milima父のブログ/トルコ・ヨルダン・その他

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メルハバ通信その9(2006年8月)

2012年05月19日 | メルハバ通信

メルハバ通信その9 <カイセリ日本庭園奮闘記2>

今年は格別に暑かったトルコの夏もようやく峠を過ぎた。朝夕は肌寒いくらいに感じるこの頃である。チャウルカン村の日本庭園での作業も随分楽に感じられるようになってきた。

さて、8月に妻と娘がトルコで暮らすためにやってきた。娘がアンカラの学校に通う(ここカマンではインターナショナルスクールが無いため)ので、アンカラのチーデンマハレシでアパートを探し、トルコでの生活を始めた。長男も夏休みを利用してトルコに来て、久しぶりに家族で外国?(トルコ国内であるが)旅行をした。

《トルコ人に成りすましたmilima(美里麻)》

《カッパドキアにて》

さあ、それでは気分も新たに、カイセリ日本庭園奮闘記の続編を送らせてもらう。

3月に市役所との打ち合わせを終えて、4月から工事に入った。作業は主に週末の金曜、土曜、日曜日の3日間である。木曜日、カマンでの仕事を終え、夕方のバスでカイセリに向かう。そして、日曜日の夕方にまたカマンに戻る。宿舎は市役所が提供してくれた宿泊施設である。市役所で建築を担当しているギョクハン が英語も話せるので、彼が通訳がわり。また、役所内の造園工事等のプランも彼が担当している。今回の日本庭園も彼が責任者といったところだ。

まず、一緒に庭園で用いる景石を探しにカイセリ近郊の山に出かけた。日本のように石材屋があって、そこで適当な石を探すのではなく、自然の山から探し出す。いろいろな場所に出かけるが、なかなか良さそうな所が見当たらない。ちょっと良さそうな石が見つかっても半分以上は土に埋まっているため、形もなかなか把握できない。また、どのような方法で運び出すのかも解らない。

ギョクハンと共に何箇所か回って、ようやく苔が付いて日本庭園に適する石が多く存在する場所を見つけた。石の選定にちょっと時間が掛かるからと彼にはひとまず役所に帰ってもらい、私一人で選定し始めた。

すると村の子供たちが珍しそうに話しかけてきて、私にずっと付いて来る。一緒に探すことにした。 彼らは“ヨシ、こっちにいい石があるぞ。ヨシ、これはどうだ、使えるか。”と熱心に探してくれた。

使えそうな石に目印のガムテープを貼り付けていく。だんだん彼らの仲間が集まってきた。10人ほどが集まり、その中にはヤギの子供もいる。賑やかな石探しになった。やがて夕暮れも迫り子供たちも家に帰り、ギョクハンが私を迎えにやってきた。

《ヤギを従えて、日本庭園の石探し》

ところが、次の日にはギョクハンが他にもっといい場所があると言う。それならどうして最初に言わないのだと不審に思ったが、行って見ると確かにこちらの方が運びやすそうだ。彼はどんな場所でも石は運び出せると言うのだが、道が無い山の奥や急な斜面にある石など、どのようにして運び出すのか不思議であった。とりあえず、彼の言うことを半分程度信用することにして、出来るだけ運び出させそうな石に目印をつける。この週は景石の選別で費やし、翌週に運び出すことになった。

そして翌週、市役所で作業人たちを待つ。3人の作業人がやって来た。ちょっと強面の作業人が握手を求めてきた。彼も公園課長(ムスタファ・トルクメン)と同じ名前のムスタファであった。昔ボクシングをやっていたそうで、そういえばあのマイク・タイソンに似ている。彼に“マイク・タイソンに似ている”と言うと非常に喜んで、みんなにその事を自慢し始めた。彼のことを公園課長と区別するため、ムスタファ・タイソンと呼ぶことにした。彼は非常に私を気に入ってくれて、何度も自宅での食事に招いてくれた。彼の子供たちともすぐに仲良くなった。息子の名前はアリ。しかし、彼が途中で配置換えになり、日本庭園の現場には来なくなってしまった。非常に残念だ。

《ムスタファ・タイソン》

《タイソンのお母さんと子供達》

さて、作業人たちと石を取る現場に向かった。どんな機械で運び出すのかと思っていると、穴を掘るバックホウが後ろに付いたブルドーザの登場。キャタピラーの代わりに大きなタイヤが付いている。こちらの言葉でケプチェと言う。

運転手に“どの石を取るのだ?”と聞かれたので、選定した石を指差したが、 “ここにはケプチェが入れない。”と言う。そんなバカな、ギョクハンは“どこでも取れる”と言ったのに・・・。想像はしていたが、やっぱりなという感じである。取りあえず下の方にある石だけでも取ってくれと頼んだ。

運転手が渋々斜面を登ろうとするのだが、今にもひっくり返りそうだ。運転手も怖くなって、早々に諦めてしまった。道路脇の取り易い所でもう一度石を選定し直すとしよう。 新しい場所を探し始めると、私に断りも無しにケプチェが帰ってしまった。おいおい、どうなっているんだ・・・。

途方にくれていると作業人たちが“タマム、タマム”と私に言う。トルコ語でタマムはノープロブレムの意味である。トルコでは少々の問題は殆どこの言葉ですまされる。まさしくここはタマム(ノープロブレム)の国である。

しばらくすると、古ぼけたケプチェ(ブルドーザー)が猛スピードでこちらにやって来た。作業人たちは“この運転手はカイセリで一番のケプチェの使い手だ。”と言う。

ちょっと渋い運転手が“どの石を取るのだ?”と私に尋ねる。“この石を取ってくれ!”と言うとバックで登り始め、いとも簡単に取ってしまった。それならこっちの石はどうかと尋ねると、またまた簡単に取る。しかし、斜面から転がり落とすので、石が傷ついたり、途中で割れてしまう。でも仕方ない。ここはタマム(ノープロブレム)の国だから・・・。

