milima父のブログ/トルコ・ヨルダン・その他

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メルハバ通信その20(2007年9月)

2012年05月31日 | メルハバ通信

メルハバ通信その20

容赦なく強烈な日光が差す日中は、まだまだ暑いトルコのアナトリア地方だが、朝夕はだいぶ涼しくなってきた。外にいると半袖では肌寒いこともある。ふと耳を凝らすと鈴虫も泣いている。カラカラに乾いた空気も微かではあるが、秋の匂いが感じられる。

シニアボランティアの任期も残すところ2ヶ月になった。まだまだやり残した事がある反面、結構自分では満足できる活動ができたのではないかと感じている。ここに来させて頂いた多くの人々に感謝し、トルコでの残された日々を大切に過ごしていきたいと考えている。

さて、先月に取り掛かった“あずまや”の製作だが、新しい柱の基礎位置が崩壊前の位置とだいぶ“ずれ”があることを懸念していた。果たしてアンカラの職人が元通りに組み立ててくれるか不安だったが、日本から観光に来た友人をイスタンブールに出迎えに行っている間に見事に組み上げられていた。柱の“ずれ”も上手い具合に吸収されており、ほっと一安心。今回は私の心配が単なる危惧で済んだ次第だ。少々の“ずれ”はタマム(オーケー)とするトルコ人のおおらかな考えに軍配が上がった訳だが、偶然上手くいったような気もしないではない。まあ深くは考えないで、以前のように立派な“あずまや”が復活したので、ここは良しとしよう。

《職人の手により完成したあずまや》

現在はだいぶ涼しくなってきたので、樹木の刈り込み作業を一時中断し、藤棚と“あずまや”の柱の根元部分を石とモルタルで補強する作業に入った。

近くの川原(とはいっても雨が極端に少ないので水は枯れているのだが)で作業人のガリップと二人で適当な小石を選別して集める。ある程度集めたら、ケプチェ(バックホウの付いたブルドーザ)で日本庭園の入り口まで運んでもらう。ガリップは本来の芝刈りの仕事があるので、入り口からは私一人で石を積んでいる。日本と違って石も規格化されていなく、また砂やセメントも離れた場所から一輪車で持ってくるので、思ったよりも時間が掛かる。

石積みの仕上がりも日本と比べるともう一つ、もう二つといった感じではあるが、見栄えよりも柱の補強に重きを置いて製作している。モルタルの部分を増やし、目地も厚くしている。ここカマンでは日本と比べると遥かに強い風が吹く。構造物は強風対策が肝心である。私が帰国して直ぐに藤棚が壊れたでは、ここに何をしに来たのか解らない・・・。

《川原で拾ってきた石で補強する》

8月30日はトルコのいわゆる“戦勝記念日”で国民の祝日になっている。第一次世界大戦後、敗戦国であったトルコは戦勝国によってバラバラに解体されようとしていた。そこで立ち上がったアタチュルク(初代大統領で、今でもトルコ国民の英雄であり象徴だ。トルコ国中いたる所にアタチュルクの像、旗、写真、肖像画等が掲げられている。)がギリシャ軍をエーゲ海に追い返す戦争を開始したのがこの日であった。以後トルコ軍は快進撃を続け、イズミールでとうとうギリシャ軍を駆逐した。戦争を開始した記念の日を“勝利の日”として称えているそうだ。

カマンでも、夜になると祝砲が上がり、軍人達が松明とトルコ国旗で街の中心街を行進した。後にはたくさんの車や人々が続く。車のクラクションを鳴らし、歓声を上げたり・・・。夜遅くまで賑やかなお祭り騒ぎであった。

《軍隊によるパレード》

ところで、市役所の電気工事を担当しているムラットから彼の弟の結婚披露宴に、同期のSさんと私達家族が招かれた。トルコで正式に結婚披露宴に招待されたのは初めてだったので、期待して出かけた。トルコでも日本と同じようにお祝いとしてのお金を包むそうで、こちらの相場で一人当たり10リラ(1,000円程度)を持参した。

披露宴は夕方から始まり、花婿と花嫁の家族別々に催される。まず、会場であるムラットの実家に行くと、玄関で笛と太鼓の演奏で派手に出迎えられる。庭に通されるとトルココーヒーやコーラ、ジュースなどの飲み物でもてなされた後に食事が出される。

《笛や太鼓で出迎える》

我々は特別待遇で、少し離れた席でムラット自慢の魚料理が用意されていた。常は敬虔なイスラム教徒であるムラットもこの日は特別な日で、久し振りのビールを口にする。しかし、彼に言わせると、次は子供の結構式まで酒は決して飲まないとのことであった。披露宴で他に酒をたしなむ人もいるが、日本のように、おおっぴらには振舞われない。隅っこでビールの入ったコップを傾け、ひっそりと飲んでいる。やはりここはイスラムの国、アルコールは一応、禁止なのだ。ただし、アンカラやイスタンブールの披露宴では結構平気で飲んでいるようだ。

さて、ムラット特製のおいしい魚料理とビールでほろ酔い気分になり、みんなの踊りに参加する。トルコ人は実にダンス好きで、披露宴でもお祭りのように踊り明かす。我々もひっぱり出されて、下手な踊りを披露しする。みんなからは“やんや、やんや”の喝采である。

