制作開始 令和元年六月十七日
校正加筆 7月27日
補正追記 令和3年2月15日
探索 令和元年5月14日〜17日
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探索 3日目: 名張から彦根へ
壬申の乱の帰趨が決まったと言われている、尾張からの、
二万人の軍と遭遇し、味方に取り込んだ場所、
不破郡家探索。
{岐阜県垂井町(不破郡家 ふわのこうりのみやけ)案内図}
(編集内容再考発生)
6月に入って、歌声喫茶「ピープルズ」で、明幸村の方から、
思いもしない、情報を伝えられました!!!!!
明幸村の歴史を綴った A4サイズ1枚の文献が出てきて、
これを、歌声喫茶「ピープルズ」の、会場で頂きました。
??????
その文献には、弘文天皇(大友皇子)側に就いたと??!!
ハッキリと書かれていたのです。
このブログを、大きく変更しなければーーーー。
6月末までに、完成できるだろうか?
「遅れている言い訳だってーー。バレたかな」
明幸集落のお兄さんから手渡された文献が、自分たちの祖先が
経験した正しい内容ならば、7月2日に不破から進軍を開始し、
近江軍と大海人皇子軍が衝突した、この戦い最大の戦の経過が、
これまで、多くの歴史家が、想定されていた、経過とは大きく
変わってくると、素人の私さえ、想像してしまえます。
そうして、私が以前から、「なぜだろう?不思議だな?」と
思っていたことの、回答になることに気が付きました。
それは、大海人の軍が、7月2日に不破から高島方面、
飛鳥方面、そして近江へ正面からと、3方面に同時に出発
したはずなのに、息長の横川で戦闘が始まったのは、
7月7日となっているのですよね。
ゆっくり行進しても、1日はかからない距離なのです。
でも、手渡された文献が正しいなら、疑問は解消して
しまいます。
その考察内容は、7月7日 息長の横川の項目で展開します。
「まだ何も記載できていません、すみません。」
「ホンマにそんなタイソウなことかいな?」(読者)
注; A4サイズの文献の内容に疑義が出てきましたので、
上記文は、一旦取り消さしてもらいます。あしからず。
{名張〜伊賀駅屋}
伊賀郡(いがのこおり)(三重県上野市)に着き、
(G mapでは、吉野から 52km 11時間余り、推定午後12時)
伊賀駅家(いがのうまや)を焼く。
{伊賀の中山}
伊賀の中山で、
(G mapでは、吉野から 58km 約13時間、推定午前2時)
伊賀国の郡司(こおりのみやつこ)たちが、数百人の
軍兵をひきいて帰服。
これで、一行の守りは固められた。
{ゆめぽりすセンター 公園になっていました。}
「アニキ、真夜中で、良う分からへんけど、
タイマツの数だけでも、凄い数の味方が増えたで。」
「伊賀の国の偉いさんが、
味方に付いてくれはったようやな。
これでもう安心や!」
6月25日 (2日目)
{莿萩野}
夜明け、莿萩野(たらの)(伊賀市佐那具町)に着き、
(G mapでは、吉野から 65km 約14時間余り、
夜明けとして午前5時)
しばらく行軍を中止して食事。
吉野から逃げ出し、食事の休憩を入れても、70km
(舗装直進整備されていない道)皇后を御輿に担ぎ、
女官10名を伴なっての行進、日没後の闇夜(月齢25日)の
行進、重い武器を携帯し、行進速度 約時速4km/h
真夜中の行進、14時間、貴方は、耐えれますか?
「アニキ、やっと飯にありつけたで。
夜も休みなしに行進するなんて。」
「味方が増えても、ほとんど休みなしに、
行進しはったな、よっぽど、
近江からの追手が怖かたんかなあ?」
「女集なんか、もうフラフラ ヘトヘトやで。!」
{莿萩野積植の山口}
積植の山口(つむえのやまぐち)(伊賀市柘植町)に着く頃、
(G mapでは、吉野から総距離 74km
莿萩野から 約9km 約2時間 午前8時)
高市皇子(たけちのみこ)が天皇の一行と落ち合う。
7人の重臣が同行していた。
やっと信頼している、高市皇子と合流できた。
でも、吉野から100km以上離れている、大津京へ決起の
連絡をして、この落ち合い場所、莿萩野まで、
大津京から 約55km 、書簡だけを運ぶ早馬は、
どのくらいの速度で走れたのか?
