「猫は昔から人間に愛されていた」は本当か? “嫌われ者”から“家族”になった

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明治後期にペストが流行すると福沢諭吉の創刊した『時事新報』では「猫もペストに感染するから人目に付かないところで撲殺せよ」と訴え、今では「猫好き」として語られる南方熊楠も実は猫を殴る・投げる・毒餌で殺すを平気でしていた

戦時中には毛皮増産などを謳って飼い猫を「資源」として供出させる運動が起こり、戦後になっても失業者が猫を食糧としたり、三味線や実験用動物として「猫捕り」が行われたりしていたが、猫の飼育者側も「飼い猫はダメだけど、野良猫や養殖した猫ならかまわない」と考えていた。

 

『猫が歩いた近現代 化け猫が家族になるまで』(吉川弘文館)は、史料を元にこのような事実を記し、しばしば語られる「猫は昔から人間に愛されていた」というイメージを覆す。

ほんの数十年前まで猫嫌いのほうが多く、人間の都合によって猫がひどい扱いを受けてきたことを――露悪的にではなく、抑えた筆致で――書いていく。著者である近現代史研究者の真辺将之・早稲田大学学術院教授に、日本人の猫との付き合いの変化と、そこから見えてくるこの社会の課題について訊いた。

 

猫は「動物公害」扱いされていた

――『猫が歩いた近現代』を読むと、1970年代には猫が小鳥や金魚を襲ったり、発情期に鳴くことを「動物公害」と形容されて猫への苦情が新聞の投書欄を長く賑わすなど、かなり最近まで猫を嫌う人が多かったことがわかり、驚きました。にもかかわらずなぜ「昔から猫は愛されていた」幻想がこれほど流通しているのでしょうか。

真辺 理由はふたつあって、ひとつは「そうであってほしい」という猫好きの願望があるからです。もうひとつは史料の残り方が偏るからですね。

猫が好きな人はわざわざ記録を残しますし、「珍しい猫を愛していた」というエピソードも残ります。でも逆に嫌いな人、無関心な人、はたまた何も思わずに殺していた人の記録は残りません。そうすると猫について書かれたものを探していくと、好きな人の記述ばかりが目に付きやすくなります。実際には史料を辿る限り、猫好きは歴史的には少数派でした。

私はもともと自分の飼い猫の死をきっかけに、過去の猫と人間の関係を調べようと思ったのですが、作業を始めてみると、必ずしも猫は歴史的に肯定的な扱いを受けていたとは言えず、むしろつらい目に遭ってきたことがわかってきました。

――ペットフード協会の全国犬猫飼育実態調査では2017年に犬が892万匹、猫が952万7000匹となって初めて犬猫の頭数が逆転したくらいで、犬好きの方が長らく多かったわけですよね。

真辺 そうですね。犬と比べて猫を蔑む傾向はかなり長い間続いていて、たとえばしつけると比較的言うことをきいてくれる犬とは対照的に、猫はそうもいきません。

とくに住居が開放的な日本家屋が一般的だった時代には、自由気ままに出入りをして泥のついた足のまま蒲団の中に入ったり畳や襖、柱を傷つけたりする「よくない動物」「不潔」などと批判されることが多かったんです。

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――歴史家は猫をあまり扱ってこなかったようですが、その理由は?

真辺 今のように猫をペットにして大事にする習慣自体が昔はなかったからです。人間の生活に密着していた馬や牛のほうが歴史研究者には注目されてきました。猫はネズミ捕りとして使われるくらいで、現在ほどは人間と密接な関係にはなかったのです。

とくに近代以前は史料が少なく、先ほど言った「好きだった人の記録」が中心になり、それを扱っている研究者はほかにいたこともあったため、私は近現代の猫の歴史に取り組んでいます。

 

明治以降は「役に立つか」が評価軸に

――真辺さんは日本人の猫観の変遷についての見取り図として、近世・近代・現代それぞれの特徴を整理されていますよね。どんな風に変化してきたのでしょうか。

真辺 近世までの猫は、化け猫や猫又、猫神に代表されるように人間の神仏・超自然現象に対する恐れが反映されたり、歌川国芳の浮世絵で描かれているように人間をデフォルメした存在として、人になぞらえて見られたりしていました。