ムラットはサズ(トルコギター)の名手で、市役所の催しや祭りでは街の人々の前で必ずサズを演奏している。この日も、サズの腕前と自慢の喉を参加者に披露した。

9時頃になっただろうか。みんなが車に乗込んで移動する。我々にも“乗れ!”という。何事だろうと思ったら、花嫁の家でクナの儀式(染料を花嫁の手のひらに塗る)が始まるとのこと。

花嫁の家に行くと、花婿の所と同じように庭でみんなが踊りまくっている。踊りが終わると、ローソクを手にみんなが素早くトンネルのアーチを作った。スイカの実をくり貫いて作ったローソク立てもある。そのトンネルの中を潜って、花婿と真っ赤なベールで包まれた花嫁が登場。みんなの中心に据えられた椅子に二人が座った。

《トンネルを作り、花嫁と花婿を迎える》

そこで木の皮から作った染料であるクナが参列者に配られ、花嫁の手のひらに塗られた。このクナの儀式は、昔は男子禁制だったそうだが、今では結婚式の一つの儀式としてみんなの前で披露されているようである。

さて、クナの儀式も無事に終わり、とうとう花嫁が赤いベールを脱いだ。なかなか理知的な美しい女性である。そして、二人を中心にまた盛大なダンスが始まった。我々はここで花嫁の家をおいとまし、また花婿の家に戻った。

《ベールをかぶった花嫁》

《ベールを取って、ダンスに参加》

ところで先日、私の山岳部時代の友人がトルコを訪ねてくれ、アンカラやカッパドキアを案内した。念願だったウフララ渓谷を歩いた。ここはグランドキャニオン(行ったことはないが)を思わせるような渓谷に多くのキリスト教信者が隠れ住んだという渓谷である。教会跡も点在しいて、なかなか見応えと歩き応えのある所であった。

《ウフララ渓谷を歩く》

《スケールの大きなウフララ渓谷》

《ちょっと絵になるロバ》

《渓谷にはなぜか羊の群れも》

《カッパドキアにてスカーフ姿の女性》

《洞窟から望む》

《カッパドキアにて》

《洞窟天井に描かれたフレスコ画》

《カッパドキアにて》

大学時代にはよく3人で山を歩いたものである。あれから30年以上の月日が流れたが、思わず時が遡った様な気になった。“飛んでカッパドキア~♪(イスタンブールならず)”トルコでの山岳部時代の復活であった。


メルハバ通信その19(2007年8月)

2012年05月30日 | メルハバ通信

メルハバ通信その19

カマンは毎日嫌になるほどの快晴続きである。首都のアンカラでは水不足のために、とうとう断水が始まった。二日間給水、二日間断水といった具合である。ここカマンでも水は不足しているが、断水も数時間程度で、生活に不自由することはない。

しかし、娘の学校が9月から始まるので、妻と娘はもうすぐアンカラに戻らなくてはならない。彼女らが住んでいるアパートは結構大きな貯水タンクがあり、 少しはましであるが、やはり不自由するだろう。せっかくシニアボランティァでトルコに来たのだから、たまには他の開発途上国のような苦労を体験するのも良いだろう。

さて、日本庭園ではこの季節に藤の花がまた咲き出してきた。葉も青々と茂り、藤棚が崩壊する前より元気になってくれた。そして今度は見晴台にある“あずまや”が壊れてしまった。最初は一本の柱が落ち込み、屋根が傾いていただけであった。根元を補強すれば何とかなるだろうと考えていたが、私の知らないうちに作業人たちが修理に失敗して、屋根が落ちてしまった。

崩れた柱を見ると地面(コンクリートで固めてはありますが・・・)と接している部分がすべて腐っている。藤棚も同じ部分が腐って倒れた。藤棚は日本庭園の作業人たちとの協力で復活したが、今度は我々素人の手だけではちょっと修理不可能だ。最初にこの“あずまや”を製作したアンカラの職人に任せ、基礎部分のみを私達で製作することになった。

《基礎部分を施工する》

基礎のコンクリートから進入してくる水の対策のために鉄の足を製作し、この穴に柱をかませ、直接コンクリートに触れないようにした。柱を立てる基礎部分の位置について、また作業人との間で一悶着あった。以前の位置に忠実に設置しようとする私と、少し位前の位置とずれていてもタマム(オーケー)と言い張るトルコ人との言い争いであったが、結局人数に勝るトルコ人に負けて、その位置に設置した。さて、アンカラからやってくる職人が上手く屋根を乗せてくれるだろうか? 結果は来月のメルハバ通信で書きたいと思う。

7月10日から娘の夏休みを利用してドイツを訪れた。ドイツはトルコからは非常に近い国である。フランクフルトに住んでいる友人のヘッセさん家族を訪問する目的だ。ヘッセさんは私が大学卒業後に就職した造園会社で日本庭園を習得し、フランクフルトの郊外で造園業を営んでいる。7,8年前にここを訪れた際は歓待を受けた。