時速10km/h として、朝6時に出発して、大津京到着は
10時間後の 午後4時。
スワ大変と、準備して出発。
ぎりぎりの到着でしょうね。
高市皇子;654年生まれ、壬申の乱の時 16歳
壬申の乱の時、大海人軍の総大将となり、戦いを指揮した。
父は、大海人皇子。
母は九州宗像の豪族の娘 尼子娘(あまこのいらつめ)
九州王朝説の中に、高市皇子が天武天皇の後に天皇に
即位したという説があります。
「大津京から、オオアマさんのお子さんの
タケチさんが馬に乗って、お供とやって来はったで。」
「まだ若いけど、(後の世では、まだ高校二年生やて)
顔がシュとして、シッカリしてはりそうやで。」
「オオアマさんが、ものすごう喜んだはるな。」
{鈴鹿の関}
伊勢の鈴鹿に着くと。
(G mapでは、吉野から総距離 87km
莿萩野から 約22km 約5時間余り、午前11時)
伊勢の郡で、伊勢国司の守三宅連岩床らが、出迎えた。
500人の軍勢が味方に付き、鈴鹿の山道(鈴鹿の関)を固めた。
背後の守りは固められた。 ┓( ̄∇ ̄;)┏
鈴鹿の関から先が、日本書紀で使われている「東国」となる。
{川曲の坂下〜三重郡家}
川曲の坂下(かわわのさかもと)(鈴鹿市木田町)に着くと、
日が暮れた。
(G mapでは吉野から総距離 107km
莿萩野から 約42km 9時間余り、午後6時頃)
皇后がお疲れになったので、暫く休息。
激しい雷雨になり、衣服を濡らし、寒さに震える。
三重郡家(みえのこりのみやけ)(四日市市采女町)に着くと、
(G mapでは吉野から総距離 109km
莿萩野から 約44km 10時間足らず、午後7時頃)
小屋に火を放ち、冷えきった一行を暖めた。
夜明けまで休憩。
「アニキ、やっと休憩就眠ができますな。」
「女集なんか、いつ倒れても
仕方ないくらいやったからな。」
「出発は、夜明けと同時や言うてはったから、
早よう 寝ときましょ。」
6月26日 (3日目)
{迹大川の辺りで「天照大神」望拝}
朝明郡の迹大川(とおかわ)のほとりで、
(G mapでは莿萩野から 約53km 11時間+休憩、
三重郡家から 8km余り 2時間足らず 午前7時頃)
伊勢神宮の方向に向かい、天照大神を御遥拝。
(皇位の正当性を、強調したかった訳ですね。)
近江朝から、大津皇子が合流。
9人の重臣が同行していた。
大津皇子:663年生まれ、壬申の乱の時 7歳
壬申の乱の時、まだ幼いので、この後、
叔母の鵜野讃良皇女(うののさららひめ)と
桑名郡家で過ごす。
後年、鵜野讃良皇女→持統天皇に嫉まれ、
686年 自宅で自害。 享年24歳。
この辺りの経緯は、「天翔る白日」黒岩重吾や、
「明日香の皇子」内田康夫
漫画「天上の虹」里中美智子に詳しい。ご一読を!