現代に生きるわれわれは国芳の絵を「あ、猫だ」と思って楽しみますが、当時の人は「猫だから」ではなく擬人化された部分に別のおもしろみを感じとっていました。今とは受け取り方がだいぶ異なります。

そもそも戦後のある時期までは、猫の絵といえば国芳、というほどに国芳が猫の絵の代表格扱いされていたわけでもありませんし、リアルタイムでも、「猫の絵だから」という理由で国芳の絵が人気を博したわけでもありません。

つまり、たとえそこに猫の絵が描かれていたとしても、描き方も見方も時代によって変化している点には注意が必要です。

――近代になると日本人の猫の見方はどう変わりますか。

真辺 明治になって文明開化が始まると、合理的・科学的な考え方が入ってきて「猫を猫として見る」ようになっていきます。

並行して利害計算の観点から猫も「役に立つかどうか」で捉えられるようにもなり、「ネズミ捕りに役立つから生かす」とか「不衛生で人間に害をなす猫は殺す」といった考えが顕著になります。人間社会に翻弄される傾向が強くなったと言えます。

このころもやはり今とはずいぶん感覚が違います。たとえば小説家の室生犀星は火鉢に手を置いた猫といっしょに映っている写真が有名で、「猫好き」として語られることが多いのですが、実は四年も飼った猫を平気で捨てており、私も調べていて驚きました。「好き」と言っても今のように家族の一員のように捉えているわけではなく、かなり自分勝手な飼い方をしていたりします。

「猫で数字が取れる」はきわめて最近の現象

――猫の「現代」はいつごろ始まるのでしょうか。

真辺 現代は近代から連続していますが、おおよそ高度経済成長期以後からと言えます。物質的な豊かさがある程度達成されたあとの社会では心の豊かさを求めるといった「情報による消費」が進み、猫も新聞・雑誌やテレビで取り上げられ「消費」されるようになり「猫ブーム」が起こるようになりました。多くの人々がネズミ獲りとしての機能を期待してではなく、純粋なペットとして接するようになります。

ちょうど高度成長期頃までは猫嫌いの方が多かったという意味でも、1970年代がひとつの境目と捉えられると思います。

――近代から現代への変化の背景は?

真辺 かつての出入りが容易な日本家屋から密閉性の高いマンションや団地などに住環境が変化したのと、自動車の普及に伴って猫の交通事故も増え、それを避けるためにという理由が重なって、完全室内飼いが増えました。これによって人と猫が接する時間が伸び、関わりがより密接になった。

その中で猫に対してかけがえのなさを感じる人が現れ、猫はある種「家族の一員」「社会の一員」になっていきます。もちろん現代は現在進行形の変化であって、まだまだそうではない人もたくさんいるような状態です。

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――現代になって、猫は実用性から解放されたのでしょうか。

真辺 難しいですね。「かわいいものをそばにおきたい」も実用性と言えなくもない。現代は近代の延長線上にあり、人間は利益にならないことはしませんから、大きく言えば変わっていない。ただそれが「人間だけの利益」を目指すところから動物の幸福を含めた価値観に変わってきてはいます。

――実用性と言えば、ときどきメディア関係者やジャーナリストが「猫で数字が取れる」(PVや視聴率が取れる)と揶揄的に言いますが、人間と猫との歴史を考えるとごく最近の現象ということでしょうか。

真辺 猫の雑誌や写真集が大量に刊行されるようになるのは1978年頃からですから、猫を扱うメディアがビジネスとして成立するようになってからおそらくまだ四十数年しか経っていないのだと思います。昔の猫好きは「犬の本はあるのに猫の本はない」と嘆いていましたから。

さらに今日のような爆発的な人気ということになると、インターネットの普及以降、猫のおもしろさが気軽に画像で拡散されるようになってからですので、さらにわずかな歴史しかないとも言えます。

野良猫が保護すべき対象とみなされるまで

――猫の種類による評価の違いも時代とともに変化していますよね。

真辺 そうですね。たとえば洋猫は戦前には飼っている人自体が少なかったのですが、戦後に占領軍が日本に持ち込んで広がり、高度経済成長期にはシャム猫やペルシャ猫がファッションシンボル、上流階級の証として持ち上げられ、その傾向が90年代くらいまで続きました。

