額田姫王を探して、飛鳥をウロウロ −3日目−
1月 7日(晴れ (^O^))
今朝は昨日までとは違って、晴れ、昨日までの寒さはなし。
延ばされ続けた、粟原寺(おうはらでら)へ、
熟年期の額田姫王(ぬかたのきみ)を求めて。
初日と同じコースで、車を進め、近くに車を止められる所があれば、
そこに止めさせてもらい、少し遠くても、歩いて行こうと
決意していました。
だけれど探しても、昔からの狭い村道、止めれそうな広い場所は
見つかりませんでした。
ナビの誘導を諦め、地図画面を頼りに、古い村落の狭い上り道を、
その道に何箇所か取り付けられていた、粟原寺 誘導矢印➜を頼りに、
愛車LIFEで、かき分け、かき分け進んで行きました。
農具などを納めておられる倉の角を曲がった所を、登っていきましたら、
道が途切れ、そこに【 粟原寺 ➜ 】の表示板がありました。
やったー!! やっとたどり着けたぞ!
「待たせてゴメンね、額田姫王さん。」
予測どおり、そこには駐車場などは整備されていなかったのですが、
軽四LIFEで迷惑をかけない程度に、止めれるほどのスペースがありましたので
止めさせていただき、早速、寺跡を散策させて頂きました。
壊れかけた、粟原寺の案内板がありました。
粟原寺の記念石碑の裏側に、昭和4年12月と記されていました。
この場所は、戦前から額田姫王好きの、嗜好家に興味を持たれていたんですね。
車を止めた場所の反対側、此方が正門側だったかもしれません?
お寺建屋の跡。この何処かで、額田姫王は、熟年期をすごしていたんだ!
予想通り、観光客は一切見えず、粟原寺にたどり着くまで、地元の人とも
お会いすることはありませんでした。
額田姫王の晩年については、いろいろな説があるようですが、
この場所を訪れて、想像以上に、寂しい場所と感じてしまいました。
この粟原寺が、終の棲家(ついのすみか)だとすれば、彼女は80歳をこえる長寿という事になり。
この場所で、どのような人と、一緒に過ごされていたのでしょうか? (´;ω;`)
私は少し苦しいのですが。あっ!すいません。
そんな、額田姫王が60歳過ぎの時に、義理の甥の弓削皇子から
歌がやって来ました。
それも、弓削皇子は恋敵の、持統天皇との吉野行幸の際でした。
古(いにしへ)に恋ふる鳥かも弓絃葉(ゆづるは)の
御井(みゐ)の上より鳴き渡りゆく
(意味を推察してみて下さい。)
額田姫王の和(なごみ)こたへ奉る歌一首、倭京より進入(たてまつ)る。
(額田姫王からの返歌。)
古(いにしえ)に 恋ふらむ鳥は霍公鳥(ほととぎす)
けだしや鳴きし我が思へるごと
遠い過去を恋い慕って飛ぶという鳥は、ほととぎすですね。
もしかすると、鳴いたかもしれませんね。
私がこうして昔を偲んでおりますように。
もう一首
額田姫王から歌を返した後、弓削皇子から、何を思ったのか?
行幸先の吉野から、苔むした松の枝が、贈られた来たようです。
吉野より蘿(こけ)生むせる松が枝(え)を折取(をり)て遣(おくり)たまへる時、
額田姫王の奉入(たてまつ)る歌一首
み吉野の玉松が枝ははしきかも
君が御言(みこと)を持ちて通はく
吉野の美しい松の枝は、なんて慕わしく思えるのでしょう。
あなたのお言葉を持って飛鳥の都まで通って来るとは。
恋多き額田姫王の、若き頃を偲ぶ、晩年の思いが伝わってきますね。
そして、そんなつもりではなかった弓削皇子との、意識のすれ違いを。
弓削皇子は、もう色香もなくなった、老婆に、昔はよかったですねと
軽く言ったつもりなのでしょうが、女は何時の世も、「灰になるまで。」
なのですよね。
それで、思いもつかない華やかな、歌が帰ってきたものですから、
「あなたは、苔むした松の枝」と送ったものに、それにも、華やかな歌を
作って帰ってきた。
女の怖さを身にしみて学んだんじゃー無いかな。
高安城跡 散策
去年の夏に探索に来た、高安城跡、見事に、暑さと、蚊の大群に撃退され、
今回は、そのリベンジです。
前回の挑戦は、生駒のケーブルを利用しましたが、麓の駅の近くに、
駐車スペースのないことを学習し、生駒の高速道路を利用し飛鳥側から、
トライすることにしました。
途中でガソリンを補給し用意万端で、高安城跡散策へ。
あれ?。有料道路の入り口に近づいた時、妙な、嫌な掲示板。
「信貴生駒スカイライン、通行止め。」
「10月の集中豪雨の為、一部を除き通行できません。」
うそー!! 途中にある西信貴ケーブル線の終着点 高安山までいけないの?
