milima父のブログ/トルコ・ヨルダン・その他

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メルハバ通信その14 (2007年3月)

2012年05月25日 | メルハバ通信

メルハバ通信その14   

日本への一時帰国が終わり、2月9日予定通りトルコに戻った。無事にと言いたいところですが、健康診断の胃カメラでポリープが発見され、細胞検査にまわされた。結果が出るまでの1週間が非常に長く感じられた。腹部エコーもいつもより時間が掛かり、一部分だけをしつこく見られていたので、ひょっとしたら悪性の腫瘍なんではないだろうかと、どうしても悪い方に考えてしまう。結果は良性だったが、ちょっと肝を冷やした。

さて、2月24日に、アンカラでトルコの高校生や大学生を対象としたロボットコンテストがあった。HONDAが主催でJICAも協賛。JICAキャンペーンと称する我々の活動を紹介するコーナーがあった。そこでカマンの活動も紹介した。ロボットコンテストはトルコでは初めての試みだったそうだが、熱心な学生達が参加し大盛況であった。多くの人々が会場を訪れたので、少しはカマンの宣伝になっただろう。

《HONDAのASIMOとトルコのロボットが握手》

《ロボットの相撲》

《パッケージデザインの展示》

《JICA活動紹介のブース》

《七宝焼きに挑戦》

3月3日に、我々のデスクがあるビリセム(知能指数130以上の天才児を集めた特殊な学校)で雛祭りを主体とした日本文化の紹介をした。昨年は節分の豆まきを主体とした催しだった。私ふんする鬼が大喝采を受けたが、今回はおとなしく、お雛様の折り紙とペーパークラフトを担当した。生徒達は関心を示し、楽しんで作ってくれた。

《ひな祭りのペーパークラフトに挑戦》

《ペーパークラフトの後はひな祭りを歌う》

アンカラからも他のシニアボランティアやトルコ語の先生、学生たちにも参加していただき、昨年に引き続き有意義な催しとなった。大好評だったので、ぜひ市役所の方でもやって欲しいとの申し出があり、5月5日にも市役所ホールで端午の節句にちなんだ催しをやる予定である。さて、次はどんな催しをするか、あまり無い知恵を振り絞って只今考え中である。

そして、どこから聞きつけたのか、我々が日本語を教えているアーヒ大学でも日本文化紹介の依頼があり、ここでも学生相手に雛祭りをした。さすがに日本語を学んでいる大学生なので、トルコ語のみならず日本語でも雛祭りの歌を熱唱した。

さて、研究所の日本庭園の作業であるが、梨の木に付いた宿木(やどりぎ)の除去及び整枝剪定の作業を続けている。梨の木の本数が多いのと、結構樹高が高い木が多く、本格的?なロッククライミングの道具を使っての作業となる。木に登ったり降りたりで、思ったように捗らない。それでもようやく先が見えてきた。

宿木が一杯付いて弱々しかった木々も、宿木と一緒に枯れ枝や不要な枝等を剪定してやると、見違えるように生き生きと復活してきた。元気になった木々を眺めると、苦労が報われたようで嬉しくなる。この仕事をやっていて良かったと言える瞬間だ。

《宿り木を取ってスッキリとした梨の木》

冬場の代表的な庭園作業に、寒肥の施肥がある。庭園にあるすべての樹木に施すのは時間的にも、また生育が良すぎるのも後の手入れが大変なので、今回は桜(日本から輸入したソメイヨシノ)と主木になる松のみに施肥した。日本庭園の樹木に肥料をやるのは久しぶりみたいなので、これらの生育状況も楽しみである。

《ソメイヨシノの寒肥え》

また、2年ほど前に山の斜面に植えられたヒマラヤシーダの支柱と水鉢をやり直した。カマンは強風の名所なので、樹木はどうしても風の影響を強く受けてしまう。せっかく植えた木々も風で傾いたり、倒れたりしている。植樹後も樹木を丁寧に観察する必要性がある。

昨年完成した研究棟や今年に完成する宿泊棟周りの造園計画も順次進めている。石庭も中庭に取り入れようと考えている。スモモやリンゴ、クルミなどの果樹も大量に入荷したので、植樹に取り掛かった。ここでは乾燥が激しいので、樹木も思ったよりも深植えする必要がある。日本では湿気のために根腐れの方が心配なのだが、トルコでは水分の補給が最重要課題だ。

《完成した研究棟》

《研究棟と宿泊棟》

メインとなる博物館の建設は残念ながら来年度に持ち越しになった。それに伴い、来年移植する樹木に対しては根回しも始めた。春が迫って、ここ日本庭園はてんてこ舞いの忙しさである。

《松の根回し》

日本庭園のみならずカマン市役所でも、新市長から老人ホームの庭と公園の設計を依頼された。加えてカイマカン(郡庁)からも、最近できた裁判所の造園設計を依頼された。この裁判所はカマンではビックリするような立派な建物である。ちょっと本腰を入れて取り掛からないといけない。

この前までは春がやってきたかのような暖かさであったが、ここ2,3日は雪も降り、真冬の寒さがぶり返してきた。今日(水曜日)はせっかくのパザール(青空市)だったが、みんな商売もそこそこに早仕舞いしていた。