《ヘッセさん宅で記念撮影》

ヘッセさんが作庭した数々の日本庭園を見せてもらい、日本人にも勝るドイツ人の器用さに驚いた。ただ単に日本庭園を模倣するだけでなく、自分のものとして製作していた。この時はドイツで働きたいという私の希望もあったのだが、就労ビザの問題でなかなか思うようにはいかず断念した。今回のドイツでの旅行記はさておき、このメルハバ通信ではドイツで我々家族が困った時にお世話になったトルコ人について書きたいと思う。

トルコの新しい航空会社であるペガサス航空で、イスタンブールからミュンヘン空港に降り立った。我々の行程はミュンヘンからロマンチック街道をフランクフルトに向かい、フランクフルトのヘッセさん宅を訪れ、ライン川下りを決行し、ケルンの大聖堂を見て、デュッセルドルフ国際空港からイスタンブールに戻るという10日間の内容である。

《ミュンヘンにて》

ミュンヘン空港からホテルまでのタクシーを捜していると、仲間と話している運転手の会話がなんとトルコ語である。ドイツに着いて最初に話す人間がトルコ人であった。トルコ語でドイツの様子を尋ねながら、予約したホテルへ。

彼の話だとヨーロッパに居るトルコ人の数は1,200万人で、ドイツに住んでいるトルコ人は300万人とか・・・。トルコ人はドイツ国内のあらゆる場所に住んでいるようだ。ドイツ戦後の復興はトルコ人の下働きがあったからこそと考えられている。

さて、ミュンヘンからロマンチック街道沿いの街、アウグスブルグへ。ここには日本人の奥さんが経営するホテルがあり、色々と役に立つ情報が聞けるだろうと、泊まることにしたのだが、あいにく奥さんは泊りがけでお出かけ・・・。アウグスブルグ駅からホテルまでの行き方が良く解らず、とりあえずそれらしきバスに乗った。

路面電車に乗り換える必要があり、どこでバスを降りればいいか、娘の英語と私のドイツ語で聞こうとしたが、たどたどしい語学力に、なかなか話が伝わらない。ところが側にいた子供連れのおばさんが運転手と親しそうにトルコ語で会話。なーんだ、トルコ人だ。私たちもトルコ語で聞き返し、運転手はびっくりすると同時に急に親切な態度になった。ちょうどそのおばさんと降りる所も一緒だったので、後はトルコ人のおばさんが私達を路面電車の停留所に案内してくれた。

《城壁で囲まれたネルトリンゲンの街並》

そして次の日、ローテンブルグを目指しロマンチック街道を走るヨーロッパバスのバス停を探していたところ、なかなかそのバス停が見当たらない。ドイツ人に聞いても、駅の案内所に聞いても、街を歩いている人に聞いてもみんなに知らないと言われ、途方にくれていた。

そこへ、トルコの人気サッカーチーム、ジーコが監督のフェナルバハチェのけばけばしいユニホームを着た若いカップルが・・・。こいつは誰が見てもトルコ人。後ろからトルコ語で声を掛けるとやっぱりトルコ語で声が返ってきた。可愛い女の子と小汚い男の仲のよさそうなカップルだ。彼らは私達の話を聞くと、駅の案内にわざわざ並んでくれ、駅員にバスのことを詳しく聞いてくれた。しかし、駅の案内もバスは解らないようで、ローテンブルクに行くには“鉄道で行け”の一点張り。

仕方ないので鉄道の詳しい乗り換え案内書を作ってもらう。ここで彼らとは“さよなら”となるはずだったのに、彼らは私達を駅の外に連れ出し、座り込んで案内書の内容を詳しく説明してくれる。“タマム、タマム(オーケーオーケー)”と言っているのにも拘らず、子供に教えるように手取り足取り教えてくれた。私が時計を見ると最初にアウグスブルクを出る列車の時間が迫ってきている。“時間が無い”と言うと、彼はやっと時計を見て、“もう時間が無い、急げ!”とばかりに私達をせきたてて、ホームを目指した。しかし、非情にも列車は定刻通りに出発してしまった。親切すぎるトルコ人の性格が裏目に出る結果となってしまった。

次の列車の案内は自分で聞くからと言っても、彼らは“タマム、タマム”と、また案内に並び、新しい乗り換え案内書をもらってくれた。自分達はきっとデートの途中だったのであろう・・・。

今度の列車は時間があったので、記念撮影をして別れた。この時から、《困った時はトルコ人を探せ!》これが私達家族の合言葉となった。

《トルコ人の親切なカップルと》

結局、この日は目的地のローテンブルクには行けず、途中の街ディンケスビュールで一泊することになったのだが、ローテンブルクにいけなかったお陰で、この街で年に一度の子供祭りを見ることができた。災い転じて福と成すとはまさしくこの事であろう。

《夏祭りで旗が翻るディンケスビュールの街》

《子供祭りのダンス》

《ディンケスビュール、夜警のおじさん》

翌日、ローテンブルクに辿り着き、そこでやっと見つけたヨーロッパバスに乗り込むため、荷物をトランクに入れようとすると、まだ出発時間でないので入れられない等々、無愛想な運転手に英語で文句を言われた。“自分は朝早くミュンヘンから運転してきているので疲れているのだ。”と、我々に言った。娘が“あんなに文句を言うのはトルコ人に違いない”とつぶやく。トルコ語で彼に挨拶すると急に彼の態度が変わった。

