって作られたから、村上師に言わせれば「妹分」に過ぎない。
徳川幕府が開国して日本を国際通商国家に転換していなかったら、そして平和裡に政権を返上していなかったら、明治維新の大業と高度成長はなかった。
その後のアジアの覚醒と今の成長もずっと遅れていただろう。封建幕府の英傑たちが世界史を変えたのだ。
小栗上野介が横須賀造船所の建設に奔走した時に、親友の栗本鋤雲から「なぜなくなってしまう幕府のためにそんなに尽力するのか」と聞かれ「売り家になっても(幕府がなくなっても)立派な蔵は残しておきたいんだ(日本という国のために残すのだ)」と答えたという。
村上師の著作にそのことを教えられた私は、今でもこのことを思い出すたびに胸が詰まって困る。
我が近代日本の土台はこうした忘れられた偉人たちの犠牲のもとに作られたことを肝に銘じなくてはと思う。
そして、隣国にも、そのことを分かってくれる人たちがいることも忘れてはいけないと思う。
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