《バックで急斜面を登るケプチェ(ブルドーザー)》

一度大きな石が斜面で停まり切らずに、道路まで転がり落ちた。下に車があればぺちゃんこである。この時はさすがに肝を冷やした。どんどん上部の石を取ってくれとお願いすると、彼はことごとく取ってくれた。見事な運転である。最初にやって来た運転手は一体何だったのか・・・? 石が大分貯まったので、落とした石を大きなダンプカーに載せて日本庭園の現場に運び込んだ。

翌日はさっそくエルジェス山をイメージした景石据えに取り掛かった。しかし、日本のようにチェーンブロックやレッカーを使うのではなく、またまたケプチェ(ブルドーザー)を使って巧みに据えていく。この日のケプチェの運転手は昨日のダンプカーの運転手とは違っていたが、彼もなかなかの腕前であった。

《ケプチェの運転手》

しかし、中心になる一番大きな石をなかなか据えることが出来ない。ロープで吊ろうとしても直ぐに石の重量のため、切れてしまう。私がワイヤーロープを買ってきても、直ぐに切れてしまった。諦めてケプチェで気長に据えることにした。

なんとか夕暮れまでに3石だけを据えることができた。しかし、翌日に行って見ると、どうも位置が端により過ぎているのが気掛かりになってきた。運転手に非常に気の毒だったが、今回はタマムと妥協せずに、やり直すことにした。彼もさすがに気を悪くしているようであったが、昨日より要領を覚えてきて、短時間で移動することが出来た。その後の作業も非常に効率的に捗り、半日程でエルジェス山の石組みを終える事が出来た。最後は運転手と私との間で阿吽の呼吸が生まれたように思う。彼も石庭の出来上がりに非常に満足していた。

後日作業した回遊式庭園の方も殆ど彼との共同作業で石を据えた。もし、彼がいなかったら今回の仕事はもっと時間が掛かり、相当困難なものになっていたように感じる。良い運転手に巡り会えて良かった。

しかし、他の作業人たちはあまり仕事熱心とは言えず、一つの仕事が終われば私に“次は何をすればいいのだ?” “今お前は何をやっているのだ?” “何のためにやっているのだ?” 等々、うるさいばかりに聞いてくる。その上、直ぐに“さあチャイの時間だ。休憩しよう”と言って作業が捗らない。

日本庭園に必要な微妙な曲線や地盤の起伏なども彼らが理解できるはずも無く、結局私一人で作業する時間が多くなった。時々、話の解る作業人も居たが、ころころと人が変わる。その度に一から説明しなければならない。そんな中で、水道課から手伝いに来てくれたアフメットは熱心に仕事をしてくれた。他の水道課の仲間にも私を紹介してくれて、公園で一緒にチャイを飲んだり昼食を採ったり、彼らと楽しい時間を持つことが出来た。彼が公園課の人間だったら仕事はもっと捗っていたのだが・・・。またまた残念だ。

《水道課の仲間達とピデ(トルコのピザ)で昼食》

さて、回遊式庭園の方は石張りの部分が多く、職人次第で庭の出来上がりが左右される。基礎工事のコンクリート職人はひどい作業であった。私がいない間にやっておくから心配は要らないということでカマンに帰り、翌週にカイセリの現場へ行って見ると、せっかく据えた石にコンクリートは付けるは、適当に切り石を立てたりで、全く呆れ果てた。

しかし、石張り職人のラマザンはなかなかの腕前だった。日本でもやっていけそうな感じだった。私の言うこともある程度は理解してくれ、何とか庭の格好は付いてきた。細かい部分に不満は一杯ではあるが・・・。ここはタマムの国、諦めというか妥協が肝心だ。

《石張り職人のラマザンと助手》

灯篭も日本から輸入するのでは無く、今後のためにもこちらで製作させた。時々石屋の製作現場に行っては指導していたのだが、出来上がってみると、やっぱり日本のようにはいかなかった。まあ、日本の雰囲気が少しでも出ているなら、これもタマムとしてもらおう。 

《一応骨格が出来上がり、庭の格好が付いてきた。中央にトルコで作った雪見灯籠》

8月に日本から家族が来るので、7月中に作業を完了したいと、ムスタファ・トルクメンには伝えていた。彼もタマム、タマムと答えてはいたが、資材の納入もままならず、思っていた通り完成までには至らなかった。後はラマザンとギョクハンが我々に任せてもらえればタマムと言うことで、任せることにした。

《メルクガジ市役所》

私も時間が出来れば、もう一度か二度はカイセリに出かけて、後の指導や手直しをするつもりである。庭の骨格はだいたい出来上がった。植栽が残っているが、図面を基本に工事してもらえるだろう。後はタマム、タマムでご勘弁願おう。

《カイセリでのいつもの朝食、ひよこ豆のスープとパン食べ放題で250円程度》

《ちょっと豪勢に、美人姉妹のレストランで》

現場の近くで店の家具屋さん、床屋さん、そして美容室を営む人達に非常に世話になった。入れ替わり立ち代わり、私に話しかけてくれて、お茶やジュース、果物等差し入れてくれた。真夏の作業時の冷たい差し入れは何物にも変え難い思いであった。

また、作業していると、近所の子供達や通り掛かりの知らない人達までもが、“コライゲルスン(ご苦労様)”と、必ずと言っていいほど暖かい励ましの声を掛けてくれる。一人で辛い作業をしている時など、本当に嬉しく感じた。日本ではあまり見かけられない光景である。

《現場で友達になった可愛い子供達》

現場隣の有名な〈イスケンデル・レストラン〉では私が植木を手入れしたお礼に本場のイスケンデルケバブや本格的な中華料理をご馳走になった。また、いつも私が食事していたクルド人経営のレストランでは看板の美人姉妹始め、従業員のみんなが暖かくもてなしてくれた。今思い出してもジーンと胸がこみ上げてくる。