《ローデンブルグにて》

バスには私達の他に韓国人が7,8人乗っていたが、彼らには眼もくれず、我々家族に“ジュースは飲まないか?”“お父さんにはビールもあるぞ!”と薦めてくる。運転手が差し出してくれたビールに舌鼓を打ち、バスはいざ出発。

観光地では普段は見ることができない教会を案内してくれたり、入り口が閉まっている公園では、その鍵を開けて我々を中に入れてくれたり、サンドイッチを買ってくれたり、 至れり尽くせりである。

挙句の果てには、我々がフランクフルトで訪ねるヘッセさん宅に電話し、フランクフルトからの電車乗り口や行き先を詳しく聞いてくれた。そして、フランクフルト駅で他の乗客を降ろした後は大きなヨーロッパバスを路上駐車し、我々を電車の乗り場まで案内してくれた。自動販売機で切符を購入する際にも、私が小銭を持っていないと見るや自分の小銭を差し出してくれた。本当にその親切には頭が下がる思いであった。

《フランクフルト、レーマー広場》

《ヘッセさんの末娘のユリア》

《フランクフルトにあるフンデルト・バッサー・ハウス》

そして、フランクフルトでのヘッセ家の厚い接待を受け、ライン川下りに出発した。夕方になり、船の終点であるコブレンツで一泊することになった。ホテルを探すことにしたのだが、既に頼りの案内所も閉まっている。

《リューデスハイムからライン川下りが始まる》

《船着き場に旗が掲げられている》

“これは困った、トルコ人を探せ”と言うことで、おそらくトルコ人が経営するだろうケバブ屋に入り、コーラとケバブをトルコ語で注文する。店員や客が注目する中、“ここら辺で安いホテルはないか?”と切り出す。

我々に親切に説明してくれていた従業員のトルコ人が“ちょっと待て!”と、自分の仕事を切り上げて、ホテルまで案内すると言い出した。そこまでしてくれなくても・・・。とは思ったが、厚意を断るすべを知らない我々は彼の後に続く。

ホテルに着くと料金が高いので、もっと安いホテルは無いだろうかと私が切り出す前に、トルコ人が“ここはちょっと高いから”と、このホテルの主人にもっと安いホテルを尋ねてくれた。

安いホテルが見つかったのだが、少し距離があった。トルコ人にお礼を言って自分達で行こうとすると、彼は“私の妻はイタリア人で、12時まで働いているから暇なのだ”とそのホテルにまで案内してくれた。荷物まで持ってくれて、しかも、ホテルの部屋に我々の荷物を入れると、名前も告げずに“さようなら”と立ち去ろうとする。あわてて彼の名前を聞き、私の名刺を差し出した。全く気持ちのいい青年であった。

《ケルン大聖堂のステンドグラス》

我々家族が無事に楽しいドイツ旅行ができたのも、ひとえにトルコ人の日本人に対する“度が過ぎる程の親切心”の賜物である。トルコ人に感謝しなくてはならない。ドイツ以外のヨーロッパでも結構トルコ人が多いので、トルコ語が通じるそうだ。ヨーロッパ旅行のために、トルコ語を習ったら良いのではないだろうか?


メルハバ通信その18(2007年7月)

2012年05月28日 | メルハバ通信

メルハバ通信その18 

ここトルコでは本格的な夏に突入した。最近は40度前後の気温を記録することも多くある。先が思いやられるが、今週初めは暑さも一休み。4、5日おきに猛烈に暑くなったり、少し涼しくなったりを繰り返しながら季節が進んでいくようだ。

トルコの学校は6月から8月末まで、長い長い夏休みに入る。私達カマン3人組が日本語を教えているアーヒ大学でも、6月始めにすべての講義が終了した。そのお祝いなのであろうか、野外パーティーが催された。昼過ぎから学校へ呼ばれて行ってみる。

中庭で牛肉を焼き、パンにはさんで食べる。ドネルといって、トルコでは代表的な料理だ。私がカマンで摂る昼食はたいていチキンのドネルである。値段は100円から150円、アイラン(塩が入った飲むヨーグルト)を付けても200円までだ。家計も食料費が安いので大助かりである。

ドネルの後は恒例のダンス。これから延々とダンスが催されると思ったのだが、突然の強風と共に激しい夕立が我々を襲い、ダンスは中止。みんないそいそと校舎内に避難した。

《みんなでトルコダンス》

せっかくのお招きだったので、私はここで自慢?の日本茶(抹茶)のお手前と習字を学生や先生方に披露た。トルコ人はどうも苦いものが苦手で、ちょっと抹茶を飲むのは苦労しているようだった。お茶菓子としてロクム(りゅうひに近いもの)というトルコのお菓子を用意して行ったが、お茶も飲まずにぱくつく者もいる。トルコの代表的なお菓子であるバクラバ(パイに似たはちみつ漬け)、クッキーやケーキにドンドルマ(トルコ名物の伸びるアイスクリーム)。トルコ人は甘いものには眼がない。最初の頃はどれもこれも頭が痛くなるような甘さだったが、慣れると結構旨い。

習字ではみんなの名前を聞いて、適当な漢字を当てはめて書く。中には自分の腕に書いてほしいと腕まくりをする者が現れ、大盛況であった。ムゾウという名の男子学生がいて、宮本武蔵の武蔵をもじってムゾウ(武蔵)と書いてやった。日本で一番有名な侍だと説明した。彼も非常に気に入り、周りのみんなに自慢していた。これも立派な日本文化紹介になったと自負している。