日本庭園も自転車で通い始めたばかりなのに、寒さのため、またバスに逆戻り。しかし、4月に入ると野の花々が一斉に咲き始める。カマンでは心浮き浮きする季節がやってくる。美しく咲き競う花々の真っ只中を、私の自慢のマウンテンバイクが駆け回ることだろう。ただし、花粉症とチョバン犬(羊や牛の番犬)が心配だが・・・。


メルハバ通信その13通信(2007年1月)

2012年05月24日 | メルハバ通信

メルハバ通信その13

1月12日から健康診断のために日本に帰国した。このメルハバ通信も日本からお送りしている。身体に異常が無ければ2月8日に関空を発って、9日にトルコに戻る。久しぶりの日本なので、できれば温泉にもゆっくり浸かりたい。

昨年11月にカマン市長が亡くなられたが、12月にも悲しい別れがあった。それは私と同期のSさん二人で飼っていた、猫のタマちゃんとの別れであった。

タマちゃんとの出会いはちょうど1年前であった。カマン3人組でパーティー(たぶんクリスマス)の料理を持って、私が部屋を出ようとすると、ドアの外に生まれて1ヶ月にも満たないような子猫がうずくまっていた。

《初代タマちゃん》

猫をそのままにして、2階にあるMさんの部屋で盛大?なパーティーをした。そして、ほろ酔い機嫌で自分の部屋に戻って来ると、ドアの前にまだその猫がいる。私は日本でも猫を飼っているので、可哀想になり、一晩くらいならと部屋の中に招き入れた。バスルームで汚れた体を綺麗に洗ってやり、インスタントのミルクやビスケットなどをやる。ゴロゴロと喉を鳴らせ、非常に人懐っこい猫である。私がベッドで寝ていると、ベッドの中に入り込んできた。日本でも良く飼い猫が布団に入ってきていた。猫も暖かくて気持ちいいんだろうとそのまま一緒に寝込んだ。

さあ翌日、カマンの仲間に、この猫はどうしたものかと相談した。トルコにずっといる訳ではないし、部屋の中で飼うにはちょっと無理だ。可哀想ではあったが、外に出すことにした。厳寒のトルコの冬をやり過ごせるのかなと非常に心配していた。

やはり外は寒いのか、人が出入りする隙にアパートの中にこっそり入ってくる。猫の姿を見かける度に安心していたが、1階に住んでいるSさんの話だと、夜はどうも地下にあるボイラー室辺りで寝ているようである。時々Sさんや私が餌をやるようになった。二人で相談して名前を付けてやろうということになり、Sさんがたまに見かけるので、タマちゃんはどうかなと提案した。すぐにタマちゃんと決まった。

最初はほんとにたまに見かけていたタマちゃんであったが、餌をもらうためにしょっちゅう1階のSさんの部屋に来るようになっていた。Sさんの部屋で餌が無い時などは4回の私の部屋までやって来て、ドアの前で“ニャーオ、ニャーオ”と餌を催促する始末。

カマンでは猫の餌などは売っていないので、私が仕事でカイセリに行った時などにキャットフードを購入するようになった。そして、男2人(カマン3人組のもう一人のMさんは、ほとんどカレホユック研究所に寝泊りしていたので)にとっては無くてはならない大切な存在になってしまった。

そのタマちゃんが12月初めに行方不明になった。ほとんど毎日、夜にはSさんの部屋に来ていたのに、1週間以上も姿を見せなくなった。交通事故にでもあったのではないだろうかと心配していた。

Sさんが私の上の階に住んでいるムスタファ少年に聞いたところ、なんと車で撥ねられたとのことであった。やはり、交通事故に遭っていたのか・・・。私たちのアパートの前は国道になっていて、交通量も田舎のカマンにしては非常に多い。他の猫でも結構撥ねられるのも多いのではないだろうか。実に可哀想なことをしたものだと感じていた。

そして、タマちゃんが消えてから10日ほどしたある日、私は市役所へ行く途中の道路でタマちゃんそっくりの子猫を見つけた。これも生まれて1ヶ月ほどの子猫で、頭を撫でてやるとゴロニャーンと甘えてくる。タマちゃんの生まれ替わりか、まるでタマちゃんの落とし子のような気さえした。

Sさんがやって来るのを待って、この猫を見せる。Sさんもあまりのそっくりさにびっくりして、すぐさま家に連れて帰ると言う。こうしてタマちゃん2世が誕生してしまった。交通事故や寒さが心配なので、タマちゃん2世を今度はSさんの部屋で飼うことになった。私たちが日本に帰国する時は誰か飼い主を見つけるつもりである。

《2代目タマちゃん》

それから2,3日して、日本庭園へ行くバス停に向かうために(12月に入ってから寒い日は自転車の代わりにバスを利用していました。)道路を横断した。すると、街路樹の根元に1匹の猫の死体があり、タマちゃんとそっくりだ。しかし、タマちゃんと比べると大きすぎるので、そのまま日本庭園に行った。

仕事をしていても、だんだん猫の死体が気になってきた。Sさんに電話して、もう一度確かめてもらうことにした。大きすぎるのでやっぱり違うということだ。ところが、時間が経ってSさんも心配になり、もう一度昼休みに見に行ったそうだ。顔をじっくり確かめたところ、タマちゃん独特の顔の模様が確かにあるという連絡を受けた。私も仕事を切り上げて、カマンに戻った。