《行きつけのレストランの美人姉妹》

花粉症が悪化して病院へ通ったり、暑くて作業も辛い時もあったが、様々な心暖かい人達と知り合い、助けを得られた。みんな私の大切な友人である。ここでの活動がほんとに良い経験になった。カイセリでの日本庭園製作でお世話になった人々に心から感謝したいと思う。

《私のお気に入り、カイセリ名物パスツルマ(生肉と香辛料で作ったソーセージ)の店》

ところで、日本の家族がトルコにやって来て、カッパドキア、イスタンブールを旅行した。例に違わず珍道中であったが、機会があればお伝えしたいと思う。


メルハバ通信その8(2006年7月)

2012年05月18日 | メルハバ通信

メルハバ通信その8 <カイセリ日本庭園奮闘記1>

ここカマンや週末に日本庭園を作りに行っているカイセリではヒマワリの花々が満開になってきた。日本では余り見られない景色にいつも感動している。

《ひまわり畑とおじさん、背後はカマンの街》

“お待たせしました。”と言っても誰も待っていないかもしれないが・・・。今回と次回の2回に別けて、カイセリ日本庭園奮闘記を書かせて頂く。自分で奮闘記と言うのもおこがましいが、ここまでくるには多くの困難もあり、自分でも良くやっているなと感じている。まずはその前編の始まりである。

3月にカイセリのエルジェス大学で日本語教師をしているシニアボランティア同期のS女史から、“カイセリ市役所が日本庭園を作って欲しいと言っているが、可能か?”と言う問いかけがあった。

日本庭園を外国で作ることが私の夢であった。まだトルコの状況も良く飲み込めていなかったが、この際やってやろうと後先も考えずに二つ返事でOKしてしまった。これが自分を窮地に追い込むことになろうとは夢にも思っていなかった。

すぐにカイセリに飛んで、市役所との打ち合わせ。カイセリには3つの市役所(ブユックシェヒル、メルクガジ、コジャシナン)があり、私が日本庭園を依頼されたのはメルクガジ市役所であった。

メルクガジ市役所 で、まず 公園課長と話をする。S女史とエルジェス大学のアイハン先生、日本語学科の学生たちも一緒の和やかな話し合いであった。公園課長のムスタファ・トゥルクメンは日本庭園に対して非常に乗り気で、また実に日本びいきな人であった。デスクの背後の壁には日本庭園のポスターが飾ってある。

庭園の材料や私の経費等はすべて市役所で用意するので、是非ともお願いしたいとのこと。候補予定地も2ヵ所あり、さっそく一緒に視察する。どちらでも私の好きな方を選んで良いと言う。一つはジャーミーに隣接しており、雰囲気も日本的でなく広すぎる。こじんまりとした、もう1ヶ所の場所に決定した。既存の大きなユーカリの木が10本程度あり、風情もある。これらの木を残して作庭することにした。

《日本庭園の用地》

カマンに戻ってからさっそく設計を開始。自分でもびっくりするほどスムーズにデザインが進む。仕事の遅い私にしてはまさしく神がかり的である。

小さなスペースにはエルジェス山をイメージした石組み。大きな方は枯れ池と石張りが中心の回遊式庭園。

日本のように大判のプリンターが無いので、コンピュータは使わず、久しぶりに手描きで図面を製作する。デザインは直ぐに浮かんだが、すべて手描きの為、仕上げにはやはり時間が掛かる。毎日学校に居残りだ。先生方も私が遅くまで仕事をしているので興味津々である。みんなが図面を見に来ては“チョック・ギュゼル!(とても素晴らしい)”の連発。

次の週末にはさっそく、出来上がった図面をメルクガジ市役所に提出した。この週は公園課に引き続いて、会計の責任者とも話をした。ところが、彼には公園課長から話が伝わっていないのか、まるで私がカイセリで日本庭園を作らせて欲しいとでも言っているような感じである。費用もこちらが負担しなければならないかとも思えるような態度。数々の要求にも実に渋い表情。市役所が庭に掛かるすべての費用を出してくれるのか不安になった。

《公園課長のムスタファ・トゥルクメンと私の書いた図面》

このままでは埒が明きそうに無いので、私は“市長と話をさせて欲しい”と言った。翌日に会ってくれることでなんとか話がつき、次の日に市役所に向かう。ところが面会は市長に用事があるとかで急にキャンセルされてしまった。来週には必ず会うということだが・・・。

面会をキャンセルされて、どうしたものかと思ったが、転んでもただでは起きないのが私である。1日ぽっかりと時間が空いた。この際、一人でエルジェス山の偵察に行ってやれ!と名案が浮かぶ。市役所との通訳をしてくれているヤーシンさんにエルジェス山行きのバス停まで運んでもらい、ミニバスに乗り込む。登山口のバス停まではなんと1リラ(80円ほど)。

《私の登山目標の山、エルジェス山》

バスを降りるとすぐにスキー場である。見晴らしの良いレストランで腹ごしらえをして、さっそくリフトに乗り込んだ。終点で降りると、トルコ人らしき人がエルジェス山の写真を撮っている。私と同じ山岳写真家だろうか?トルコで有名な山岳写真家かもしれないな・・・。妙に親近感を覚えて、メルハバと大きな声で挨拶する。しかし、相手側の挨拶は無しで、ただこちらを向いて笑っているだけ。失礼な奴だと思ったので、彼に構わず上に向かう。

まさかこんなところへ来るとは思っていなかったので、私の足下は登山靴ではなく、昨日ヒルトンホテルの下にあるアルメールという大きなスーパーで購入したばかりの新品の革靴だ。ああ、せっかく新調した靴が・・・。