6月はまた卒業式のシーズンである。欧米の学校と同様、新学期は9月から始まるので、6月で学年も終わりだ。

さて、アーヒ大学では授業の最後にテストがあり、それも無事に終わった6月半ばに卒業式が執り行われた。この大学は50km離れた隣町クルシェヒル(いわゆるクルシェヒル県の県庁所在地)に本校がある。本校は4年生ですが、ここカマンの分校は2年生の短期大学だ。私と同期のSさんも日本語の先生として卒業式に特別参加した。

《クルシェヒルでの卒業式》

私達が日本語を教えた教え子達もいる。卒業式用に学校で用意された学帽と制服が渡され、卒業生はそれに着替える。クルシェヒルにある一番大きなサッカー競技場を借り切って、卒業生や父兄それに友人や関係者など続々と集まってきた。

《卒業式に集まった人々》

トルコ国旗と初代大統領アタチュルクの旗の下、いつものようにトルコ国歌斉唱から始まり、卒業生全員の行進。アーヒ大学に就任する新学長の挨拶の後、用意された卒業証書が配られるものと思ったら、なんと大空にバラ撒かれ、あっと仰天!! 卒業生のみんながそれを奪い合う。変わった卒業証書の授与だと思ったのだが、ほんとの卒業証書は別にあるそうだ。納得。

《卒業式》

そして、またまたトルコ恒例のダンスに興じる学生もいて、分校ごとに先生の胴上げも始まっている。アーヒ大学の人気者、我らのエンギン・ホジャン(副校長)も、もちろん高く胴上げされた。そして、一、二、三の掛け声と共に、被っていた学帽を空高く放り投げる。何度も何度も繰り返す。みんなの熱気と共に、やがて卒業式も終了・・・。

《美女に囲まれたエンギン先生

《市役所の年寄り連中も晴れの卒業》

《僕だって卒業生?》

《仲良し二人組》

卒業式の終わった後は、仲の良い友人同士でクルシェヒルの街に繰り出す者も入れば、家族で夕飯を食べたり、クルシェヒルの街は夜通し賑わいそうだ。

しかし、我々はカマンに戻らなければならない。非常に名残惜しい気もあったが、エンギン・ホジャンの車に乗り込んだ。

カマンのカレホユック遺跡の発掘作業が6月中旬から始まった。雨や雪除けのトタン屋根が取り払われ、9ヶ月ぶりに発掘現場が顔を出す。みんな生き生きとした顔で作業に当たっている。しかし、夏のうだる様な暑さの下、大変な作業が待っているのだ。発掘作業は考えていた以上に厳しい肉体労働である。日本庭園での仕事は結構木陰があるのだが、発掘現場にはテントや日除けのあずまや以外は直射日光の照り返しで非常に暑くなります。50度前後になることもしょっちゅう。暑さには強いこの私でさえ、炎天下での発掘作業は御免こうむりたい。

《発掘作業が始まった》

《日本庭園の名物犬であるボンジュック(トルコ語で“宝石”)》

て、私本来の活動であるが、以前から依頼されていたカイマカン(郡庁)前庭の図面が完成し、カイマカンに提出した。少し日本風に設計した。まあ、予算もあまり無いとのこと。ほんとに実行に移されるのか微妙である。

しかし、工事に取り掛かれば、建物が市役所の目の前にあるので、アドバイスに行かなくてはならないだろう。私がトルコに居る間に着工すればいいのだが・・・。

日本庭園ではアンカラで購入した草刈機のエンジンが掛からなくなった。エンジンオイルを多く入れすぎていたようだ。動かないので、しばらく手で刈っていたが、研究所のコックさんのムスタファが修理してくれた。彼は機械マニアでもあり、半ば諦めかけていた草刈機が調子良く復活。草刈機は調子良くなったのだが、今度は消耗部品であるナイロン紐(遠心力を利用して、この紐で雑草等を刈る)が直ぐに無くなった。カマンではこの紐を手に入れることができなかったが、先日やっと手に入り、久し振りに思う存分雑草を刈り払った。

庭も見違えるように綺麗になってきたが、一部分が綺麗になると今まで目立たなかった部分のあらが見えてきてしまう。庭の手入れに終わりはない。より美しく、それだけを考えて作業に精を出している。

研究所の宿泊棟の予算が確保できて、やっと工事に入る。それに伴い、研究所から宿泊棟裏庭の造園プランを依頼された。ここは冬場に水が湧き出し、池になってしまう。その水を利用した庭園を考えるつもりである。

春からのカモガヤ(イネ科の雑草)の花粉症がひどくて、自転車に乗れない。日本庭園にはバスで通っていた。ようやく花粉も峠を越し、先週初めから本来の自転車通勤を始めた。道沿いの草花が夏の花を咲かせている。日本では見られないような変わった花々も多く、ついつい自転車を止めてしまう。

ついこの前植えられたヒマワリの苗も次々と花を咲かせてきた。咲き競う花々を見ていると季節の移り変わりを強く感じる。麦も黄色く枯れて、収穫の時を迎えている。この時期はあちらこちらから、出稼ぎの労働者が手伝いにやってくる。