そして、二人でタマちゃんの死体を公園になっている丘の中腹に葬ってやった。私の部屋からはいつでもタマちゃんのお墓を見ることができる。きちんと葬ってやることができたので、1年という短い人生でだったが、きっと満足して天国に行ってくれたと思う。タマちゃん、楽しい日々をありがとう。安らかに眠れ!。

さて、今度のタマちゃんはちょっと「やんちゃ」だ。タマちゃん1世はおっとりしていたのに、なかなかじっとしていない。クリスマスパーティーの時にもMさんが手を引っかかれて、血だらけになってしまった。Sさんもちょっと手を焼くかもしれない・・・。

しかし、私の部屋でタマちゃん2世を預かった時に、milima(娘)が爪を切ってやった。これで暫くは大丈夫だろう。やんちゃではあるが、この猫も実に可愛い子猫である。 

12月3日にコンヤという街で行われるメブラーナの舞を見に行った。イスラム教の一派であるメブラーナ教による宗教行事だが、白い衣装を着て、クルクルと回り続ける有名な踊りである。観光用のものはイスタンブール等で見られるが、私たちが行ったのはコンヤで1年に一度12月に行われる正真正銘の舞である。

《メブラーナ7つの助言》

今ではトルコを代表的するものとして、世界中から観光客が訪れる。日本のテレビやガイドブック等で見られた人も多いのではないだろうか?

《メブラーナの舞い》

黒装束で身をくるんだ僧侶が荘厳な音楽や歌とともに、白装束に変わり、気持ちを集中して回り初める。見ているこちらも厳粛な気持ちになり、実に感動ものであった。

《メブラーなの舞い》

 

さて、milimaの学校が冬休みなので、妻と供にカマンにやって来た。Mさんの奥さんもトルコに来ていて、ドイツから考古学の研究にやって来ているYさんも迎え、盛大なクリスマスパーティー及び年越しパーティーを催した。久しぶりに賑わったカマンだった。

年が明けて、家族3人で世界遺産に指定されているサフランボルに行った。「杖屋ペンション」と言って、日本人御用達のペンションに泊まったのだが、客は韓国人がほとんどであった。最近はどうも韓国人のほうが幅を利かせているみたいだ。他の観光地の旅行者も韓国人のほうが目立つ。

《サフランボルの街》

《サフランボルでトルコダンス》

しかし、トルコ人にとって日本人は別扱いである。このペンションにテレビ局の人が来て、我々日本人家族だけが撮影に招かれた。トルコで働いている日本人としてインタビューも受けたので、ひょっとするとテレビで流れるかも?

12月の日本庭園では主に梨の木に取り付いているヤドリギを落とす作業をしている。ヨーロッパでは冬に落葉樹が葉を落とした後でも、ヤドリギだけが青々と葉を付けているので、生命力のシンボルとして見られているそうだ。クリスマスの飾りにも使われる。

しかし、トルコ人たちはヤドリギが付いていると梨の実付きが悪いと言うので、これらを綺麗に除去すると同時に無駄な枝を剪定している。地面近くまで垂れ下がっていた枝も落とし、だいぶスッキリとしてきた。果たして今年はたくさんの実を付けてくれるだろうか?今から楽しみである。

《樹に着いている宿り木》

《宿り木の除去後》

また、カマン3人組で、第2回目の日本語初級講座を開始した。今度はアヒ大学の学生が我々の生徒である。希望者は150名ほどあったのだが、多すぎるので取敢えず30名ほどを対象に行っている。なかなかみんな熱心に授業に参加してくれている。以前は内容がちょっと難しすぎたのと、我々の教え方ももう一つだったのか、卒業生は一人だけであった。今度は多くの人が長続きできるように工夫するつもりだ。

《2回目の日本語講座》

《日本語講座の学生と記念撮影》

1月は日本に帰国中なので、2月のメルハバ通信はお休みさせていただく。外の気温はトルコ、カマンの方が低い(現在で最低気温-5℃くらい)のですが、家の中はセントラルヒーティング(集中暖房)でとっても暖い。日本に帰ってから、日本の家はなんと寒いんだろうと感じている。


メルハバ通信その12(2006年12月)

2012年05月23日 | メルハバ通信

メルハバ通信その12

11月16日に心臓発作で倒れ、アンカラの病院に入院していた、トゥルグット・アスラン、カマン市長が亡くなられた。とても気さくで、市民からも本当に愛されていた市長であった。カマンにとって、また我々シニアボランティア3人にとっても非常に大きな損失だ。しかし、いつまでも悲しんでばかりいられない。ネジャティ・チョラック新市長の下、新しいカマンの街作りのために尽力せねばと思っている。

カマンでは亡きトゥルグット市長のために、荘厳かつ盛大な市民葬が執り行われた。このメルハバ通信で、どの様な葬儀が執り行われたのか、報告したいと思う。

市長が亡くなった当日16日、私はカイセリに作った日本庭園の仕上がりを視察に行くため、隣町であるクルシェヒル行きのドルムシュ(小型の乗り合いバス)に乗っていた。クルシェヒルからカイセリ行きのオトブス(長距離バス)に乗る。ドルムシュの中で市長が亡くなったという一報を、シニアボランティア同期隊員のSさんから携帯電話で聞いた。

クルシェヒルからカイセリ間のオトブス(長距離バス)に乗っていれば、携帯電話の電源は切らされるので、Sさんからの電話も通じなかったであろう。今から考えると非常にラッキーであった。急遽カマンに帰り、Sさんが待つ市役所に駆けつけた。