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もちろん現在でも愛好家はいますが、最近はたとえば保護猫活動がさかんで、著名人やお金持ちであっても積極的に保護猫を飼う方も増えました。

――「保護猫」自体、新しいカテゴリです。

真辺 かつては野良なのか飼われているのかわからない猫が多く、食べ物を盗むとか、家を汚す、壁や柱で爪とぎするといった猫に対する苦情はひとまとまりのものでしたが、猫を家の中だけで飼うようになったことで野良猫にしわ寄せがいきます。

飼い猫に対して、たとえば「鳴き声がうるさい」と苦情を言っても飼い主側は主張や反論ができる一方、野良猫自身は主張しませんし、猫を飼っている側もある種のスケープゴートとして「野良がよくない」とする向きがありました。こういったいくつかの背景から行政は野良猫を駆除し、殺処分するようになります。

愛護団体も戦後ながらく野良猫の安楽死を認めてきましたが、さらに一時代下ると殺処分を悪とみなす団体や運動家からの批判により、2000年代には殺処分ゼロを目指すほうが主流となります。このあたりから野良猫も殺さずに保護して不妊去勢手術を行った上で譲渡しようという動きが目立ってきます。

「猫にとっていいこと」は時代により変わってしまう

――人間が考える「猫にとっていいこと」自体が時代によって変わっていますよね。かつてはペットフードを与えるよりも人間の残り物をあげた方がいいと思われていたり……そうすると、猫にとって望ましいことってなんだろう、いま主流の考えも本当に猫のためになっているのかな、と悩んでしまいます。

真辺 「不妊去勢をするべき」「室内飼いがいい」というのが最近では一般的な考えですが、かつてはそうでなかった時代もあります。

また、近年でもたとえば作家の坂東眞砂子さんが「不妊去勢は自然の性に反するからさせない。産まれた子猫は崖から投げて捨てている」と新聞に書いて炎上したことがありましたが、猫を飼っている人のあいだでも必ずしも一様ではありません。

――『猫が歩いた近現代』の中でも、猫を「家族のように扱うようになった」と言われるけれども「人間の家族に不妊去勢手術をしたり、個体識別のためにマイクロチップを埋めたり、金銭で売買したりはしない」という指摘があり、考えさせられました。

真辺 個人的にはおおむね今の方向性は間違っていないだろうと思うのですが、何が猫のためになることなのかは、非常に難しい問題です。

たとえば野良猫に不妊去勢手術を施して地域で管理をしていこうという地域猫活動があります。あれは、その猫を一代限りで天寿を全うさせることになりますから、もし仮に100%行き渡った場合には、野良猫が消滅してブリーダーが繁殖させた純血種ばかりになっていくかもしれない。それでいいのかという気持ちも若干あります。

もちろん、野良猫がまったくいなくなるのは確率的にはかなりありえないですが、突き詰めて考えるとそういうことを促進している行為だとも言えます。

――人間と猫との歴史からわかることは何でしょうか。

真辺 猫自体は変わりませんが、人間の生活の変化が猫観に直接的に反映されています。猫は時代によっても人によっても好き嫌いの振れ幅が激しく、猫を通して社会の変化が見えてきます。

たとえば、今「猫寺」「猫島」がもてはやされていますが、実はずっとそうだったわけではなく、戦後、増えた猫に困り駆除するなど厄介者扱いしていたのに、その後猫ブームに乗って観光資源として猫をもてはやすようになった例がいくつもあります。

また、メディアやネット上で「猫島」として取り上げられているけれども、実際には島の中で「大切にしたい」派と「駆除してほしい」派で対立が続いているところもあります。今も猫をめぐるトラブルがなくなったわけでもなければ、不妊去勢手術やマイクロチップの埋め込みを進めればおしまいでもありません。

結局、人間同士のコミュニケーションが重要なのですが、対話や議論をどう作っていくのかは猫に関係することに限らず日本社会の課題です。

猫好きの方も歴史が好きな方も、身近な存在である猫を通じてこれまでを顧みて、これからについてを考えてもらえればと思っています。