追記 このブログをフォローしていただいた、
sakikonohanaitusakuya さんのブログ
たまゆら夢見し。
我が背子 大津皇子
を出されており、その中に、実に素晴らしい文章で、
描かれています。
私にはとても此処まで、心のキビを文章に出来ません。
是非一読されることを、強くおすすめします。
{朝明郡家〜桑名郡家}
朝明郡家(あさあけのこおり)に着こうとすると、
(G mapでは吉野から総距離 121km、莿萩野から 約56km
三重郡家から 11km余り 3時間足らず 午前8時過ぎ)
「美濃の軍勢3千人を発して、不破の道をふせぐことが、
出来ました。」の報告を、男依(村国男依)が早馬で
駆けつけ知らせた。
ヤッタ!要所を固められた。
高市皇子を不破の関に派遣、軍事を監督さす。
桑名郡家(くわなのこおりみやけ)(桑名市額田)に
お泊まりになる。
(G mapでは吉野から総距離 132km
朝明郡家から 11km余り 3時間足らず 午後0時)
そこに留まって、お進みにならなかった。
(身内の、女性陣の衰退があり、
先に進めなかったんでしょうね。)
ここで少し当時の事柄で、分からないことが、沢山有る
ことに気が付きました。
壬申の乱等の、国同士の揉め事に参戦できる、民族、階層、
立場、その他です。
鎌倉以降なら、答えは簡単、武家、武士、侍、そして
その部下、家来ですよね。
士農工商の身分制度が確立したのは、江戸時代ですよね。
隠駅(現 名張市)に着いて村の中で、
「天皇が東国にお入りになる。
それゆえ、人夫として、従うものは皆出てこい。」
と叫んだ言葉。
この言葉から、壬申の乱の当時、戦に参加できるのは、
身分、職業で、区別していなかったと想像できますよね。
アニキ、マツの猟師二十名を、差別はしていなかったと
想定できますね。
6月27日 (4日目)
{桑名郡家〜〜〜不破の郡家}
桑名郡家に、
不破の関に派遣している、高市皇子から、
「総帥の大海人皇子がおいでにならないでは、
軍の指揮を執るのに、不便ですので、
近い場所においでいただきたい。」の要望あり。
その日のうちに、皇后と草壁、大津、忍壁の幼い皇子を
桑名郡家に残し、不破に向け出発。
この一行に猟師二十名は同行していたと、
想定することとして、話を続けます。
不破の群家(ふわのこうりのみやけ)(岐阜県不破郡垂井町付近)
に着こうとするころ。
尾張国司 守小子部連鉏鉤(かみちいさこべのむらじさいち)が、
2万の軍兵を引き連れて、大海人皇子側に帰順した。
ヤッタ! これでこの戦いの勝利が決まった。
この場所にある「南宮大社」
実は、日本書紀の中に、壬申の乱の後の出来事として、
書かれていることなのですが。
戦いに勝利した後、大海人皇子軍に立ち向かってきた
大友皇子側の敵将は処刑にし、敵方に付いた一般兵は、
無罪放免にして、味方した者の論功行賞を始めて、
戦の勝利に狂喜している、まさにその時。
東国から、2万人の兵を引き連れ、合流してくれた
尾張国司の鉏鉤(さいち)が、山に隠れて自らの命を
断ってしまったのです。
大海人皇子は、
「鉏鉤は軍功有るものだ。
罪がないのになぜ自殺したのであろ、それとも、
何か隠された事情があったのであろうか」
と言われた。
「日本書紀」に取り扱われている、尾張国司の鉏鉤の行動が
不思議すぎますよね。
そこで、アニキ、マツの出番になります。
つまり私の妄想です。
不破関に向かわれる、大海人皇子の一行に従い、
最後尾を進んでいた、猟師二十人衆。
不破郡家(ふわこうりのみやけ)に着こうかというところで、
最後尾の二十人衆に後方から、やって来た、先駆けの
馬に乗った兵士が声をかけてきた。