葬儀の模様を私のカメラで撮影してほしいとの依頼を、Sさんのカウンターパートであるセルメットから受けた。市役所の写真班として葬儀に臨んだ。セルメットは市長の甥っ子にあたり、彼はまた英語も出来るので、我々日本人の世話係でもある。市役所ではコンピュータを担当していて、市役所のホームページも彼が管理している。

いつもは非常に明るく冗談を言っている彼が、さすがに時折悲しそうな表情を見せる。しかし、葬儀ではおじさんである亡き市長のために、悲しみを押し隠し、気丈に中心的な役割を果たした。

《棺を担ぐセルメット》

さて、本葬儀は翌日17日に執り行われた。前日の昼から副市長が亡くなった市長を迎えに行くための車に、私とSさんを乗せてくれた。カマンから15キロほど離れた草原に向かう。バスや自動車に分乗してきた人々が、草原で大勢待っていた。雲一つ無い快晴で、この季節にしては驚くような暖かさである。トルコの天候も市長に対して敬意を払ってくれたのだろう。ここでアンカラの病院から帰ってくる市長をみんなで出迎える。

《亡き市長を乗せた霊柩車を迎える》

やがて1台の霊柩車らしき車を先頭に長蛇の車列がやってきた。先導する霊柩車は日本の様な作りではなく、普通のトラックを改造したものである。この霊柩車を先導にみんなが車に乗り込み、カマンを目指した。 

《霊柩車を先頭に、カマンを目指す。》

バスなどはフロントに喪章として黒い布を掲げている。草原の道を何十台もの車が列を成す。こんなに多くの車が列を成すことはカマンではまず無いであろう。

カマンに到着し、唯一の病院へと棺は向かう。近くにあるジャーミー(イスラムの教会)でみんなが集まり始めた。ここでお通夜が執り行われるのだろうか? 我々は翌日の葬儀に参加するということで、この日は市役所に戻った。

葬儀当日、参列する人々がすべて市長の顔写真を喪章として胸に掲げる。そして、市長の棺が安置されている病院まで、1km程度の道を市民が歩いて出迎えに行く。病院から市長の遺影を先頭に霊柩車が出てきた。人々が続々と集まって、その霊柩車に続く。

《亡き市長の写真を胸に掲げる》

《トルコ国旗と市長の遺影を先頭に参列者が続く》

ジャーミー(イスラムの教会)の近くで霊柩車から市長の棺が降ろされた。おそらく市長の遺族であろう女性たちが棺に泣きすがる。一人の若い女性が最後まで棺を放れようとしない。市長の孫娘さんであろうか・・・? 

《霊柩車から棺を降ろす》

ここで人々が棺を肩に担ぎ、市役所まで行進する。棺を担いでいない人々は互いに腕を組み合っている。担ぎ手を交代しながら、市役所まで全員で進んだ。

《みんなで交代しながら棺を担ぐ》

私もどうしても棺を担ぎたい衝動に駆られ、少しの間だったが、棺を担がせてもらった。行進する人々がどんどん膨れ上がり、市役所の前で待つ人々の元に到着した。多数の花輪が飾れている中に棺が安置され、ここで葬儀が執り行われた。

《我々カマン3人組の花輪もある》

《女性は後ろの方でじっと見つめている》

《多数の市民が集まった》

棺の傍らでは、市の警護に当たっている警護員が身じろぎせずに、敬礼をし続ける。いかにも平静を保つその表情の奥からは明らかに悲しそうな感情が読み取れる。棺の上にはカーネーションの花々が置かれた。悲しそうな顔をしたおじいさんが棺のそばから離れようとしない。

《役所の警備員がずっと棺の横で敬礼を続ける》

《悲しそうなおじいさん》

ジャーミーでイスラムの祈りが済んだ昼過ぎから本格的な葬儀が執り行われた。少し広い場所に棺を移動し、我々のデスクがある学校の先生が葬儀の司会を担当する。

まず、市長と共に仕事をしていて、先日配置換えになったカイマカン(カマン郡長)が日本でいう弔辞を述べる。そして新任のカイマカン、他の人々が弔辞を述べた。最後にイスラムの僧侶と共に、葬儀に参列した人々が祈りを捧げる。無事に葬儀が終了し、市長の遺体は市長の故郷であるオメールハジュルの墓地へと向かって行った。

《イスラム教の僧侶が祈りを捧げる》

長が倒れてからも、また元気な姿を我々の前に見せてくれると心から信じていた。市の公園計画など、私の業務にも市長が深く関わっていた。おそらく私の仕事においても、今後は支障が生じることと思う。しかし、新市長の元、少しでもカマンのために役立てる様に頑張って生きたいと考えている。それが我々に常に暖かい態度で接してくれた市長に対する、せめてもの恩返しである。

思い起こせば、寒い冬の日の帰り道、我々の前で止まってくれた1台の車があった。市長の車だった。“家まで送っていくから乗っていけ。”と人懐っこい笑顔で言ってくれた。会う度に、“時間が出来たら君たちをカッパドキアに招待するからね。”と言ってくれていた。暫く私たちが市役所に行かない( もう一つの職場である学校の方で作業をしていたので)と、 “君たちの姿が見えないから、私はずっと泣いていたよ。”と、冗談を言って、私たちを笑わせてくれた・・・。