《サクランボの実がたわわに実った》

《自転車の道中で》

さて、この前の水曜日(水曜日は市役所及びビリセムの学校の両方で作業している)に、役所の仲間であるムラットから、ヒルファンル湖にあるサブジュルという所へ泳ぎに行こうと誘いがあった。もちろん我々が断る訳も無く、仕事が終わった5時から、Sさんと二人で出かけた。今は夏時間で、8時過ぎでも明るく仕事後でも結構遊べる。 

ここサブジュルはカマン近郊にしてはなかなか整備された所で、久し振りに泳ぎを堪能することができた。泳いだ後は砂浜でバーベキュー。鶏やトマトを焼き、冷えたビールで乾杯! といくはずだったのだが、ここはイスラムの国、コーラで乾杯した。最後はムラット自慢の炭火で作ったチャイ(トルコ紅茶)で閉めた。

《湖での海水浴》

《鶏でバーベキュー》

《締めはムラットのチャイで》

カマンで毎水曜日に催されるパザール(青空市場)では今が旬の果物が豊富に出回っている。サクランボに葡萄、スモモや杏に桃、メロンにスイカ。驚くほど安い。しかし、思わず買い過ぎてお腹が一杯になってしまう。日本に帰った時にきっと困るだろう。(お金がもたない)

特にスイカは乾いたトルコの大地にとっては恵みの果物ともいえる存在だ。1kgが40円から50円で、丸ごと買って毎日たらふく食べている。少々体重が増えてきた。果物ぶとりである。

そして、日本庭園での仕事の時、研究所でよばれる名コック、ムスタファの昼食が拍車を掛けて私を襲ってくる。ちょっとセーブしなくては・・・。この頃痛切に考えている。


メルハバ通信その17(2007年6月)

2012年05月27日 | メルハバ通信

メルハバ通信その17

ここカマンの日本庭園では色とりどりの花々が咲き乱れ、サクランボやエリッキ(日本の梅に似た樹木、トルコ人が非常に好んで食べます)の実がたくさんなっている。私も時々口にするが、なかなかのものである。特にサクランボはパザール(青空市)で買うのと遜色ない程だ。梨やリンゴ、そして去年は春の急激な寒さのために、全く実がならなかったクルミやアーモンドも、たくさんの実をつけている。カマンでは今年は実りの年になりそうだ。私のボランティアの仕事も実りの年になるよう、そろそろラストスパートを掛けていきたいと思っている。

さて、ようやく先月出来上がった藤棚に主役の藤やツタを巻きつけた。次々と葉を出し、寂しかった藤棚も短期間で見違えるようになった。ここトルコでは夏場の日照時間が長く、植物の成長も日本と比べると驚くほど早い。1日1日その成長を眼にすることができる。日本では1年を通して、同じ場所で庭の手入れをしていなかったので、その成長振りには非常に驚かされている。

《藤棚も格好が付いてきた》

現在の日本庭園の作業は、低木の刈り込みと同時に、エンジンの草刈機でびっしりと生えている雑草を刈っている。この草刈機はアンカラのウルス地区で購入した。しかし、中国製(値段も驚くほど安く、日本やドイツ製は6、7万円するのだが、15,000円程だった。)なので、エンジンの回転数を上げるとすぐにへばってしまう。5分か10分程度エンジンを回せば、15分か20分は休ませるために他の作業をしなければならないといった具合だ。

また、せっかく雑草を刈って綺麗にしても、半月もするとまた延びてきている。だからと言って、そのまま放って置く訳には行かない。いたちごっこであるが、手入れの行き届いた庭をお客さんに見てもらいたいので、一生懸命刈っている。

6月初めから、日本庭園も一般客に開放された。天気のいい日にはたくさんの客が訪れる。日本人の私を見つけると、一緒に写真を撮って欲しいとせがまれることもしばしばだ。私と知り合いの子がいれば、必ずといって良いほど、ヨシー!と声を掛けられる。そこはサービスに努め、持ち前の満点?の笑顔で応対している。

《サービス精神旺盛なヨシー》

5月19日はトルコ国内で大々的な“若者とスポーツの祭典”があった。この日は初代大統領、アタチュルクを記念した祝日でもある。ここカマンでもサッカー競技場で盛大な催しが執り行われた。

《開会を待つ市長、カイマカン、警察署長etc.》

《セダの妹のエダ(右)も競技場の外から見物》

いつものように笛や太鼓の音楽に合わせたパレードの後、厳粛な雰囲気の中、トルコ国旗を掲揚する。続いて、ビリセム(私のデスクがある学校)の音楽の先生が音頭を取り、トルコ国歌斉唱。そして、綺麗な民族衣装で身を固めた子供たちによるトルコダンスの披露だ。当日は男女混合と女子の二組のグループが披露した。

《トルコ国旗を先頭にパレード開始》 

《男女混合のトルコダンス》

《男性の民族衣装》

女の子のみのグループではビリセムの隣にある高校で、仲の良いギュルスンやビリセムの生徒で私と同期のSさんのマスコット的存在のヨンジャもメンバーの一員だ。他にも顔なじみの娘がたくさんいる。いつもは幼さが残っていたり、明るくふざけてばかりいる彼女たちが、真剣に踊っていた。凛々しく踊る姿に、親心とでも言うか、私まで嬉しくなった。