(千三百年前のことを妄想するのは、とても楽しい。)
(^_^) 筆者(私)
(そんな事はどうでもいいから、早く話を進めろ!)読者
「おい! お前たちの一行は(二百人ぐらいと想像します。)
何処へ行こうとしているんだ?」
「大津の近江の宮に行かれるところだよ。」
「あっそうか、俺らと同じところじゃないか。
ところで、エライさんは誰?」
「天皇家の、大皇弟(ひつぎのみこ)大海人皇子さんや!」
「天皇の弟さんの、東宮(もうけのきみ)
大海人皇子さんかいな、
こらええ所で出会えた。
我らは、天皇さんから、新羅の動きがオカシイから、
近江へ来るように指示され、尾張国から、
二万人で向かっているところだ。」
「それなら、一緒に付いていけばいいわけだ。
本体に戻って、鉏鉤大将に知らしてくるわ。」
「なんかまた、味方が増えそうやでアニキ」
「マツ、早速 本部の、オオアマさんに、
知らしてきてくれ。」
この尾張の軍勢、2万人の合流により、この戦いの
帰趨は決まったとされます。
当時の日本の人口約600万人の時代、現代の人口
1億2千万人で換算すると、
2万人の兵は、✕20倍=40万人となり、
現代の日本の自衛隊 隊員数 約27万人と比較して、
圧倒的な兵力だったと想定できます。
現代の、高校野球甲子園の収容人口、約4万人。
満員の時テレビカメラに映る、外野席 アルプス席、
約2万人の人波の迫力の凄さに圧倒されますよね、
それが、当時の、広い車道の無い細い道を、一列になって
行進してくる光景を想像してみてください。
馬を伴った、その列の長さは、おそらく、数キロに及ぶ、
大行列だったと想像します。
その軍団が、大海人皇子の陣営に合流し、不破関に
溢れたわけです。
野上(のがみ)(関ヶ原町野上)に御到着。
(G mapでは、吉野から総距離 186km
桑名郡家から 41km)
通算 4日間の行軍終了。
大海人皇子は、ここに行宮を設営、壬申の乱終了まで、
留まった。
高市皇子が、和ざみ(わざみ)(関ヶ原一帯の地)から出迎え。
「昨夜、近江の朝廷から、早馬の使いが
通り過ぎようとしたので、捕まえて
問いただしてみましたら、大海人皇子を討つために、
東国の軍を徴発するためでした。」
それを聞かれた、大海人皇子は、
「近江の朝廷では、智略にたけた、群臣が
計略を立てているのに、
自分には戦略を相談する相手がない、
どうしたら?」
高市皇子
「近江の群臣がどんなに沢山いようと、
臣 高市が天皇の命を承って、将軍たちを率いて、
彼らを征討いたします。」と申し上げた。
大海人皇子は
皇子を褒め、手を取り、背をさすって、
「しっかりやれ、油断するではないぞ。」と言われ、
以後の、軍事のこといっさいを皇子にお任せになった。
皇子は、尾張の軍勢を引き連れて、和ざみの軍営に帰った。
2万人の尾張の軍勢を、引き連れて帰ってきた、
高市皇子(16歳、高校2年生)は、誰も逆らえない
権威を身に着け、今後の軍営を取り仕切ってゆき、
大海人軍が、一つに纏まっていったのでしょうね。
「日本書紀」は、ここで視点を変え、近江朝廷側を実に巧みに
報じています。
近江の朝廷では、大海人皇子が、東国にお入りになると聞き、
群臣はみな恐れおののき、京中は大騒ぎになった。
ある者は朝廷を去って、東国に入ろうとし、
(裏切って、大海人皇子側に付こうとした。)
ある者は、山沢に逃げ隠れようとした。
(いつの時代も、怖がって、自分だけ逃げ出すヤツは
居るんですね。)
近江朝は惨憺とした状況ですね、これでは、まともな
精鋭部隊を出せたとは、思えませんね。
「日本書紀」に書かれる文章を、少し省略して、
書いただけです。