赴任早々、私がカメラの撮影中にクルシェヒルの警察に捕まった時も、これからは捕まっても大丈夫な様に、市長の名詞に、“この人は大切な日本からのボランティアです。何かあった時には私が保証します。”と裏書してくれた。今でも私の財布にはこの名詞が大切に閉まってある。今となっては私の大切な宝物になってしまった。いつまでも大切なお守りとして財布の中にあり続けるだろう。

トゥルグット・アスラン市長のご冥福を心からお祈り申し上げます。

翌週末はカイセリに日本庭園を見に行きました。私が仕事を終える時に、“あとは自分たちに任せておけ。”とはメルクガジ市役所は言っていたのだが、おそらく日本庭園とは程遠い状態であろうとは覚悟していた。

夕方にカイセリに着き、とりあえず現場視察に訪れた。庭園灯が綺麗に灯っていて、一見するとなかなか雰囲気の良い庭園である。しかし、雪見灯篭が設計では1基だけなのに、なんと5基も配置してある。私は1基しか作らせていないのに、現場に持ち込まれた灯篭が5基もあるのは不審に思っていたのだが、他の公園等で使うためのものだと考えていた。

その中の一つはエルジェス山をイメージした枯山水庭園のメインの景石の上にも置いてある。日本庭園のイメージもぶち壊しである。灯篭が多くあるので、トルコ人から見れば日本風だと思ったのだろうが。設置する場所が間違っているので、日本人から見れば笑いものだ。

翌日にメルクガジ市役所を訪れ、公園長のムスタファ・トルクメンに、設計に入れている灯篭以外はすべて外すように指示した。彼はせっかく据えたのにと、怪訝そうな表情であったが・・・。私がこれだけは絶対に譲れないと言ったので、仕方なく撤去するだろう。

しかし、その他は設計通りには行っていない部分もあったが、芝生も綺麗に生え揃い、樹木も植えて、一応庭園らしくなっていた。まだ手水鉢と織部灯篭が入っていなかった(これもずっと前から催促してきていたのだが)ので、来年の春までには必ず入れてほしいと要求した。

《芝生が奇麗に生え揃った》

《枯れ池とトルコで作った雪見灯籠》

《あずまやと園路》

それらが入ったら、最終的な手直しに行こうと考えている。まあ、トルコ人だけでそれなりに仕上げてくれたので、とにかく格好はついた感じである。手付かずの心配もしていたので、これでも感謝しなくてはいけないだろう。

メルクガジ市役所に文句を言うのは雪見灯篭だけにしておく。公園長の話ではこの庭園の評判が非常に良いので、カイセリで一番大きなブユックシェヒル市役所でも真似をして、韓国庭園をこしらえたそうだ。しかし、こんなに立派な庭園ではないということでちょっと安心。 

日本庭園の本当の完成は来春まで待つとしよう。


メルハバ通信その11(2006年11月)

2012年05月21日 | メルハバ通信

メルハバ通信その11

ここトルコにやって来てから、ちょうど1年が経った。最初の1ヶ月は異常にゆっくりと感じられたが、それ以降はあっという間に過ぎ去った。残された任期はあと1年、悔いの残らないよう、気持ちを再起動させてボランティア業務を遂行していきたいと考えている。

さて、アンカラの家族のもとに行っていた11月2日の夜、とうとうトルコで初雪が降り始めた。ちょうど家族と共に世界的にも有名なアナトリア文明博物館を訪れている時であった。

自宅のアパートを出る時に外があまりにも寒いので、家族と冗談半分で “雪が降ってもおかしくないな” と話していた。しかし、まさか本当にこんなに早く降るとは・・・。昨年は11月下旬か12月に降ったように記憶している。

博物館を出たあたりから、雪は夜中ずっと降り続き、翌朝は一面の雪景色となった。12階のアパートから見る雪景色に娘のmilima(美里麻)も大感激。

翌日、私が夕方6時半の最終バスでアンカラからカマンに帰る時、降り積もった雪のためにカマンの自宅に辿り着けるか、心配していた。しかし、運転手の腕前は誠に見事なもので、安心していて乗っていられた。

でも、翌日のカマン行きバスが雪で横転したことを聞かされた。1ヶ月ほど前にもコンヤという街で日本人旅行者を乗せた観光バスが、雨で出来た水溜りでスリップして横転し、乗客が1人死亡したことを思うとバスに乗る時はある程度の覚悟が必要である。

しかし、日が暮れて満月の光に照らされたバスから見た道中の雪原はなんとも言えない美しさであった。春以来しばらく忘れかけていた雪景色の素晴らしさと共にトルコに来れた感動が心の中から湧き出てくる。ここ最近はあまり感じなかった登山意欲も頭をもたげてくる。やはり雪のトルコ、特にここカマンの雪景色は素晴らしい・・・。

翌日、日本庭園に行って、またまたその雪景色を堪能することができた。雪面がキラキラと眩しいばかりに輝き渡り、誰も歩いていない雪の上を思う存分歩き回り、一人で写真を撮った。昨年は春まで日本庭園の剪定作業は休んでいた(トルコにまだ慣れていなかったのと、非常に寒かったため)ので、この素晴らしい日本庭園の雪景色を見ることができなかった。

《紅葉と雪景色》

《すっぽりと雪に埋まった》

《十三重塔》

《雪見灯籠》

今から考えると実にもったいないことをしたもんだなあと思う。今年の冬は天気の良い日を選んで日本庭園での現場作業を続けよう。しかし、いくら冬山装備を身につけている私でも-20℃以下での作業はさすがに遠慮させてもらいたいが・・・(昨年の冬は−30℃を記録した)。

