milima父のブログ/トルコ・ヨルダン・その他

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ヨルダン通信その3(2008年6月)

2012年07月13日 | ヨルダン通信

ヨルダン通信その3
 
ヨルダンでのボランティア活動もあと半月程度になった。今の時期はアブドゥーンの日本庭園の設計及び積算も終わり、帰国準備に追われているはずだった。ところが、そうは問屋が卸さないのがここヨルダン・・・。

《現場で作業仲間と取る昼食》

終盤に来てから、植栽樹種の変更で図面の訂正を依頼され(もっと早く言えよ・・・)、工事費の積算もヨルダン市役所側の単価提示が遅れている。灯篭や竹垣,手水鉢等、日本から輸入する資材は私の会社で調査し、その積算は終わっているのだが・・・。

しかし、ヨルダンで調達する材料、施工についてはヨルダン側の単価が必要である。1ヶ月以上も前から、工事単価を調べて欲しいとカウンターパートには依頼していたが、彼女も多忙を理由に、なかなか値段を出してくれない。覚悟はしていたものの一筋縄ではいかないものだ。

《日本大使館での打ち合わせ》

計画は順調に進んでいると考えていた私が浅はかだったのか・・・。修正図面は私自身が頑張ればいいので、なんとか間に合いそうだが、積算はヨルダン側のやる気に任せるしかなさそうだ。プレッシャーは掛け続けなければならないが・・・。まあ最低でも私のできる仕事だけは終了したいと考えている。

その他は “インシャアッラー!!神のご加護があればなんとかなるさ・・・”

 《職場仲間のロシア人、アンナ(左)とラーント(右)》

《いつも愉快なサウサン(左)とリハーム(右)》

日本庭園に使う石の調査で日本大使館職員の方と、カラクという街を訪れた。ここは十字軍とイスラム側との攻防で有名な場所で、十字軍によって築かれたカラク城がある。

《カラクで使えそうな石の調査》

《カラクにて》

途中、グランドキャニオンを思わせるような峡谷を下り、アンマン近郊での雄大な景色に改めてびっくり。街の手前にあった石も日本庭園に十分使えそうなのでひとまず安心。カラクの街で昼食を摂った後、死海経由(今回は見るだけで、浸かるのはまたの機会に・・・)でアンマンに戻った。

先月に引き続き花粉症がひどいので、医者に行った方が良いとJICAの健康管理員に言われ、一緒に病院に行くことになった。ヨルダンはアラブの国々の中でも非常に医療の進んだ国と言われている。特に、ここは首都アンマン。優れた専門医がいて、サウジアラビアやシリア、エジプト等他のアラブの国々から、避暑(アンマンは標高1,000メートル程度で他のアラブ諸国と比べると涼しい)と病気や怪我などの治療を兼ねて、夏場に多くの人々が押し寄せる。

トルコに引き続き、厄介な花粉症で、またまた医者の世話になった。耳鼻科の病院だったが、レントゲンと共に生まれて初めてのCTスキャンまで撮影される。花粉症から副鼻こう炎を併発し、それにより喘息の症状が出ていると言う。日本よりも実に的確な診断であった。

CTスキャンは重病人に必要なものと思っていたが、撮影されてみると簡単で悪い箇所もはっきりフィルムに写る。ヨルダンで初体験し、これはなかなか素晴らしいものだと感心した。

観光はインディージョーンズ“最後の聖戦”の舞台である、ペトラ遺跡を訪れた。映画で見た岩の回廊(シーク)をしばらく進むと眼前にエル・ハズネが飛び込んでくる。

《ペトラで最初に現れるモナストリー》

《シーク(岩の回廊)を走る馬車》

《ラクダ使いとラクダ達》

岩の割れ目から見たペトラ、エル・ハズネの遺跡は世界遺産に値する十分な貫禄を持っていた。

《シーク(岩の回廊)からエル・ハズネの印象》

《エル・ハズネの印象》

《眼前に突然現れるエル・ハズネ全景》

《ペトラの少女》

 