でも山の頂を見ると勝手に身体が上へ上へと登ってしまう。哀しい登山家の性だろうか? 雪がだんだん深くなり、もうここらで引き返そうと雪のエルジェス山、最後の撮影をする。

《最高到達地点よりエルジェス山の頂を見る》

景色を十分堪能した後、さあ下りである。やはり登山靴でないのでつるつる滑る。慎重に下って行くと、先程出逢った人がにっこり笑ってやってきた。もう一度メルハバと挨拶したが、やはり返事は無し。こいつはちょっとおかしいぞ、トルコ人ではないのかなと英語で“どこから来たのか?”と尋ねた。

なんと、彼はフランス人であった。なーんだ、それならそうともっと早く言え、とでも言いたかったのだが、私の流暢に話せるフランス語はボンジュール、サバ?、ジュブドュレ・モンテ・ル・モンブラン(モンブランに登りたい)ぐらいだ。これらを駆使して挨拶した。そして、一緒にリフト乗り場まで下る。アルプスの本場フランスからもエルジェス山の撮影に来ているのかと妙に感心した次第である。

さて、リフトで下る時に素敵なカフェテラスらしき場所を見つけた。エルジェス山を眺めるのに格好の場所だ。リフトを降りて、そこへ行くと誰も居ない。ディカット(トルコ語で注意−この時はまだ意味が解らなかった)と書いてある看板と守衛らしき建物があったが、そのまま中に入った。

いかにもボーイらしき人が出てきた。やはりカフェテラスだったのだと安心。“コーヒーはありますか?”と尋ねると、ニコニコ笑って“ある”と彼は答えた。一番眺めのいい席に座ると、ボーイさんが3人ほど出てきて、私と一緒に座る。客とボーイが一緒に座るのもなんか変だなと思ったが、客も私一人だし、まあ日本人が珍しいのだなと納得してみんなと話をする。でもなんか様子が変だ。

《コーヒーを頂いて談笑する》

ディカットの看板と共に入り口に書いてあったアスケリと言う単語を急に思い出した。アスケリは軍隊である。ここはなんと軍の施設だったのだ。私は軍隊の保養施設に乗り込んで、コーヒーを注文し飲んでいたのであった。またまた知らないうちに素晴らしい体験ができてしまった。

調子に乗って、一番眺めのいいところでエルジェス山の写真を撮る。すると、“誰だ、こんなところで写真を撮っている奴は?”と背後からとても怖そうな声がした。振り返ると彼らの上官らしき人がスキーを終えて帰ってきたようだ。ボーイが上官に私のことを説明する。これはヤバいことになるかも・・・。クルシェヒルでの逮捕事件を思い出した。

しかし、彼らの説明が終わるとその上官は私の前に座り、“ようこそ”と握手を求めてきた。この人は1年間アメリカで生活していたそうで、英語も堪能。綺麗な奥さんと可愛い娘さんもいて、2杯目のコーヒーをいただきながら、和やかなひと時を過ごすことができた。

《上官の奥さんと可愛い娘さん》

翌日は、帰りのバスの時間(午後2時)までエルジェス大学日本語学科の女学生のヌルセンさんがタラスという古い町並みを案内してくれた。最初、友達と二人で来ると言っていたが、友達は用事があり、私と彼女の二人だけであった。タラスは彼女も非常にお気に入りの街である。

《タラスの古びた教会》

《タラスの街並》

《洒落た彫刻》

二人で歩いていると知らないおじいさんから“こちらに来い”と声を掛けられた。彼は昔はガーデナーだったそうで、私が“カイセリに日本庭園を作る。”と言うと“自分も手伝わせて欲しい。”と話が弾んだ。とは言っても殆どヌルセンさんの通訳であったが・・・。ここでチャイのみならず、昼食までご馳走になった。タラスの上にある眺めの良い洒落たカフェテラスでは建造中の洞窟を案内してもらい、ヌルセンさんとのデート?を楽しんだ。

《チャイと昼食を頂く》

翌週はやっと市長に会えると思ったのだが、会えたのは副市長であった。彼も最初はどうしてここに日本庭園なのかと怪訝そうな表情。これでは話にならない。図面のコピーを持ってきてくれと会計の責任者に言ったが、先週頼んでおいた図面コピーがまだできていないと持ってこない。図面が無ければ副市長も説得できない。“コピーが無ければ預けていた図面を今すぐ持ってきてくれ!”と私は非常に怒った振りをして会計の責任者を怒鳴りつけた。私の態度にみんなびっくり。図面の原本を副市長が見ると、急に彼の態度が変わった。

図面には自信があったのだが、ここトルコで手描きの設計図面に対する評価が高いのには驚いた。技術者はCADで図面作成しているので、手描きでの作成はできない者が多いようだ。メルクガジ市役所が費用を持つので是非日本庭園を作って欲しいと、改めて副市長から要請された。

この週はカイセリで生まれて初めての皆既日食を見て、カマンに喜び勇んで帰った。ところが、私がついていたのもここまで・・・。これから思わぬ窮地に追い込まれることとなる。

さて、カマンでカイセリでの仕事を具体的にどのように進めるかを同期のMさん、Sさんと話し合った。カマンでの仕事が最優先なので、休日等を利用しての仕事が賢明だという事で、私も一旦は納得した。しかし、カイセリ側のことを考えると工事は一気にやってしまわないと困るだろう。そして、5月18日のカイセリ市民祭りまでに完成したいとの思惑もあった。

一体どうしたものかと途方にくれる毎日が続いた。人の意見は様々で、いっそカマンでの仕事(まだ気温が低くチャウルカン村での日本庭園は作業できる状態ではなかった)を一時中断してカイセリの日本庭園を完成してしまおうと思ったが、カマンでの仕事をやるために私は派遣されている。ここでの仕事に支障が出ると色々な所に問題が起こってくる。日本庭園の製作を安請け合いした私に問題があるのだが、できなかった時の責任問題が私だけでなくJICAや他の人にも掛かる恐れも出てきた。