《一足早いクリスマスツリー》

《一面の雪景色》

《冬の間はこの水槽に日本庭園の鯉を集める》

《研究所と日本庭園の名物犬たちも雪にびっくり》

先月も少し書いたが、トルコのラマザン(断食月)についての続編を書きたいと思う。9月23日に始まったラマザンは10月22日に無事に終わった。

私も1日くらいは断食を経験しようとは思っていたのだが、初日に寝過ごして肝心の朝飯を食べることができず、あまりの空腹で夕食まで待てずに結局未経験に終わってしまった。ちょっと残念であるが、来年もう一度機会がある。オロチ(断食)は来年に持越しである。

アンカラでは街に出ると、閉めている(営業していない)レストランもあるのだが、営業しているレストランでは多くの人々が何事も無いかのように食事をしている。ところがカマンに帰ると、利用しているレストランが軒並みに閉まっている。目立つ所には営業している店が見当たらない。ようやく探し当てたピデ(トルコのピザ)屋さんでクイマール(ひき肉)ピデとペイニール(チーズ)ピデを注文したが、店内で食べている人は誰もいない。アパートに持ち帰って、こっそり食べた。

何日か後で、この店の隅っこで食べている人を見つけたので、勇気を出して一緒に食べた。しかし、パンやピデを買いに来ている客にじろじろと見られて、食事している相手に対してする挨拶、“アフェイトースン”と言われた。その口調は明らかにいつもとは違うものであった。非難の口調である。

人前でラマザン中に食べ物を口にするのは勇気が必要だ。欧米化されているアンカラと違って、それだけカマンはまだまだ敬虔なイスラム教徒が多いといえるのだろう。

仕事場の日本庭園でも殆どの作業人たちがオロチ(断食)をしていて、休憩中にチャイを飲んだりパンを食べるのは、私とジェンギンズの二人だけであった。しかし、ジェンギンズが全く悪びれた様子も無く、私に “自分は今は仏教徒だ。” などと冗談を言って場を和ませ、他の作業人たちの目をあまり気にしないで食べることができている。日本庭園で作業するにはエネルギー補給が必要であるから・・・。

私が樹木を剪定していると、断食している作業人が疲れてフラフラになり、“あなたも休め。ちょっと働きすぎだ。”などと、付き合いで作業を中断させられることも多くある。

断食をする意味は、貧しくて食べ物もろくに食べられない人の気持ちを知ることにあると聞いた。しかし、働いている者にとって、作業効率は確かに悪い。ラマザンがイスラム国家の生産性に大きく関わってくることもあるようだ。

昼間は確かに宗教心を持って頑張っているとは感じられる。でも、日が暮れると普段以上に食料を馬鹿食いしているという噂もあり、胃袋にも負担をかける。果たしてこんなんでいいのかなと疑問を感じてしまう。

とにかく、やっとそのラマザンも終わり、生贄祭のクルバンバイラムと並んでトルコの2大祝日であるラマザンバイラム(シェケルバイラム=砂糖祭り)が23日から25日まであった。

アンカラでは子供たちが家に飴やチョコレートをもらいに来るので、用意しておくようにと言われていた。果たして日本人の元にも来るのだろうかと半信半疑でいた。

朝10時頃、ピンポーンというベルが鳴り、ドアを開けると、いかにも貧しそうな子供が二人立っていた。陰に隠れてお母さんらしき人が・・・。とにかく飴とチョコレートを差し出すと、片方の子はこぼれんばかりに掴んだが、もう一人は遠慮している。こちらから“ブユルン(どうぞ)”と掴んで渡した。これでちょっとはラマザン中に断食していない罪滅ぼしになっただろう。

その後、2組がやって来た。一人は高校生くらいの男の子で、チョコレートを掴みとった後に、怪訝そうな顔でパラ(お金)を催促する。子供なら1リラ(80円ほど)渡せば良いと聞いていたが、どうもうさんくさそうだ。“パラヨク(お金は無いよ)”と答え、知らん振りした。礼も言わずに帰っていった。

カマンでは誰もアパートにやって来る者もいなくて、ちょっと拍子抜けしてしまった。とにもかくにも、トルコでのラマザン初体験は終わったのである。

10月29日はトルコ共和国宣言記念日であった。28日にカマン市役所の前にあるアタチュルク(トルコ建国の父と慕われており、公の場所では今でもアタチュルクの像や顔を掲げる。)広場で花輪が掲げられた。何か催しがある度にこの広場で花輪が掲げられる。様々な団体の代表者が次々に花輪を置いていく。最後に広場に整列した全員での国家を斉唱で催しが終わった。

《アタチュルク広場にて》

《カマン市長》

《市長や郡長、警察署長など、お偉いさんが参列》

1時間足らずの催しだったが、本番の29日はサッカー競技場で本格的な式典があった。いったいどんな式典だろうかと大いに期待していた。

朝9時頃から笛や太鼓、ラッパの音が響き渡る。道路を学校の旗を先頭に生徒たちが行進する。さあ、会場であるサッカー競技場へと私達家族もみんなと一緒に向かった。

カマンは小さな町なので、競技場までは歩いても10分程度。クラクションを鳴らす車が目の前で止まったので、誰かなと覗くと副市長だった。彼の車に乗せてもらい、既に街の人々が大勢集まっている会場へと到着する。