《ペトラの老人》

《ペトラ奥にあるエド・ディル》

そして、ヨルダンで唯一の外海(死海は湖)である紅海に面している、アカバを訪れた。本業?のカメラ撮影のためには、花粉症や仕事の忙しさにも負けてはおれない・・・。

《アカバ港の海水浴場》

《海水浴に来た母子》

《アカバ港からイスラエルの都市、エイラートを望む》 




ヨルダン通信その2(2008年5月)

2012年07月12日 | ヨルダン通信

ヨルダン通信その2  

5月に入り、さぞかし暑くなるだろうと思っていたが、最近は赴任当時のように涼しい。春のこの季節は日本やトルコと同じようにカモガヤの花粉症で悩んでいる。 

仕事は順調にこなしている。日本庭園の建設予定地であるアブドゥンの敷地図をシハームから受け取り、私なりの提案図面を作成した。敷地の面積は2,500平方m程度。 

《Abdoun(アブドゥーン)にある日本庭園の建設予定地》

ここヨルダンではトルコ以上に水が不足しており、後の管理を考えると、枯山水の回遊式庭園が妥当だろう。石や砂利は探せばただ同然で手に入るので、それらを多用したものとなる。結局、トルコのカイセリに作った日本庭園と雰囲気が似通ったものになってしまう。  

《1回目の図面を作成》

しかし、今回は灯篭や竹垣、手水鉢等の材料は日本から輸入できそうだ。日本の材料が手に入れば、随分と日本庭園の雰囲気は出てくるだろう。 最初の提案図面を今回の日本庭園の主要な依頼先でもある“ヨルダン生け花インターナショナル”の会長に提出し、彼女の要望を聞いた。生け花の展示や作業のために、100平方m程度の日本的な建築物と作業道具を置く小屋が必要との事。

《ヨルダン生け花インターナショナル協会の会長(左)と日本庭園の計画を練る》

その他は私の提案が気に入ったようで、現在の雰囲気を残しながら、2回目の提案図面の制作に取り掛かった。 Macのコンピュータを持ってきていないので、久しぶりに手描きの図面になるが、ほぼ平面図とパース(鳥瞰図)は完成した。

《2回目の図面に取り掛かる》

次に、工事費の概算を出す。 概要が決まれば、この計画を日本の万博記念基金に申請するとのこと。上手くいけば来年度に工事に取り掛かる予定だ。果たして順調に計画が進んでくれるだろうか? アラビア語で、インシャッラー(神のご加護があれば)!! トルコとはイントネーションが微妙に違うが、まさしく神のご加護があれば上手く行くに違いない。

さて、観光はヨルダンでの任期が3ヶ月しかないので、休みの日は精力的に動いている。事務所の仕事仲間であるサートの家(アンマンから車で1時間足らず、ザイという村に住んでいる)にも宿泊し、彼の弟の結婚式にも招かれた。披露宴では250名分ものマンサフ(羊の肉をヨーグルトのダシで煮てサフランライスと一緒に食べる、ヨルダン独特のもてなし料理)が用意され、見応え十分。

《自宅前で、朝食を前に、サートとお父さん》

《サートの姪っ子》

《たくさんのヤギや羊の世話をしているサートの甥っ子。田舎の風景に感激!》

《サートの親戚の結婚式に招待される。花嫁と花婿》

《250人が一斉に結婚式のもてなし料理のマンサフを頂く》

《サートの伯父さん。なかなか絵になるショットが撮れた》

《さーとのお姉さん》

そして、ヨルダンではインディージョーンズ“最後の聖戦”のロケ地となったペトラ遺跡があまりにも有名だが、ペトラに次ぐ遺跡のジェラシュへ行った。ここはアンマンの北50kmにあり、ローマ人がアラブに作った都市の中でも最も華麗で壮大な遺跡だ。非常に暑い日だったが、帽子を忘れたので、みんなが頭に被っているアラブのターバンというかスカーフを買う。他の観光客の目を惹き、ちょっとアラブ人になった気分。春の花で満開の遺跡を見学した。