苦渋の決断だったが、カイセリでの日本庭園の仕事は断わることにした。着工前だったら、私一人が 市役所や係わった人々に対して謝れば済むことだ。意を決して市役所に向かった。

まず、色々な面でお世話になり、通訳もしてくれていたアイハン先生に心から謝る。しかし、彼は“福田さんは謝る必要は無い。今まであなたが日本庭園を作るためにどれだけ一生懸命やってきたかを私は知っている。カイセリのために素晴らしい図面も描いてくれた。この図面だけでもう十分だ。市役所がもしあなたに対して怒るのなら、この私が謝ります。あなたは私の傍にいるだけでいい。謝らないで欲しい・・・。”そう言われて私は涙を押さえられなかった。

そして、公園課長のムスタファに会い、“私がすべて至らないために、今回の日本庭園建設はお断りします。”と言った。すると彼は“一体どんな問題があるのか?”と逆に私に質問する。私は正直にすべてを彼に話した。すると彼は怒るどころか、“こんなに詳細な図面があれば、私たちの市役所はたとえあなたが居なくても立派な日本庭園を作ることができる。しかし、私はあなたにどうしてもこの仕事に関わって欲しい。あなたの要求はすべて市役所で叶えるので、問題は無い。どうかお願いだからカイセリに来てください。”と頼まれた。またまた涙があふれ出て来た。やはり歳をとると涙腺が弱くなるようだ。

仕事を断りに言ったのに、結局引き受けることになってしまった。仕事はカマンの活動に支障を来さないよう土曜、日曜中心。完成はいつになるか解らないという条件で・・・。

《カイセリ城で》

しかし、トルコに来てからまだ日も浅く、トルコ語も片言しか解らない。こんな私の前には、まだまだ多くの困難が待ち構えていた。

後編でその奮闘振り?を披露する。


メルハバ通信その7(2006年6月)

2012年05月17日 | メルハバ通信

メルハバ通信その7

ここカマンや日本庭園を作りに行っているカイセリでも30度を越す日が増えてきた。トルコでは日本の様に梅雨が無いので、春から夏に一気に突入といったところだ。花々も夏の花が増えてきた。

《かすみ草》

《ひまわりを栽培している》

《麦と赤いポピー》

《フヨウの花》

 

《アザミをよく見ると小さな蜘蛛が・・・》

《トルコブルー?の花》

《一面のひまわりと麦畑》

《農作業をする親子》

5月頃に猛烈に暑い日があった。すぐさま扇風機が要るなと思い、町中を探したが、ここカマンではなかなか見つからない。あっても、タイマーが付いていない。タイマーが付いてないと寝る時に困るのだ。いつ頃入荷するのか聞いても要領を得ない返事。店にきちんとした入荷計画が無いのだろう。月曜日に入荷すると聞いて店に行くが、やっぱり入荷していない。まあ、これがトルコだろう。

今のところ、暑さは少しましだ。しかし、7月,8月は40度を越す日もあるそうだ。天気予報を見ていると、すでにトルコの他の地域では40度を越す場所も出てきている。

《とげとげの植物》

《草原と夏を思わせる雲》

《草原に立つ家》

《ポプラと麦畑》

6月は私たちのデスクがある英才教育の学校で、一年間の成果を発表する催しがあった。その発表会について簡単に書きたいと思う。

カイセリから帰ってくると同期のSさんから市役所のホールで学校の催しがあるらしいと聞かされた。前に予行演習を見ていた、私たちが待ち望んでいた卒業式かもしれないと、日本庭園に行く前に久しぶりに学校へ行ってみた。

校長先生から催しを書いた綺麗なパンフレットを手渡される。日本庭園に行って、研究所での昼食の時(カレホユック遺跡の発掘作業が始まったので、昼食は研究者達と一緒に頂いている)に考古学者のMドクターに見せると、卒業式では無くて1年間の発表会みたいなものだと聞かされた。

Mドクターも誘って、カマン3人組全員で参加することにした。ちょっとためらったが、久しぶりにスーツを着る。こんな時でもない限りスーツを着ることも無い。 学校のホールに行くと参加者はみんな結構いい格好をしていた。先生方も全員スーツ姿。スーツを着ていて良かった。

先生に招かれて“ブユルン(どうぞ)”と前方の席に座らされた。隣の席に座った5歳くらいの子供が私に非常なる興味を示した。私が挨拶をすると、私の手にキスをして自分のおでこに私の手をあてる、トルコの尊敬の仕草で挨拶を返す。それからも繰り返し私の方へやってきては握手を求める。いい加減にしろとお父さんに叱られていた。愛嬌のある賢そうな子供だった。きっとこの英才教育の学校にも入学できるに違いない。

さて、肝心の発表会だが、全員起立して、最初にトルコ国歌の斉唱。その後、女の子による詩の朗読。壇上で日ごろの練習の成果を発表した。 そして、三人の男の子による漫才(と思う)。トルコ語がきちんと解ればもっと面白いと思うのだが、時々解るトルコ語と三人の仕草、そしてみんなの笑いにつられてこちらも大笑い。次に男の子が登場して、また詩の朗読。

 

《男の子の漫才》

そして、予行演習の時に見ていた例の女の子が登場した。以前は女優のようなしぐさと声の張りで非常に感動したが、今回も時折涙を浮かべ、実に素晴らしい朗読であった。

《ヨンジャと仲良しの女の子の朗読》

しばらく舞台が閉じ、次に開くと全員によるコーラス。いつも部屋にやってくる生意気な男の子が最前列で真剣な表情で歌っている。お前もなかなかやるじゃんと感心した。

《全員での見事なコーラス》

我々とSさんのアイドルであるヨンジャ(トルコ語で三つ葉)という女の子が列の中ほどから舞台の前に出てきて独唱する。我が子を見る親の気持ちで、“頑張れよ”と心の中で励ます。ヨンジャは期待に違わず、実に立派に歌いきった。