《出番を待つ、ギュルスン(左下)》

《我らのアイドル、ヨンジャ》

トルコダンスの後は、各学校の女子生徒が現代的なダンスを華やかに踊った。また、男子生徒は組体操を披露した。すべてカマンにある学校の生徒達による出し物で、その若さと熱気に感動した次第である。この日のために、みんなは一生懸命練習に励んでいたことだろう。こんな若者がたくさんいる限り、トルコの将来は明るいぞ。明るい未来に向かって、みんな頑張れ!!。

《男子生徒の組体操》

《催しが無事に終了した》

アンカラのウルスに草刈機を買いに行った時、近くにあるローマ浴場跡を訪れた。アンカラの街は紀元前3世紀、ヨーロッパ北部からやってきたケルト人によって作られた。その後、ローマ、ビザンチン、セルジュク、オスマン時代を経て現在に至っている。ローマ時代の遺跡であるローマ浴場跡を訪れてみると、その規模の大きさに驚愕すると共に、当時の人々がここを憩いの場所として楽しんでいた様が目に浮かぶ。日本の健康センターを大きくしたような感じだ。浴場に隣接してスポーツを楽しむ場所もある。スポーツで汗をかいた後、浴場で汗を流し、飲み物を飲み、おしゃべりに興じたことであろう。 

《ローマ浴場跡》

久し振りに家族とアンカラ城に登った。このアンカラ城もケルト人が作ったものだ。アンカラの市内が見渡せ、私の好きな場所の一つである。登り口には古いキリムや絨毯の布で作ったポシェットを売っている店があり、私達はこのお店ではもう常連である。日本への一時帰国の時にもここでたくさんのポシェットを購入し、非常に喜ばれた。

さて、アンカラ城では子供たちが城壁の上で凧揚げをしていた。娘も凧揚げに参加させてもらい、はしゃいでいた。 8時頃になってようやく太陽が西の空に傾き、空は鮮やかな紅色に染まりました。

《アンカラ城で凧揚げ》

《夕陽に染まるアンカラの街》

 

 


メルハバ通信その16(2007年4月)

2012年05月26日 | メルハバ通信

メルハバ通信その15

トルコは春たけなわ。ここカレホユック遺跡の日本庭園でもカイス(スモモ)、バーデン(アーモンド)、エリッキ(梅)、レンギョウ等の木々が、花々を次々に咲かせてきた。

《カイスとレンギョウの花が満開》

《春の日本庭園》

今週の火曜日には、満開になったソメイヨシノの下で、カマン3人組恒例?の花見をした。研究所にあった日本酒をMさんが調達し、久し振りにたらふく飲んだ。研究所の犬達が我々のつまみをあてにして集まり、収集が付かなくなりそうだったが、日本酒の匂いを嗅ぐとなぜか近寄らなくなり、一安心。犬達もつまみを諦めたか、その後はゆっくりと楽しむことが出来た。犬除けには日本酒がいいようだ。しかし、イスラム教を信心している犬に対してだけかもしれないが・・・。

《カマン3人組と犬達で恒例の花見》

《ソメイヨシノを眺めるエディ(犬の名)》

芝生では、多くのタンポポが活き活きと咲き始めた。他にちらほらと咲き始めている野の花も、もうすぐ一斉に咲き出し、ここカマでは一番華やかな季節を迎える。

さて、肝心の日本庭園の作業であるが、梨の木の剪定及び移植予定樹木の根回し等と平行して、強風で壊れた藤棚の製作に取り掛かった。木材はここでは非常に貴重である。古い電柱を材木屋で四角にカットしてもらい、再利用することにした。元あった藤棚の柱周りの基礎コンクリートを壊すのに悪戦苦闘している。

カマン市役所での作業としては、裁判所の造園設計も終わり、基本図面を提出した。先週位から既に植栽工事も取り掛かっているようだ。予算もあると思うので、おそらく図面通りにはいかないだろうが、一度視察に行かなくてはと思っている。

さて、 milima(娘)の学校(アメリカ系のインターナショナルスクール)のイースター(キリスト復活祭)を兼ねた春休みに、トルコに一番近い国であるギリシャに行くことにした。トルコに来てから初めての海外旅行(トルコ以外の)である。

ギリシャへの交通手段として、費用も安く手っ取り早いフェリーを使うことにした。まあ、名前だけは格好いいエーゲ海クルーズである。トルコ沿岸のエーゲ海の島々は、全てギリシャの領土となっている。トルコからすぐそこに見えていて、泳いでも行けそうな島々がまさしくギリシャなのだ。

3月30日の夜行バスで、アンカラのバスターミナルからエーゲ海の港町、クシャダスを目指す。4月1日から10月31日の期間、ここからギリシャのサモス島に毎日フェリーが出ているようだ。インターネットで調べると、サモス島から次の目的地、ミコノス島のフェリーは4月3日まで無いので、2日にサモス島に渡ることにした。