《ジェラシュの凱旋門で。頭にターバンを巻いて、アラブ人気取り》

《ジェラシュの円形劇場》

《エンタシスの柱が並ぶ》

《空に突き上げる神殿の柱》

《ジェラシュの数珠売り》

また、イスラムの礼拝日の金曜日に、ダウンタウンにあるキング・フセイン・モスクを訪れた。モスク内にあまり人が入っていなかったので、とりあえずFさんと中に入り、座ってカメラで隠し撮りしていた。 すると人々が続々と入ってきて抜け出すこともできず、とうとう礼拝になってしまった。

《ダウンタウンにあるキング・フセイン・モスク》

周りの人々の真似をしながら、1時間半あまり、イスラム教徒と一緒に礼拝をすることになった。   

《静かにコーランを読む老人》

日曜日はイースターだったので、マダバという街にある教会でイースターのミサを経験。金曜日はムスリム(イスラム教徒)に日曜日はキリスト教徒になってしまった。様々な神を信じられるのも非常に寛大な?仏教徒のお陰だろう。

《マダバの教会でイースターのミサ》

《有名なセント・ジョージ教会のモザイク地図》

このマダバから10km程離れたところに、旧約聖書に出てくるモーゼゆかりの地、ネボ山がある。モーゼがヘブライ人を率いて、エジプトから脱出する物語だが、シナイ山で有名な十戒を授かった後、死海のあるヨルダン渓谷を北上する。そして、このネボ山で人々に“あれが約束の地だ”と山頂からパレスチナを指し示し、自分はここに留まったとされる・・・。 まさしく、モーゼ終焉の地なのだ。また、途中にはモーゼが岩を杖で打つと、水が湧き出したと言われるアイン・ムーサの泉があった。ここヨルダンは旧約聖書の舞台。旧約聖書に思いを馳せ、ロマンの世界に浸ることができた。

《ネボ山頂にあるモーゼの杖のモニュメント》

 


ヨルダン通信その1(2008年4月)

2012年07月11日 | ヨルダン通信

ヨルダン通信その1

2007年11月にトルコから帰国、すぐさま会社に復帰した。仕事も繁忙期で、トルコの日々を懐かしむ間も無く懸命に働いていた。

そんな折、シニアボランティアでヨルダンでの短期募集(3ヶ月間)が出ていた。日本庭園の設計指導だったので、私の得意分野だ。イスラムの国で日本庭園の設計指導は私以外にできる者はいないだろう、という勝手な思い込みで社長の許可を得、再び海外に出た・・・。

2008年3月26日にヨルダンの首都、アンマンに到着。思っていたよりも涼しく、しのぎ易い。しかし、これから夏に向かって、どんどん暑くなってくるようだ。

ヨルダンでの職場は首都アンマン市役所の公園課。まず市役所の本庁へ赴き、公園課長のラカーンに会う。そして、別の場所にある公園事務所に案内される。このオフィスは現在の国王、アブドゥッラー2世の父親であったフセイン前国王にちなんだ公園、“キング・フセイン・パーク”に隣接していた。公園では新しいモスクが建設中で、施設もまだ完成していない。アンマン市街の眺めが良く規模の大きな公園だ。休日は市民の憩いの場になっている。子供博物館や自動車博物館があり、たくさんの子供たちが遠足でやって来る。

《私の職場である公園事務所》

《キング・フセイン・パークに建設中のモスク》

《モスク中庭》

《日本庭園を模した庭だろうか?》

 

また、アンマン最大のショッピングモール、シティモール(フランス系のスーパー、カルフールもある)やメッカモールも隣接し、買い物には非常に便利な所だ。

《アンマン最大のショッピングモールであるシティ・モール》

《アブダッラー2世の肖像画が掲げられているメッカ・モール》

トルコにおける初代大統領、アタチュルクのように、ここヨルダンでもフセイン前国王とアブドゥッラー2世国王の写真や肖像画がオフィスや家庭、外の看板等、いたる所に掲げられている。メッカモールの入り口にもアブドゥッラー2世国王の大きな肖像画があった。