まさに、歴史ドラマそのものを、見ている興奮を覚えますよね。
ーーーーーーーー
大海人皇子=キムタク、高市皇子=男前の可愛い少年俳優。
キムタクが、少年俳優の背をさすって、「頼むぞ!!」
あーー! いいなー
ーーーーーーーー
「オイ、マツ、昨日、味方に参加してくれた、
ものすごい数の尾張の軍勢は、もしかしたら、
我々の、敵方になるところだったそうやで。」
「アニキ、ホンマかいな、
あの人数が敵になってたら、ワヤクチャになってるで。
でも何で?」
「高市さんが、オオアマさんが到着しはった、
野上に来はって、尾張の軍勢を引き連れて、
俺らの猟師二十人も一緒に、和ざみの軍営に行く時、
尾張の軍勢の先駆け馬に乗って、来はった、
ヤツに話聞いたんや。」
「ワシもようわからんが、近江の都へ、軍勢を揃えて、
来るように指示したのは、これから戦しようとしてる、
大友皇子側やったそうや。」
「そやけど、大海人皇子さんと戦するためとは、
聞いてなかったそうや。
けど、オオアマさんが吉野を出発されたこと知った、
大友皇子側が急遽、大友皇子側に味方しに、
近江へ来るように早馬で使者を出しはったんやけど、
その使者は、不破の関で、高市皇子さんに
捕まってしまったそうや。」
「尾張の将軍さんも、オオアマさんに、
頭下げてしもうてから、マチゴウテましたとは
部下の手前、言えんわなあ。」
「まあワテラの付いてる、オオアマさんのほうが、
勝てそうやからええし。
ここの和ざみの軍営は、飯もちゃんとくれはるし、
ホンマに良かったわ。」
「食いもんは、尾張の軍勢が、この戦のために、
沢山用意して、運んでくれはったもので、
当分飯には心配せんでもええみたいやで。」
「尾張の軍勢サマサマやな!」
「滋賀の知ってる猟師仲間に、味方が沢山増えて、
オオアマさんが勝つのは間違いないから、
不破関に早く来るように、
連絡の使いを出しとこ。」
6月28日 (5日目)
和ざみ(関ヶ原 不破関の大海人皇子軍の軍営)
大海人皇子は和ざみにお出ましになり、軍隊のよすを御検閲。
6月29日 (6日目)
和ざみ
前日に続き、和ざみにお出ましになり、高市皇子に命じて、
兵士たちに号令させる。
(高市皇子を押し立てようという気持ちが
よく分かりますね。)
7月2日 (9日目)
和ざみ
兵を三方向に分け。
① 琵琶湖の東周りで、高島方面から。
② 鈴鹿周りで、飛鳥から。
③ 不破から、直接近江方面に
出撃を開始。
この時、敵方の近江軍と見分けがつくように、
自軍の兵に、赤い布を衣装の上に付けさせた。
実はこれが、この後の戦いに、大きな意味を持ってきます。
7月7日 (14日目)
息長の横川(おきながのよこがわ)
大海人皇子側と、近江朝側が対峙し戦いになった時、
大海人皇子側の、前もって訓練され隊列を、揃えた
赤い布の兵列が、大きな波になって向かって来る
光景に、近江朝側の兵が、恐れをなしてしまい、
戦意を無くし、総崩れになり逃げ出してしまった
のです。
その空きに、素早く近江軍の中心に入り込み、
近江朝側の、将軍を斬り殺してしまい、
「壬申の乱」最大の戦いが、大海人皇子側の勝利に、
呆気なく決まってしまったのです。
この後の戦いは、大津京陥落までは、まるで流れるように
決着します。
流れるように決着する前に、どうも想定されていないことが、 驚いてください! 又は、そんな馬鹿なと呆れてください。
起こっていたかもしれないのです。
それが、明幸集落の方からもたらされた文献なのです。
その内容と、私の妄想解釈を、{散策 4日目 「明幸集落」}の
探索で紹介します。
解釈はご自由です。
ここで、この壬申の乱の戦いの裏に、何か有ると昔から
言われていることが!!