あいにく真冬のような寒さだ。雪でも降ってくるのではと思える。会場に集まった人々もみんな震えている。

寒さに負けないで、民族衣装を着た女の子たちのダンスとサズ(トルコギター)の演奏で式典は始まった。バシカン(市長)やカイマカン(郡長)の挨拶があり、各学校の生徒たちによるパレード。 ブラスバンドでは職場のデスクがある学校で顔見知りのヨンジャが小さな体で小太鼓を演奏している。

《サズの奏者、役所の同僚ムラットの晴れ舞台》

《トルコの民族衣装を身に着けて踊る》

次々と知り合いの子供たちが目の前を通り過ぎる。私と目が合ってニヤッとはにかんだり、手を振る者もいれば、一心不乱に行進するものもいる。

日頃やんちゃな子供たちも実に真剣な表情だ。子供たちの中にはまだ私たちの顔を知らない子もいて、“わあ、日本人だ”と、驚いている者もいた。みんなの行進が済んで、盛大な式典も終了した。寒さで体はガクガク震えていた。

ところで、この式典の時にも私たちに、人懐っこい笑顔を向けてくれていたカマン市長が、1週間ほど前に心臓発作で倒れて意識不明になってしまった。式典の寒さが応えたのだろうか? 式典の間中、ずっとスタジアムで起立していたから・・・。市民からも慕われていて、気の良い尊敬できる市長だ。この時は元気そうだったのに、ビックリしてしまった。

まだ生死は五分五分の状態だが、何とか元気になって私たちにその笑顔を見せてほしいものだ。心から祈っている。

 


メルハバ通信その10(2006年9月)

2012年05月20日 | メルハバ通信

メルハバ通信その10

ここカマンでは早くも冬の訪れを感じる。夏から今まで4,5日間隔で暑い日と冷え込む日が繰り返している。辺りの風景や吹く風も昨年11月にカマンへやって来た時の様相を呈してきた。このまま、この短い秋からどんどん冬に向かって行きそうな勢いだ。

《日本から持ってきたカエデの紅葉》

《上部にある滝組》

《池とクルシェヒル方面の山々を望む》

 ちょっと前までは日本庭園の桜やカイス(すもも)、ツタ類の紅葉が目立っていた。しかし、その紅葉も早くも散り始めてきている。逆に夏の暑さで参っていた芝生の緑は元気を取り戻した。秋の手入れの行き届いた?庭を見ていると非常に気持ちがいいものだ。

《藤棚付近のツタの紅葉》

《最上部の紅葉》

《池と流れ》

私の目ではカマンの日本庭園は春よりも秋の方がより綺麗に感じられる。アンカラのテレビ局も日本庭園の撮影に来た。私も日本からの植木職人として紹介された。ひょっとするとアンカラではちょっとした有名人になっているかも・・・?

《テレビ局の取材》

《園路も秋の風情である》

さて、9月中旬に隣町のカレケチリでお祭りがあり、アンカラからやって来た妻と娘、同期のSさんとで出かけた。カマンからカラケチリまで40kmほどの距離である。

アンカラ行きのオトブス(長距離バス)に乗り、途中で降ろしてもらう。たくさんのテントが張ってあり、賑やかそうな場所がすぐに目に入った。一目で祭りの場所が解った。

アスファルトの道が迂回しているので、祭り会場らしき所にめがけて一直線に小道を進んだ。だんだん道らしき物がなくなり、一軒の家の庭先にやって来てしまった。どうもこの家に入っていく道だったようだ。ちょうど5,6人の住人らしき人々が庭先でチャイ( 紅茶 ) を飲もうとしているところであった。とりあえず彼らに挨拶をすると、決まったように“ようこそ。チャイを飲んで行け”である。

祭りの時間も心配だったが、人の敷地に黙って入り込んで、誘いを断るのもたいそう失礼になる。いつものようにチャイを頂く。チャイの後はメロンの接待。皮付きの小さな瓜のようなメロンであった。どうして食べるのかと思ったら、なんとおばさんは皮のままボリボリと音をさせてかぶりつく。我々も皮のまま食べようとしたのだが、これはちと堅い。やっぱり皮を残してしまった。他の住人はこの姿に大笑い。皮のまま食べるのはこのおばさんだけだった。

“夕食もここで食べて行け”と言われたが、あまり長居は禁物なので、祭り会場に向かう。この家のお兄さんが我々を祭り会場まで案内してくれた。最初はステージの遠くで見物していたが、日本人だと解ると最前列の席に招待された。市長らしき人や市のお偉いさん達と握手する。民族衣装を着て踊りを踊っている子供たちが、娘のmilima(美里麻)を見るとこちらにやってきた。milimaが引っ張られるようにその子供たちと踊らされる。なかなかの人気者になって、ひっぱりだこである。主催者もあまりの混雑ぶりに、とうとう子供たちに注意をする始末。

《milimaも参加して踊る》

歌手やサズ(トルコのギター)の演奏を堪能して帰途に着いた。帰りもチャイをご馳走になった家のお兄さんがバス停まで送ってくれた。“バスはもうやって来ないよ。うちに泊まったら?”と言ってくれたが、アンカラからのオトブスを8時に予約していたので、ちゃんと乗れて無事にカマンのアパートに帰ることができた。妻も娘もここカマンが二人が住んでいる首都のアンカラより楽しいとたいそう喜んでいた。