さて、私のカウンターパートはシハーム・ハディーディという女性だ。彼女はこの公園事務所の所長。建物の部屋は玄関ルームの他に三つ。一つは彼女の部屋で後の二つは女性ばかり。

《公園事務所長のシハーム・ハディーディ》

 

デスクはこの女性ばかりの部屋にあてがわれた。 男性は雑用係りや運転手、守衛など5,6名ほどいるが、ちゃんとした部屋を与えられているのは女性だけで、彼らは玄関にたむろしている。 観察していると、彼女らの技術たるや凄いもので、コンピュータでAuto CADを使いこなし、英語も非常に堪能。部屋の中は四六時中、アラビア語と英語が飛び交っている。

《女性に囲まれた私の部屋》

 

私の生活であるが、最初に泊まったホテルが非常に気に入ったので、3ヶ月間ここで暮すことにした。JICA事務所にも至近で、歩行者天国にスターバックスやブティック等の洒落た店もあり、さしずめ高級ショッピング街。

朝6時に起床。朝食を摂り、歩いて職場に向かう。職場までは歩いて50分。最初はカウンターパートから事務所の車でホテルまで迎えに行かせると言わたが、運転手が来るのを渋っているようだったので、 きっぱり断わった。50分は結構きついが、メタボ解消(トルコ帰国直後の健康診断でメタボ要注意と言われた)になるので、頑張って歩くことにした。

《通勤途中にある建設中の近代的な美しいモスク》

 

歩いている道すがら、様々な景色や人々に出会える。先日も、後ろ姿の格好いい警察官を撮影していると呼び止められ、何を撮っていたのかカメラを見せろと言われた。幸いオフィスの近くだったので、警察署に連行される前に、逆に彼を職場に連れて行こうとした。さすがに彼も忙しいのか、諦めたようで無罪放免となった。

《格好いいおまわりさんと路線バス》

 

勤務時間は朝8時から午後3時まで。昼食の時間は無いが、勤務途中にみんな集まって果物を食べたり、パンなどの軽い食事を摂る。食べる場所は男女別だが、私はどちらにも誘われるため、結構腹の足しになる。昼飯代が浮いて好都合。

この職場では金曜日(イスラム教の安息日)が休日で、週6日勤務。普通は土曜日も休みだと聞いており、必要だったら休んでも構わないと言われたが、特別待遇も嫌なので土曜日も働くことにした。

最初の休みに、同期ボランティアで一緒のホテルに滞在している、貿易指導のFさんと共にアンマン市内にあるローマ劇場とアンマン城を訪れた。ローマ劇場はアントニウス・ピウス皇帝によって138年から161年に建設されたもので、国内最大。トルコのエフェスで見たものに勝るとも劣らない規模だ。アンマン城はダウンタウンや円形劇場を望む小高い丘にあり、ローマ時代のヘラクレス神殿の柱が蒼い空に向かって屹立している。トルコで本物の遺跡を見ていたつもりだが、なかなかのものだ。

《ローマ円形劇場》

《劇場の上部で談笑する男性同士のカップル?》

《凱旋門のエンタシスの柱》

《アンマン城にあるビザンチン時代の教会》

《ガイドのおじいさんに説明を受けるFさん》


ヨルダンにはアラビアのロレンスの舞台になったワディ・ラムやインディージョーンズの最後の聖戦の舞台、ペトラ遺跡等々、まだまだ素晴らしい見所がある。外貨収入源の少ないヨルダンではこれらの観光資源は魅力一杯。日本人観光客を呼ぶためには、日本庭園も一役買うかもしれない。

翌週はサルトという街に行った。古い街並でなかなか美しく、しかも活気ある街だ。カウンターパートのシハームや同じ部屋のラーントもこの街の出身である。利用したタクシー(ヨルダンはタクシー料金が安く、もっぱら移動はタクシー。街中だったら100円から300円程度で十分)の運転手もここの出身で、街を丁寧に案内してもらうことができた。シュクラン(ありがとう)。

《オスマン・トルコ時代の古い街並が残っているサルト》

《居眠りするおじさん》

 