数々のコーラスや楽器演奏の後、最後は先生によるパソコンを使った朗読があった。いつもは面白い仕草や言葉等で私たちを笑わせるトルコ語(国語)の先生がこのときはまじめに、そして感情豊かに朗読した。

催しが無事に終わって外に出ると、みんながそれぞれ記念撮影をしている。みんなが私たちのもとに寄ってきて、一緒に記念撮影の催促。なかなか楽しく実のある発表会であった。


メルハバ通信その6(2006年5月)

2012年05月15日 | メルハバ通信

メルハバ通信その6

最近は月曜日から木曜まではチャウルカン村にある既存日本庭園の手入れ、そして金曜から日曜にかけてはカイセリ市に日本庭園を作りに出かけている。 今回はチャウルカン村での日本庭園について書きたいと思う。

《日本庭園と研究棟》

チャウルカン村はここカマン市から直線距離にして6キロほど南東に離れ小さな村である。ここにはカレホユック遺跡がある。基部280m,高さ約16mの丘だ。

《夏の発掘作業を待つカレホユック遺跡》

1986年より本格的な発掘調査が開始しされて現在に至っている。ここにある発掘研究所に隣接して、三笠宮が発起人となり、10年ほど前に日本庭園が建設された。非常に規模の大きい庭園で、広さではヨーロッパでも有数の庭園である。年間、数万人もの人々が見学に訪れる。ここでの樹木手入れ及び庭園の改修工事が私に課せられた大きな仕事である。厳しい厳しい冬が終わり、やっと4月からこの日本庭園の手入れを開始した。

《日本庭園の手入れは、まず池の清掃から始まる》

朝は8時前にカマンのアパートを出発。カマンから日本庭園まで10キロ程度の道のりを400リラ(35,000円程度)で買ったマウンテンバイクで出かける。21段変速、フルサスペンション、前輪ディスクブレーキ付きのなかなか格好いいやつだ。

道の左右にトルコの広大な草原が広がり、天気のいい日は非常に気持ちのいい道である。しかし、私の持病の花粉症(イネ科の雑草であるカモガヤ)が出てしまったので、マスクを付けての走行。最初は45分程度掛かっていたが、最近は身体もだいぶ慣れてきたので、35分程で行ける様になった。帰りは上り坂になるので、10分程度余分に掛かる。トルコ人に近道を教えてもらったのだが、上り下りがあるので、距離的には短くても時間的にはたいして変わらない。しんどい時もあるが、登山のトレーニングになると思って頑張っている。

《自転車で走る道。カマンの街を振り返る》

暖かくなるに従って、周りは色とりどりに花々が咲き始めた。空気が汚れていないので、花々や草原、空の色が実に鮮やかだ。日本では見慣れない花々も多く、そこに羊や牛たちを放牧させている現場に出会うと、ついつい目を取られて本業?のカメラを出してしまう。そうすれば1時間以上、通勤に掛かってしまう。本来は遅刻だが、タイムカードもないので、ここは特別にご勘弁願おう。

《花々が咲き乱れる》

《一面の草原で、牛を飼う》

《草を食むロバ》

日本庭園では最初は一人で作業していた。暖かくなるにつれて、以前からの作業人が少しずつやってきた。現在では5,6人ほどで作業をしている。既存の樹木が大きくなりすぎて、滝などのせっかくの石組みを隠している。邪魔になっている低木の刈り込み及び密集した高木の剪定から作業を始めた。

《低木の刈り込みから始める》

最初は日本の様にきつく刈り込みすぎて、トルコ人から文句を言われたので、最近ではちょっと控えめに刈るようにしている。石組みもだいぶすっきりと見えてきた。余りきつく刈り込みたがらないトルコ人も、以前よりすっきりと庭が美しく見えるようになってきたので、私の言うことにも耳を傾けるようになってきた。

《石組みがすっきりしてきた》

高い木の剪定は私の得意分野なので、岩場の登攀技術と道具を駆使してアクロバチックに剪定している。今までも時々日本人が手入れに入っていたようだが、そんなに本格的な手入れはしていなかったようである。太い枝を結構落とす必要があった。広い敷地なので作業はトルコ的にゆっくりゆっくりである。

昼は作業している人達と休憩所で食べている。私以外の作業人たちはパンを持ってきていて、ハムや卵、野菜などをその場ではさんでサンドイッチにして食べる。そして食後はトルコお決まりのチャイ(紅茶)。私はパンを買うのが邪魔くさいのでビスケットにリンゴを一つ、そして果物のジュースだ。

《仕事仲間達》

登山での食事はこれくらいで十分だったので、別にひもじいとは思わないのだが、トルコ人が私の食事を気の毒がって、パンや野菜などを分けてくれる。お互いの意思疎通やトルコ語の勉強にもなるので、和気あいあいと食事している。

さて、ここ発掘研究所と日本庭園には名物の犬達がいる。昨年、こちらに来てからしばらく、研究所で食事を戴いていた。その時にこれらの犬とは顔見知りというか、初めから日本人には慣れっこなのか、ずっと私や同期のSさんになついていた。朝も犬達みんなで私を出迎えてくれる。作業の時も私に付いて来て、傍で気持ち良さそうに昼寝をしている。私の仲間とも言うべき、これらの可愛い犬達を紹介したいと思う。

まず最初は一番人懐っこくておとなしく、可愛い子犬を8匹も産んだボンジュック。去年の秋は大きなお腹をしていたが、この冬に出産した。彼女は会った直ぐから私にお腹を見せて、撫でてくれと催促していた。最初は8匹いた子供たちも近所の人たちにもらわれて、今では1匹だけになってしまった。