9月23日から1ヶ月間、トルコ(イスラム圏)ではラマザンといって、断食月である。太陽の出ている間は食事はおろか、タバコや水も飲めない。

10月初めにエコロジーという雑誌の編集者で、我々と友達になったサブリさんがクルシェヒルからカマンにやってきた。カマンにある彼の親戚の家で夕暮れのイフタルという食事があり、我々(Sさんと私の家族)が招待された。

《イフタルの食事を頂く》

昼間に食事ができない代わりに日が暮れてからたらふく食べる。レンズ豆のスープから始まって、なぜかカイセリマントゥ(カイセリ以外でも客をもてなすのにカイセリマントゥをご馳走するのだ。)、鶏のピラフ、チョバン(羊飼い)サラダ等々。旨いトルコ料理でお腹一杯になって、またまたみんなが大満足した。帰りにトルコのピクルスのような漬物をたくさんもらったのだが、強烈な臭いで部屋の中には置けず、ベランダで眠っている。さすがの私も未だに食べる勇気も出ず、さてどうしたものか? 何とか食してみないことには話のネタにならないし・・・。思い切って挑戦しなくてはと思っている。

さて、10月16日で日本庭園に関わる作業人たちは仕事納めであった。みんなで写真を撮ってくれと言われて、整列したり踊っているところを撮影した。みんなが急に居なくなると、これから日本庭園は私一人、非常に寂しくなりそうだ。また研究所の犬たちが私の唯一の話し相手になるのであろう。

《みんなで踊る》

ところで、研究所の犬ではないが、カマンでの犬事情について述べたいと思う。春にオメールハジュルに自転車で行く際に、チョバン犬(羊の番犬)に噛まれた話は前に書いたが、最近、またまたチョバン犬に襲われた。この秋になってから日本庭園に行く途中、犬を見かけることが多くなっていた。小麦などの刈込が終わって、羊や牛たちを畑で放牧させていることが多くなったためだろう。

《羊を護る犬とロバ》

しかし、こちらに向かって吠えるだけで、かかって来る様子はなかったので安心していたのだが、その日はあの恐ろしいチョバン犬がゆっくりと吠えながらこちらに近づいてきた。

素早く遠ざかろうと自転車を早めると犬も急に走り出し、その犬が私に近づくや否やもう2匹のチョバン犬が吠えながらすごい勢いでこちらに向かってきた。1匹であれば格闘になっても何とかなると思っている私でも、さすがに一度に3匹は逃げるしかない・・・。

全力で自転車を漕ぐが、今にも追いつかれて、オメールハジュルでのように噛まれそうになった。自転車の左右後方から1匹ずつ、もう1匹は畑から追ってくる。このままでは駄目だと思い、右側の犬の方へ急ハンドルを切ってフェイントを入れた。これには犬も一瞬ひるんでスピードを緩める。“これはいけるぞ!!” 追いつかれそうになると、時々フェイントを入れながら、とうとう犬たちの追撃を振り切った。犬を振り切るのがもう少し遅かったら、これから登り坂だったので犬に追いつかれていただろう。今から考えてもぞっとする。

この事件を日本庭園の作業人たちに話すと、“犬は危険だから、カマンで拳銃を購入しろ!”と言われた。と言ってもおもちゃの拳銃であるが・・・。次のパザール(青空市)で玉の出るやつを購入したが、“こんなもんでは犬が怖がらない。玉は出なくてもいいから、火薬を使った大きな音がするのが必要だ。”と言われて、カマン中を探し回ってやっと手に入れた。。子供が遊ぶプラスチック製の小さな拳銃なので、日本庭園に行く時はズボンのポケットにいつも忍ばせている。

そして、先日、早くもそれが役立つことになった。チョバン犬に襲われてから近道の畑沿いの道は通らないでいた。この日はアスファルトのチャウルカン村に行く手前の道を入った。角に家があり、前日に自動車でこの家の前を通る時、犬が私たちの前に 突進して来るのを見ていたので、ちょっと嫌な予感がしていた。

念のため、引き金がすぐ引けるよう拳銃をポケットから取り出し、手に持って素早く通り過ぎようとした。例によって犬の吠える声がするが、いつものごとく庭にいるようだ。ところが、この家の角を曲がると別の2匹の犬が突然自転車に襲い掛かってきた。すぐさまその犬めがけて引き金を引く。パーン!!。ものすごい銃声が・・・。

すぐ近くまで来ていた犬は慌てて逃げて行く。3,4m離れた所にいたもう1匹の犬は何が起こったのか解らず、きょとんとした表情でこちらを見ている。しかし、拳銃の音にびっくりしたのか吠えるのもやめて、私に対して危害を加える様子もなさそうだ。そのまま犬を睨んで通り過ぎた。

拳銃の効果に大満足ではあったが、その見返りに私の耳も暫くはツーンと痺れたままだった。人間の何倍も耳のいい犬にとってはこれはかなりな脅威となったであろう。“犬どもめ、ざまあみろ!人間様の恐ろしさが解ったか・・・ ” しかし、それからは遠回りの安全な道(だと思う)を通っている。音だけの拳銃にも犬に慣れられてしまうかもしれないので・・・。

《この気球でカレホユック遺跡の全景を撮影する》

とにかくここトルコでは犬に遭わないのが一番である。