郊外の街も首都同様、綺麗でゴミも少なく、石造りの重厚な建物などを見ると、美的感覚に優れていると感じられた。

《オスマントルコ時代の街並が美しい》

 

 


メルハバ通信その22(2007年12月)

2012年06月11日 | メルハバ通信

メルハバ通信22(最終回)

11月17日、 自宅に無事辿り着いた。19日から職場である(会社に籍を置く現職参加だったので)山口造園に出社した。連日、個人邸の樹木剪定作業に精を出している。造園業界にとっては一年中で一番忙しい時である。正月まで、雨以外は休み無しといったところだ。

今日は珍しく朝から雨が降った。久し振りに作業は休み、ホット一息。この最終回のメルハバ通信を作成している。お世話になった方々への報告を兼ねて、海外でのボランティア活動を振り返ってみたいと思う。

私は1981年に青年海外協力隊でタンザニアに派遣された。タンザニアの人々は私を本当に心暖かく迎えてくれた。今でもそうだと思うが、当時のタンザニアは非常に貧しく、国民が常に飢えている状態だった。そんな中でも人々はアフリカの日差しのごとく、眩しいばかりの明るさで私に接してくれた。彼らの心の豊かさに驚くと共に感動し、少しでもこの国の人々の役に立ちたいと考えていた。しかし、父の急逝により、赴任後5ヶ月足らずで日本への帰国及び任期短縮を余儀なくされた。

このタンザニアでの経験が以後、私の人生の礎となっているといっても過言ではない。貧しいタンザニアにボランティアに出かけたのではなく、逆に豊かな心を持ったタンザニアの人々に魅了されてしまった。とにかく人は明るくなければいけない。どんな時でも明るく生きていくことが人間にとって一番大切なことであると信じるようになった。

それから20年以上経過し、いつかは外国で人々のお役に立てればと考えていた。今回、多くの人々のお蔭で海外でのボランティア活動ができた。そして、無事にトルコでの任期を全うすることができた。タンザニアでは2年間の任期を全うすることができず、それだけが心残りであった。

トルコでの2年間は実に満足する仕事を与えられ、それに対して精一杯活動することができた。造園の仕事だけでなく、今までの経験すべてがトルコでの活動に役立ったと実感している。

私の残した仕事が果たしてトルコ、カマンの人々の生活向上に役立ち、また今後どれだけ役立つかは解らない。しかし、成果はともかく、現地の人々と共に汗を流し、笑いや悲しみを共有し、一緒に仕事をした事が大切だと思っている。たった2日間ではあったが、断食も経験した。イスラムの人々の辛さと共に、食べ物のありがたさが解ったような気がする。

妻と娘も途中でトルコに来て、周りの心温かい人々に支えられ、実に快適な生活をすることができた。家族で日本では得られないような貴重な体験ができたと思っている。カメラに納めた人々の笑顔を眺めていると、心暖かい人々との数々の出会いが走馬灯の様に蘇ってくる。

赴任前、東京(広尾)での研修中、青年海外協力隊の事務局長の言葉に感銘を受けた。“任国の人々は君達の背中をじっと見ている。黙々と作業をする姿を現地の人々はきっと忘れない・・・。”

一生懸命さえやっていれば、誰かが私の姿を見ていて、そして考えてくれるはずだ。私のボランティとしての姿勢なり考えがトルコの人々に僅かでも影響を与え、この国を良くする原動力になってくれると信じている。たとえ、それが蟻のように小さな力だとしても・・・。

この2年間、私を応援して頂き、本当にありがとうございました。感謝の念に耐えません。この体験を無駄にしないよう、これからも精進するつもりです。今後とも何卒宜しくご指導の程、お願い申し上げます。

平成19年12月3日  枚方市の自宅にて、福田嘉之


メルハバ通信その21(2007年10月)

2012年06月03日 | メルハバ通信

メルハバ通信その21

ついこの前まで真夏のように暑い日もあったが、4,5日前から急に寒くなり、アパートでも暖房が欲しくなった。ここカマン、アナトリアではそろそろ短い秋を通り越して冬支度。昨年も11月初めに大雪が降った。もう直ぐカマンでも初雪がありそうだ。