《ボンジュックと子供達》

写真を撮った時はサクラの花見の時で、まだ3匹の可愛い子供達がちょろちょろ動き回っていたのが懐かしい。その代わりにこれまた近所の犬が8匹の子供を産み、そのうちの2匹が研究所にやってきた。まだまだ小さくてとても可愛い。

そして、次はちょっと迫力のあるクルト。クルトはトルコ語で狼である。彼はその名の通り狼とのあいの子だ。他の犬たちよりも大きく精悍で、彼が駆けてくると知らない人は恐れおののくことだろう。

《クルトと子供達》

昨日も知り合いのトルコ人を日本庭園に連れて行った際、クルトが追い払っても傍にやって来るので、非常に怖がっていた。ところが、実際は彼が一番の甘えん坊である。

クルトの傍でボンジュックを撫でていると、すぐさま彼がやって来て、自分を撫でてくれと、ボンジュックの耳の辺りを噛んで押しのける。私の顔を舐めようと飛び掛ってくるが、他の人が見るときっと狼に襲われていると勘違いするだろう。しかし、やはり彼は狼との混血。その証拠に、研究所に羊が紛れ込んできた時、その喉元を一噛みして羊を倒してしまったそうである。

そして、ドス。この犬は実にマイペースで、他の2匹の犬とは別行動の時も多い。姿を見かけないと思ったら、突然ふらっと1匹で現れる。朝も必ずボンジュックとクルトは私の方に駆けてくるのに、ドスはたいてい知らん顔。一人でそこらをふらふらしている。わが道を行くといった態度である。その態度が私と似ているのかもしれない。彼も別に私が嫌いなわけでもなく、頭を撫でてやると非常に気持ち良さそうにしている。

《昼寝中のドス》

それと、現在もう1匹、別の犬が紛れ込んでいる。他の犬たちと一緒に仲良くやっているので、ここの住人になってしまっているのであろう。ともかく犬達で賑やかなここ日本庭園である。

《日本庭園を見学に来た女学生達》

ところで私は現在、カマンから150キロほど離れたカイセリで日本庭園を作っている。カイセリ市役所から日本庭園を作って欲しいという話が出て、3月末くらいから、研究所の日本庭園の手入れと並行して、金、土、日と週末にカイセリに行っている。休日を利用しての全くのボランティアである。

トルコでは材料もなかなか日本的な物は手に入り難く、作業ははかどらないが、なんとか頑張っている。このカイセリ日本庭園作り奮闘記なるものはメルハバ通信にてお知らせできると思う。

二つのスペースがあり、小さな方はエルジェス山のイメージで石を据えた。土の部分に3種類の砂利、小石で模様をつける予定。まだ、それらの石等が入荷していないので完成には至っていないが、現在の写真を載せる。これらの石はカイセリ近郊の山で私が選び、トルコ人の仲間と降ろした。据えてみると一つずつ表情があって、石に対しての愛着が湧いてくる。

《エルジェス山をイメージした庭園》

人目も触れられずに転がっていた石達が晴れやかな舞台に立ち、自己を主張してきたように感ずる。大きいスペースも完成までまだまだ掛かると思うが、仕事を引き受けた以上、日本の代表として立派な庭を造りたいと張り切っている。それまでは休日も休み無しである。日本庭園が完成するまではカマン付近のサイクリングやトルコの国内旅行もしばらくお預けだ。


メルハバ通信その5(2006年4月)

2012年05月14日 | メルハバ通信

メルハバ通信その5

〈サフランボル編 〉

3月17日にアンカラでシニアボランティアの全体会議が催された。会議の後、親睦を兼ねてサフランボルの街に出かける。ここはアンカラからバスで3時間ほど西に位置する、オスマントルコ時代の古い町並みが残された観光地である。世界遺産にも登録されているため、外国人の観光客もたくさん訪れている。

《世界遺産にも登録されているサフランボルの街》

チャーターしたマイクロバスがアンカラからイスタンブールへの高速道路を2時間ちょっと走ったところで、クラッチの調子がおかしくなった。運転手がバスから降りてみるとクラッチオイルが少なくなっていた。オイルを追加し、いざ出発!!と思いきや、まだ具合が悪いようだ。もう一度バスを降りて車の下を覗くと、クラッチオイルがだだ漏れ状態。

結局、修理屋を呼ぶ羽目になった。運転手は近くの街から直ぐにやってくると言っていたのだが、待てども待てども修理屋は来ない。ようやくやってきたと思ったら、なんと近くの街からではなく、アンカラから駆け付けてきたのであった。時間が掛かるはずだ。

で、だいぶ遅れて昼食場所であるサフランボルに到着した。遅い昼食の後、やっとサフランボル観光。しっとりと落ち着いた良い街だが、ちょっと保存状態が良くない。しかし、今度シニアボランティアでこの街並みを修復保存するために、新規隊員が派遣される。京都の宮大工さんだそうだ。きっと美しい街並みが再現され、その輝きを増すことと思う。また是非とも訪れてみたい街だ。

《修復を待つ古い住居、新規隊員の活躍を期待したい》

〈オメールハジュル編〉

 4月1日、念願だったマウンテンバイクを購入し、その試運転を兼ねてオメールハジュルという村まで向かった。先日、同期のSさんは地元のテレビ局の取材があり、既にここを訪れていた。私はこれから取り掛かる日本庭園の打ち合わせでカイセリにいたため、ここを訪れることができなかったのである。美しい自然や遺跡が残されており、村人も親切で非常に良い所だったとSさんから聞いていたので、自転車の初乗りはここを訪れることにした。

おおよその方向しか聞いていなかったので、チャウルカン村に行く川沿いの道から入ることにした。川面に映る景色がとても素敵だ。山々や建物、そして春の木々がシンメトリーに水面に映り込む。牛達がのんびりと草を食んでいる。1軒の見知らぬ家で、チャイ(お茶)の接待を受けた。余り長居も禁物なので、お礼を言って進む。その家の子供が隣の家に犬がいるから危ないと、石を持って投げる身構えをしながら先導してくれた。