取り敢えず行ってみようとスカイラインの、入り口までたどり着きました。
入るのを順番で待機していましたら、入り口まで行った車が、ゲートで、
係員と話をして、どんどんUターンして帰っていきました。
中には、係員と言い争いをしている車もありました。
私の車の番になり。
「ケーブルの終点の、高安山までいきたいんですが。」
「墓地までは行けます。」
ゲートの係員さんは、何かさっきの言い争いの余韻で、興奮気味でした。
「ケーブルの終点のそばです。」そう答えると。
「そこまでは行けます。」「800円です。」
800円を払って、ゲートを通してもらえました。
走っていきましたら、途中確かに、大風のせいで倒れたのかなという木が、
何箇所かありました。
ケーブルの終点の駅に着きましたところ、そこは、公共バスのみ入れる所で、
一般車両は通行禁止になっていました。
でも私が今日行きたい「高安城跡」は、その先を歩いて登ってゆく所なのです。
バスの入口で、躊躇していましたら、その手前の空き地に、車を止めて、
墓地の礼拝に、行かれる車が沢山あり、駐車できるスペースが在りましたので、
そこに止めさせて頂きました。
ケーブル駅に向かって右側に高山城跡へ行ける歩道があります。
ゲートボールが在り、人のみで、車両は一切排除していました。
10分ほど歩いてゆきますと、生駒気象観測所にたどり着きます。
その向かいに、高山城跡へ行ける、入り口(と思える)があります。
草と枝を掻き分け掻き分け登ってい行くと、高安山頂上の看板。
帰り道が分からなくなって困っていましたら、
どのグループがつけてくれたのか?、案内の黄色いテープが在り、
黄色いテープを頼りに、出口に辿り着けました。
ホット一安心、戻ってきたケーブル駅から、大阪平野が望めました。
高安山 頂上の看板の側を、見て回ったのですが、素人の私には、
これという物を見つけることは出来ませんでした。
それに、此処を探索するには、この日の服装は、革靴、コートとオーバーコート、
では無理でした。すみません、私は旧跡探索を甘く見ていました。
滑る地肌の坂道、生い茂る小枝。
しっかりしたウォーキングシューズ、身を護るしっかりした服装、
それに、杖も必要でした。
そういえば、すれ違うウオーカーが、私の服装を見て、不思議そうにしていました。
このブログを見て、高安城跡を見たいと思われた方は、是非万全の服装準備を
お忘れなく。
場所; 近鉄西信貴ケーブル「高安山」駅から徒歩約15分
問い合わせ先;不明
石切神社拝観
高安城跡散策の後、信貴生駒スカイラインを利用して、
暗峠から、東大阪市額田地区をへて、外環状線を通り、石切神社拝観。
のつもりが、スカイライン通行止めのため、柏原市周りで、石切神社へ。
物部氏とつながりが深い神社とされています。
この日が、土曜日だったせいでしょうか、拝観者がとても多く、
外環状線の曲がり角から延々と続く大渋滞、駐車場にたどり着くまで、2時間以上かかりました。
大鳥居の威容に圧倒されました。
神社内も、参拝者が多く、人数制限をされていました。
この近隣には、近鉄の「額田駅(ぬかたえき)」や、地名の額田があり、
生駒山を挟んで、奈良県の額田部地区との関連は、やはり古代に、
額田部族の勢力地との関連があるそうです。
この地区には、「額田戎神社(ぬかたえびすじんじゃ)」、
「額田寺(がくでんじ)」があり、呼び方の違い等を探索したかったのですが、
あまりの、渋滞で「また今度やな!」とさせて頂きました。
場所;大阪府東大阪市東石切町1丁目1−1
(平成30年3月21日 校閲)
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