トルコでの生活も残り20日程になってしまった。月日の経つのは全く早いものだ。作業も正真正銘のラストスパート。カマンの日本庭園では完成した藤棚とあずまやの柱基部を小石で補強している間に、ムラムラと作庭意欲が湧いてきた。

一緒に作業しているガリップと近くの川原で小石を探していると、石臼らしきものが転がっていた。臼を回転させる棒を差す穴が開いている。つくばいの手水鉢代わりに使えそうだ。つくばいをポイントに、あずまやの下をちょっとした坪庭風に仕上げてやろう・・・。

しかし、ガリップがこの石臼は相当古いので、考古学的価値があるかも知れないと言い出した。勝手に使うとここトルコでは重罪になる。研究所のM考古学ドクターに聞いてみると、転がっていた所が発掘現場ではないので、使ってもいいだろうということ。庭に利用することにした。地面に転がっているよりも、利用してやったほうがこの石にとっても幸せに違いないと勝手に解釈した。

延べ段に使う石敷きの小石が少なかったので、あずまやの椅子の下には日本で言うピンコロのような角張った切り石を繋げてアクセントに使う。

《坪庭の制作途中》

先日ようやく完成したが、自分でもなかなかの出来だと思っている。カイセリに日本庭園を作成したが、カマンでは庭らしいものを作っていなかったので、ちょっとした私の置き土産である。

《あずまや下の坪庭の完成》

小石の目地モルタルを押さえるのに、小さな目地ゴテがトルコにはない。代わりにドイツで購入した油絵用のコテを利用した。これがなかなか使い勝手が良い。日本に帰ってからも十分使えそうだ。

藤棚の植え桝も角石で縁取り、土の部分が低かったので、中には小石を配置した。

さて、9月13日からトルコではイスラムの一大行事(修行?)であるラマダン(断食月)が始まった。昨年は断念したが、今年は最後なのでちょっと挑戦してやろうと、オロチ(断食)に挑んだ。2日間位は少なくとも続けるつもりだった。

まず1日目、午前3時に街を練り歩く太鼓の音に起こされる。毎日みんなを起こすために太鼓を鳴らすのだ。朝食の準備はできているので少し眠り、太陽が出る前にたらふく朝食を食べる。今年はまだ暑い(年によってラマダンの月は変化する)ので飲めるだけ水を飲んだ。お腹は水ではちきれんばかり。

空腹よりも喉の渇きに耐えられないことのほうが多いと聞いている。アフリカ(タンザニア)ではラマダンでも水は飲んでいいことになっていたが、本来は水も飲めない。

カマンのアパートから日本庭園まで行くのに、体力温存のためバスを使う。仕事も無理をしないよう、また汗もできるだけかかないようにヤワッシュ、ヤワッシュ(スロー、スロー)に徹し、作業終了の5時まで無事に過ごした。

バスでカマンに帰り、イフタル(ラマダンの食事)が用意された市役所のテント(貧しい人々のため、ラマダン月に無料で食事が施される。)で待ちに待った食事である。頂いた食事のそれはそれは美味しいこと。

《テントの中でイフタルを頂く》

《イフタルの食事》

《子供達と一緒にイフタルを頂く》

っていたより簡単にオロチが経過し自信を深め、2日目は無謀にも自転車で日本庭園に向かうことにした。仕事もセーブせずにいつもの様にこなす。ところが昼を過ぎてから、体力的には大丈夫だったのだが、なぜか頭痛がする。とたんに身体もフラフラになり、夕方早々と自宅へ。軽い熱射病だったのだろうか? やっぱり、いつものような作業は無理だと感じた。

周りのトルコ人もできるだけ身体を動かさないようにしている。これでは作業も捗らないし、2日間もやったのだからもういいだろうと私のオロチは終了と相成った。

でも、私がオロチに挑んだことが“日本人が2日間のオロチを経験!”とカマンの新聞に掲載された。少しはイスラムのラマダン時の気持ちが解ったような気がする。

確かに食事のありがたさは実感できたが、1ヶ月はちょっと長すぎるだろう。普段どおりに作業できればいいのだが、その間結局作業効率が落ちてしまう。とにかく2日間のオロチも終了し、その後はいつも通り作業を続けた。

