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あとはおまかせ
キスカ島撤退作戦 知ってましたか?
私も 知らなかったので 多分知らない方が大半と思い 紹介します
1943年(昭和18年)5月27日から7月29日に行われた日本軍の北部太平洋アリューシャン列島にあるキスカ島からの守備隊撤収作戦のことである。正式名称はケ号作戦。北方部隊指揮官河瀬四郎第五艦隊司令長官が総指揮をとる。 5月下旬から実施された潜水艦による第一期撤収作戦は成果の割には損害が多く、また効率も悪かったため6月下旬をもって打ち切られ、水上艦艇による撤退作戦に切り替えられた。第一水雷戦隊司令官木村昌福少将が収容部隊を指揮した第二期撤収作戦において、同艦隊がキスカ島を包囲していた連合軍に全く気づかれず日本軍が無傷で守備隊全員の撤収に成功したことから「奇跡の作戦」と呼ばれる。
(以下 軍事オタク以外には 詳しすぎ?でしょう)
映画にもなったんですね↓
【実話戦記】太平洋戦争の奇跡が始まる「キスカ島撤退作戦」前編 by はるな ..
なんだか 暗くて なにやってるか ピンとこないとこも ありますが 三船敏郎が好演 軍隊のトップが ここまで優秀だったと 驚き
アニメンタリー『決断』 第16話 キスカ島撤退
米軍事情も織り交ぜて描いて この2本を みたら この作戦の概略 わかります
ただ もっとも重要な いつ濃霧のになるのかが 軽く扱われている そこで
気象士官(少尉)を務められていた竹永一雄氏登場です
一般社団法人日本気象予報士会 神奈川支部
濱野 会員(千葉支部)「キスカ島撤退作戦」
厳重に包囲していたアメリカ軍の哨戒網に全くひっかかることなく5000名を超えるキスカ島守備隊全員の撤収を成功させたキスカ島撤退作戦において、 アリューシャンの霧の発生を気象士官が見事に予測した功績をお話いただきました。
当時気象士官(少尉)を務められていた竹永一雄氏御本人へのインタビュー結果も交えた迫真の御発表に、参加会員一同、感嘆いたしました。
その やや詳しい解説↓
「グ海に張り出して来」自分のグラスにのブログ | 自分のグラスにのページ ..
竹永一雄氏は・・ 中央気象台や海軍の気象部だけでなく、陸軍気象部にも出向いて、過去十年間の、五、六、七、三カ月の天気図をすべて見せてもらい、その写しを作り、山のような資料カードも作り上げた。毎晩ほとんど徹夜であった。この作業をやっているうちに、北方気象の特性、ことに霧の発生する場合のパターンが大体分って来た。
その結果竹永少尉が編み出したのが、幌筵を基点とするプラス2のセオリーである。つまり、キスカ、アッツ方面の天候は、幌筵から二日おくれで必ず幌筵と同じ状況になるという法則であった。
日本内地で朝かかる霧はいわゆる放射霧で、北方の霧とは全然性質がちがう。千島やアリューシャンの霧は、海霧、又は移流霧といって、あたたかい南風にふくまれた水蒸気が北の海面で冷却されて生れるものだ。それが発生するには、低気圧がベーリング海に入って、西アリューシャンが南高北低の気圧配置になり、太平洋南部の高気圧から南風が吹きこんで来ることが条件であった。
したがって、ベーリング海に張り出して来る低気圧を事前にオホーツク海でキャッチすれば、幌筵にいつ霧が発生するかの予想が立ち、幌筵が霧になればプラス2のセオリーでそれから二日後にキスカ方面が霧になる。・・・
二人目 第一水雷戦隊司令官木村昌福少将のこと
No.859 国史百景(9): キスカ島守備隊を救出せよ(上)
木村昌福は・・海軍兵学校での卒業時の成績は118人中107番という「ほぼビリ」であり、卒業後は水雷艇の艇長など、地味な道を歩んだ。しかし、木村は不満も見せずに、小さな艦艇で乗員たちを息子同様に愛情を持って育てた。・・・
木村昌福 wiki
・・・・戦後は山口県防府市の海軍兵学校防府分校跡地に於いて、彼を慕う旧部下と共に製塩業を営んだ。資金調達や販売先の確保などに自ら奔走し事業は成功した。トレードマークであったカイゼル髭を剃り落し、穏やかな日々を送ったと言われる。
太平洋戦争中の数々の武勲や戦歴についても寡黙であり、1957年に元海軍中佐で戦史家の千早正隆が木村らに取材してキスカ撤退作戦の経緯を雑誌に発表するまでは、家族すら木村の事績を知らなかったという。。
なぜか ドナルド・キーン氏が ↓
キスカ島撤退作戦 とは【ピクシブ百科事典】
コテージ作戦
アメリカもこのキスカ島を奪い返そうとしており、上陸作戦などを考案していた。
戦艦などを用いた海上封鎖も行っていたが、その発砲により帝国海軍の艦隊を撃退したと思ったのか、よりによって木村提督の突入の日に限り艦艇を引き上げてしまった。
そして後日、艦砲射撃を加えたのち、34000人もの兵力で上陸作戦を行う。
が、既にキスカ島はもぬけの殻。 緊張状態にあったアメリカ兵はいない日本兵と戦闘する勢いで突入したため同士討ちが起き100名以上の死者を出してしまった。
極め付けには、キスカ島守備隊の軍医が「ペスト患者収容所」などと書いた看板をイタズラで置いた(これを翻訳して報告したのが、後に日本文化研究者となるドナルド・キーンであった)ために、キスカ島上陸部隊は後にパニック状態となる。
余談だが、戦後にとある週刊誌が間に立ち、このイタズラ書きの主と、ドナルド・キーン氏は対面を果たし、キーン氏はイタズラ(攪乱)だったと知って、「してやられた」と破顔一笑だったらしい。
1940年(昭和15年)、厚さに比して安価だったというだけの理由でタイムズスクエアで49セントで購入したアーサー・ウェイリー訳『源氏物語』に感動。漢字への興味の延長線上で日本語を学び始めると共に、角田柳作のもとで日本思想史を学び、日本研究の道に入る。1942年(昭和17年)、コロンビア大学にて学士号を取得。コロンビア大学当時はフランス文学も研究していたが、ともに日本語を学習したポール・ブルームから、「フランスに比べて日本は研究者が少ない」という理由で日本を研究することを薦められたという。
まだまだ いろんな記事あるんですね 興味ある方はどうぞ↓
学者の良心はどうした!―「太平洋奇跡の作戦 キスカ」
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