そのため、クシャダスで2日間の国内トルコ観光を計画した。近くにはトルコきっての観光地、エフェス遺跡があるのだ。

さて、アンカラからの夜行バスを降り、ホテルに荷物を置き、セルチュク行きのドルムシュ(乗り合いバス)でいざ出発。ところが、あいにく天気が悪く、山の上にある聖母マリアの家は、雨中での見学となった。ここはキリストを生んだマリア様が晩年を過ごした所だ。キリスト教信者がヨーロッパ各国からやってくる。

そして、エフェスに着いた時には、雷と共に夕立のような激しい雨が我々を襲ってきた。まるでイスラム教のここトルコからキリスト教のギリシャを目指している我々を、アラーの神が非難するかのように・・・。どうしてお前たちはトルコもろくに見ずして、ギリシャくんだりへ行くのか・・・?と。 

《エフェス、ケルスス図書館》

次々と観光客が観光を諦めて戻っていく。ゲートで、雨が小降りになるのを待つことにした。暫くして、アラーの怒りが収まったのか小降りになり、行動できるようになった。ラッキー!!

歩き出してすぐに、エフェスの雄大な遺跡群に圧倒される。聞きしに勝るエフェス・・・。恐るべしかな・・・。エフェス以外にも驚くほどたくさんの遺跡がここトルコには存在しているのである。

《ディディマの遺跡》

《ディディマにあるメドゥーサの首》

《アポロン神殿、牛のレリーフ》

4月2日の朝、トルコのクシャダス港から、ギリシャのサモス島へ実に可愛らしいフェリーで渡った。クシャダスの港で出国の手続きを終えると、免税店がある。船旅でも立派に海外旅行の気分が味わえる。

《ギリシャ、サモス島》 

サモス島はピタゴラスの定理で知られている彼の出身地でもある。レンタカーを借りて、彼の出生地のピタゴリオや海岸線で有名なコッカリオなど、サモス島をほぼ一周した。久しぶりの車の運転で、しかも初めての左ハンドルと右側通行であった。安全運転に終始した。

《サモス島にあるピタゴラスの塔》

《サモス島にて》

《コッカリオでエーゲ海に浸かる》

3日の夕方、サモス島からギリシャ、エーゲ海の代名詞ともいえるミコノス島へ、今度は大きなフェリーで渡った。島に着いたのは夜11時を回っていたが、予約していたホテル(アルホンティコ・ペンション)の車が迎えに来てくれた。港から少し離れた丘の上にある、眺めのいい場所にあった。ここはインターネットで調べたのだが、ダントツで評判が高く、庭と建物が非常に凝っている。値段も手ごろで、超お勧めホテルだ。

《アルホンティコ・ペンションのプール》

ミコノス島はガイドブックの写真の通り、真っ白な壁とブルーの扉、蒼い空、コバルトブルーのエーゲ海、たくさんの小さな教会、迷路のようなミコノスタウン等々、ほんとに魅力的な島であった。街の名物のペリカンにも会えることが出来、思わず2泊してしまった。

《ミコノスの人気者、ペリカン》 

《白い教会》

《セント・ニコラス教会》

《猫とおじさん》

して、アテネへ。幼い時からこの目でパルテノン神殿のエンタシスの柱を見たいとは思っていたが、その夢が叶い感動ものだった。しかし、妻は思っていたような感動が得られず、少しがっかりした様子。その原因はどうもエフェスにあったようだ。

私もカマンに帰って写真を整理してみて、エフェス遺跡群の雄大さとその偉大さを再認識した次第である。確かにパルテノン神殿以上の遺跡がトルコではここかしこに残っているのだ。

もう一つアテネに行くのには重大な目的があり、それは妻が日本から持ってきたトラベラーズチェックを現金化することであった。トルコではトラベラーズチェックは殆ど使えず、また換金できても、ビックリするような手数料を取られてしまう。泊まっていたホテルの近くでようやく換金できた。ほっと一安心。心置きなくアテネを後にした。

帰りはアテネの港、ピレウスから夜行のフェリーに乗り、ミコノスを通過してサモス島にもう1泊した。行きに泊まった、ここのホテルの主人が、イースターの祭りをどうしても見て行けと言うので、もう1泊することにしたのである。 

当日、街は昼間から爆竹の音がしている。しかし、人々は祭りの準備中なのか、あまり見かけない。夜の12時にホテルの泊り客らと蝋燭を持って教会に行くと、大勢の住民が・・・。教会から帰って、ホテルのみんなと共に、さあご馳走である。

《ミサの行われた教会》

《イースターのパレード》

キリスト教徒は今まで食事を我慢していたようで、がっついて食べる。私たちはお腹がすくだろうと、カフェでサンドイッチを食べていたのだが、そこで、他の客らになぜか白い目で見られていた訳がようやく解った。トルコのラマザン(断食)のようなことをギリシャの人々もやっていたようだ。

とにかく、ホテルの主人にリクエストしていた豚肉(トルコではイスラム教なので食べられない)をお腹いっぱい頂戴した。

翌日、またレンタカーで島の端にある港を観光して、夕方のフェリーでトルコのクシャダスに戻った。直ぐさまその足で夜行バスに乗り、アンカラに戻った。

実際に現地へ行くまでは、フェリーが出ているのかもはっきり解らず、行き当たりばったりの旅ではあったが、順調に旅行できて、思い出に残る良い旅になった。