ラマダン中の10月16日はカマンで唯一の祭りらしい祭り、ジェビズ(クルミ)祭りが開催された。昨年は春の晩霜のため、殆どのクルミの芽がやられてしまい、実が成らなかった。お陰で恒例のジェビズ祭りも中止。

今年こそはと期待していたが、あいにくラマダン月と重なり、なかなか催行決定が出なかった。ようやく開催することに決まり、妻や娘またアンカラから同期のSV隊員2名とトルコ人もカマンに来て祭りに参加した。

昼間、クルッカレの街からオスマン時代の衣装を着た人々がやって来た。笛や太鼓の音に合わせて街を練り歩き、市役所前のアタチュルク広場で盛大な開会式があった。クルミやその他の品物を売る物売り達と多くの市民で賑わった。

《祭り会場》

《会場のいたる所でクルミを売る》

陽が暮れて、みんなで市役所設営のテント内でイフタルの食事を頂いた。さあ、外に出てこれからが本番。特設会場には次々と市民が訪れる。カマンにこれだけの人々がいたのかと改めてビックリ。

まず、サズ(トルコギター)の演奏。ベテランと若者の二人が続いて演奏したが、その演奏技術や夜空に響く歌声に感動。

今年、質の良いクルミを栽培した人々等が表彰を受け、誇らしげに喜びを顕わにする。

《誇らしげにクルミの自慢をするおじさん》

そしてステージではコミカルなショーや手品等のアトラクション。会場で盛大な花火が打ち上げられた。トルコで見る初めての本格的な打ち上げ花火である。その迫力に“田舎町のカマンもなかなかやるな!”と思わず感心した。しかし、 費用も大分掛かっているのでは・・・。私も今は一応カマン市役所の職員である。ちょっと市の財政も心配する。

さて、このまま祭りはいつ果てるとも解らない。女性歌手の張りのある歌声を聞きつつアパートに戻る。

日本人同士でアルコールを交え、打ち上げのパーティーだ。アンカラの友人達もカマンの底力にビックリといった所ではないだろうか?念願のジェビズ祭りを体験することができ、これで本望。思い残すことなくカマンを後にできます。

さて、祭りも終わり、ラマダンの最終週にカイセリの日本庭園の仕上げに向かうことにした。8月に日本から来た友人とこの庭園を訪ねた時に、あまりの荒れ果てようにがっかりしていた。何とか整備し、見られる庭にして帰国しなくてはと考えていた。

《池の中は雑草だらけ》

まず、雑草だらけの枯れ池の中で小石を綺麗に取り除き、雑草を抜く。池の下には予め雑草除けのモルタルを塗っていたので、思っていたよりも簡単に抜けた。綺麗になった後に、もう一度小石を並べる。池の姿が見違えるようになった。やはり、日本庭園では日頃の手入れが大切だ。メリカジ市役所の公園長に手入れをきちんとするよう申し入れた。しかし、トルコに来る機会があれば是非見てみたいものである。

制作途中だったつくばい周りでは、予てより依頼していた織部灯篭と手水鉢がとうとう間に合わなかった。結局灯篭は諦め、手水鉢は石材屋に行って、何とか使えそうなものを調達した。そして、ようやくつくばいも完成。なかなか満足とはいかないが、何とか格好が付いたのでは・・・。つくばい周りの植栽も指示した。樹木が植わればもっと雰囲気が出るだろう。

《日本庭園》

《日本庭園、枯れ池》

《つくばい回り》

《延べ段と景石》

《エルジェス山石組み》

《夜の日本庭園》

やっとカイセリの日本庭園を仕上げ、トルコに来た時からの念願であったエルジェス山登頂を目指した。ところが、カイセリでの仕事の最終日、午前中は快晴だったのに、午後から俄かにエルジェス山から雲が湧き出て、不穏な動き・・・。みんなはエルジェス山では雪が降っていると言う。まあ、仕方ないさ、行けるとこまで行くだけさと、みんなの制止を振り切り、写真だけでも撮ろうと、エルジェス山の麓にあるスキー場までドルムシュ(乗り合いバス)に乗る。