《川面に景色が映り込む》

《牛がのんびりと草を食む》

《子供達を撮影。背後に牛が迫る》

そして先日、チャウルカン村の山を登る時に訪れた家で、もう一度道を尋ねる。親切なお父さんはいなかったが、子供たちとお母さんが近道を案内してくれた。

しばらく行くと、カマンから来ているアスファルトの道に合流した。そこには1軒の家があり、2匹の犬がけたたましく吼えながら私の方に飛び出してきた。私は慌てて犬を避けるようにアスファルトの道を右に取る。しかし、右の道はカマンの街に戻ってしまう。どうしたものか迷ったが、もう一度その家に引き返し、左のオメールハジュルへの道を行くことにした。自転車から降りて、ゆっくり身を屈めて近づいていくと、1匹の犬は尾っぽを振りながらこちらにやってくる。

私はたいていの犬とは仲良しになる自信がある。身体を撫でてやると気持ち良さそうに横になった。もう1匹は遠くでこの様子を見ている。この犬はちょっと手強そうで、首には例の狼除けの鉄の楔をまきつけている。しかし、自転車でさっと通り過ぎれば、威嚇だけで噛んだりはしないだろう・・・。

ゆっくりと自転車を漕ぎ出すと、その犬がすごい形相で吼えながら迫ってきた。慌てて逃げるが、とうとう追いつかれて私の太ももにかぶりついた。痛さとともに怒りがこみ上げてきて、とっさに自転車を放り投げ、犬を蹴り飛ばしに行った。私が進むと犬は私の剣幕に押され、後ずさりする。家の方にすごすごと戻り、こちらへはもうやって来ないようである。睨み付けながら自転車を押して通り過ぎた。

噛まれた箇所は幸い厚いフリースのズボンの上からだったので、傷は無く内出血だけで済んだ。傷があればもちろん狂犬病が心配だが、飼い犬でもある事だし大丈夫だろう。トルコではサイクリングや登山でも犬がちょっとやっかいな存在である。まあ登山で訪れたチベット程ではないと思うが・・・。

オメールハジュル手前の家で呼び止められ、昼食をご馳走になった。この家ではクルミや杏、リンゴの樹木を栽培している。私が造園家なので色々話が弾んだ。はっきり伝わっているのか解らないが、私は雰囲気でトルコ語を話す。自分では話が弾んだように感じているし、相手との意思疎通は十分できているようだ。

《オメールハジュルの景色》

オメールハジュルの村では、またまた見知らぬ家に招かれた。おばさん連中が5,6人集まってパン作りをしていた。生地を薄く延ばし、中にチーズを入れたり、野菜サラダを入れたり、色々な味付けを楽しんでいるようだ。お腹一杯でしたが、断るのも悪いので頂戴した。野菜サラダ入りのパンが満腹にも拘らず、とても美味しかった。

《パンの生地を薄く伸ばす》

《色々な具をパンに挟んで食べる》

みんなの写真を撮り、村のはずれで岩山を撮影して岐路に着いた。帰りにもう一度例の犬と相対したが、今度は事前に自転車を降り、棒を振りかざして犬を睨み付けながら通過した。犬が射程距離に入ったら、躊躇なく棒を振り下ろす覚悟だった。犬も私の覚悟が解っているようで、すごい形相で威嚇してはきたが、ある一定の距離(3~4m)よりは近づくことはなかった。俺は人間様だ、トルコの犬に負けてたまるか・・・。

《笑顔に送られて、帰路につく》

オメールハジュルに行った次の日には以前知り合ったクルシェヒルのエコロジーと言う雑誌の編集者から、チャヤーズ村で行われる植樹祭にSさんと僕が招かれた。

《子供達の出迎えを受ける》

あいにくの小雨交じりの天気。久しぶりの寒さがぶり返し、ガタガタ震えながらの植樹となった。おそらく氷点下近くまで冷え込んでいるだろう。

《バスで植樹会場に向かう》

私はシニアボランティアで来た日本人の造園家として村人に紹介され、トルコ語で自己紹介をした。子供たちからやんややんやの喝采。盛大な歓迎を受け、寒いながらも非常に有意義で楽しい植樹となった。

《みんなで苗樹を植樹する》

ここで、百歳のお年寄りを紹介された。非常に元気で、日本人でもこんなに元気な百歳の老人は見かけない。ほんとにびっくりした。

《なんと百歳のおじいさん。とても百歳には見えない・・・》

ここトルコでも自然環境に対する意識が年々高まってきている。自然環境を守ろうとする人々の意欲を今回の植樹において、肌で感じることができた。

しかし、カマンではせっかく高い予算で作った既存の公園がゴミ捨て場と化していたり、町全体も非常にゴミが目立つ。田舎ではまだまだ住民の住環境に対する意識が低いようだ。ただ単に公園を新設していくだけでなく、ゴミをきちんと処理し、住民自からが自分たちの住環境を美しく住み良くしようとする考えを高めていかなくてはならない。できればカマンでもこのような啓蒙活動を企画し、住民の意識改革ができればいいなと感じた。

それと、3月29日にトルコのカイセリで皆既日蝕を見ることができた。生まれて初めての体験だった。だんだんと辺りが暗くなり、完全に太陽が隠れ、そしてコロナが見えた。しばらくしてまた徐々に太陽が輝きを取り戻していく・・・。実に荘厳な雰囲気を感じさせる天体ショーであった。

《アンズの花越しに皆既日食を見る》

これだけでもトルコに来た甲斐があるというものだ。写真は杏の花と一緒に撮ったのだが、ちょっと枝に邪魔されてしまった。残念ではあるが、身体に残ったあの感覚は一生忘れられないだろう。