一緒に乗り合わせた家族が“エルジェス山は雪だから登山は諦めて私の街まで来なさい。”と言うが、とにかく麓だけでも歩いて来なくては気が治まらない。丁寧に誘いを断り、予定通りスキー場で降りた。

《スキー場からエルジェス山、翌日撮影》

エルジェス山は雲の中で見えないが、雨がしとしと降り続いている。おそらく上では雪が積もっていることだろう。ホテルに着いて、“エルジェス山に登りたい”と言うと、主人はピッケルを貸してくれるということで少し安心。

ジャンダルマ(郡警察)に登山届けを出しに行った。エルジェス山までの時間を聞くと、今はリフトが動いていないので、登りだけで9時間掛かると言わる。まして、ここ最近は誰も登っていないとの事。

スキー場は標高2,000メートル足らず。3,940メートルの頂上まで標高差2,000メートル。宿の主人も往復で12時間は必要だと言う。夜明けを待たず、5時に出発するとし、明日の好天を期待して眠りに付いた。

緊張しているのかあまり眠れず、窓から外を見ると星が瞬いている。天(アッラー)はわれに見方せり!

5時過ぎにカイセリで買った懐中電灯を頼りに宿を出発した。クルト(狼)や野犬が出没すると聞いていたので、自転車に乗っている時にいつも持参している、おもちゃの火薬ピストルをポケットにしのばせ、いつでも撃てるように手も引き金に・・・。

途中犬らしい鳴き声がしたが、姿を見ることも無く辺りが明るくなった頃、リフトの終点2,900メートルに達した。良いペースだ

《エルジェスからの山の夜明け》

ここからいよいよ尾根に取り付く。やっぱり足元の雪が多くなってきた。アイゼンが無いのでスリップに注意して確実に登る。高度感も増してきたが、何とか登れそうだ。スリップしても下まで落ちないように忠実に尾根伝いに登る。

《エルジェス山》

10時頃小さなコブに登り、上を見ると純白の雪に輝く稜線が・・・。地図にある3,700メートルのピークだろうか。

圧倒的な高度感と共にチベットを思わせるような陰影のある雪の美しさが私を待っていた。もしあの稜線でスリップしたら・・・。今までに無いような恐怖感が私の中で湧いてきた。

《最高到達地点より》

悲しいかなこれが歳というものであろうか? 恐怖感で足元がすくむと余計にスリップし易くなってしまう。以前なら恐怖感など感じることも無く果敢に挑戦した私であるが、事故でも起こして家族やJICAに迷惑をかける事になってはと、ここで潔く引き返すことにした。

《登ってきた道を引き返す》

おそらく2日前なら雪も無く、夏山の感じで簡単に登れていただろう。しかし、昨日だったら午前中の快晴で、登頂はできただろうが、きっと午後の吹雪に襲われて下山が困難だったと思う。

“またいつか登りに来るからな。”とつぶやいてエルジェス山を下り始めた。おそらく3,600メートルには達しているだろう。体力的にはまだまだ余裕があった。悔しい思いよりも自分の体力に自身が持てて、いつかは登れるという満足感で一杯であった。頂上には登れなかったけれど、新雪のお陰で素晴らしいエルジェス山の姿も拝むことができた。

エルジェス山が私の耳元で“そんなに簡単には登らせない。お前をずっと待っててやるから、きっとまたトルコにやって来い!”と囁いた感じがした。

 ところで私達親子の帰国日程であるが、トルコを11月7日に発つ。途中オーストリアに寄り、東京(成田)に14日帰国予定。東京で報告会や健康診断等があり、枚方へは11月18日(日)に戻る。次回のメルハバ通信は日本に帰ってから、2年間の報告を兼ねて送りたいと思う。