日本書紀の、この章の最後にサラリと書かれています。
「壬申の乱」から、半年後の11月24日からの記載です。
11月24日
筑紫で
新羅の客人 金押実らを筑紫で饗応した。
12月26日
船1艘を賜った、金押実らは帰途に付いた。
つまり、この新羅人が、大海人皇子を操り、
壬申の乱を画策し、不破の和ざみで、軍を訓練し、
赤い布を付けさしたわけです。
天武天皇は、そのお礼を丁重に行ったということです。
この歴史、ドラマを動かした裏に、新羅(朝鮮人)が
いたなんて。
つまり、朝鮮半島での、唐と新羅の戦いに巻き込まれて
いたなんて。
「チョットがっかり。」 作者(私)
「こら! なにアホなこと言ってるんや!」 読者
「すみません。」 (。>﹏<。)
3日目の夜は、草津市グランドデュークホテルで。
高校時代の、旧友と50年ぶりの会食
本当に楽しかったです。
散策 4日目: 前回(平成31年1月)雪のため挫折断念した、
「明幸集落」の探索を実行
明幸集落の散策記事の前に、私の妄想を沸き立たす資料が、
明幸集落の方から、もたらされました。
最後の文章のコピーは、見づらいので、核心部分だけ、
キーインします。
・・・ 弘文天皇(大友皇子)と天武天皇(673〜684)
との地位争いであった、壬申の乱(672)の際、この地方の
豪族、男依氏(おより)が弘文天皇に味方して、
天武天皇の軍を息長の横川、犬上郡の鳥籠山にむかえて
戦ったが、この時の古戦場が、この学区一帯であったと
伝えられている。
地名にも戦場谷、具足谷、棚山等が残されている。
男鬼も男依氏のなまった形ではなかろうか。・・・
歴史好きな方や、推理小説好きの方は、もう既に、
色々なことを、思い描いておられると思います。
地区の概略位置は、行軍地図で、武奈 明幸集落
男鬼地区は、地図上部の 醒井から下方向に、彦根城から
右方向に線を引いた交差部です。
鳥籠山は地図の左下新幹線が横を通っています。
(詳しい位置は、Googleマップでご確認願います。
残念ながら、戦場谷などの地元地名呼称は記載なしです。)
(👆6月25日記載 👆)
(👇6月26日記載 👇)
と、その他にも色々な妄想を組み立てていたのですが、
日本書紀を読み直てみましたら、
すべての妄想が、崩れさりました!!!
この伝承文章に、記載されています、「男依」は
地元集落名の「男鬼」との関連は不明なのですが、
大海人皇子側の将軍「村田連男依」と推察されることに
気付きました。
日本書紀の中で、村田男依は、近江の軍の敵将を、
息長の横川で斬り、鳥籠山で敵将を討ったと、
記載されていました。
つまり、男依は弘文天皇側に味方をしておらず、むしろ
真逆の立場に居た、天武天皇側の先鋒将軍だった訳です。
以前、歴史小説家の対談記事の中で、
「歴史に関連する地元に伝えられている、言い伝えなどを
小説に用いる時は、よくよく吟味して使わなければ、
史実と違っていて、大恥をかくことが在ります。」
と言っておられたのを、思い出しました。
まさか私がそんな、面白い事態に遭遇するなんて、
楽しい! 古代史探索は止めれない。 (:_;)
明幸集落散策 実施レポート。
前回、雪のため断念した、明幸集落散策、今回は、
必ず辿り着くとの決意を持って、4日目の朝「彦根の宿」を
出発。
地元出身ではない私、皆目この地区を知らない私、
唯一頼れるのはカーナビだけの私。
Yahoo!カーナビの指示でドライブを開始しました。
目的地に「妙幸集落」と入力しましたら、前回断念したときに
訪れた「河内風穴」経由の路を案内しました。
Yahooが案内するのだから、このルートが一番安全で一般的
なのかなと納得して、車を走らせました。
続きの3枚の写真を見てください。
「河内風穴」を通り過ぎ、そのまま細い山道を、ナビを頼りに
進んで行くと、途中で、通行規制の為のゲートが、路の
真ん中に立てられていました。
「えっ、通行止め?」
注意書きも、看板も在りませんでしたので、ナビで指示
されているのだから、何かの間違いかもしれないと勝手に
考え、ゲートを脇に寄せ、進んでゆきました。
路はますます狭くなり、そしてとうとう、路の真ん中に、
上の崖から落ちてきたのか、大きな石が
「コラ! これから先には行ったらあかん!!」と
言っているように、車の前に立ちはだかりました。
路の先を見渡しても、
「コラ! お前はこっちに来るな!」と言っているようでしたので仕方なく、
このルートを諦め、引き返そうとしたのですが、この川沿いの
路に、車をUターンさせてもらえる、場所はなく、仕方なく
細い路を、何度も小川に落ちるのを、心底心配しながら、
切り返しを繰り返し、やっとUターンが出来、先程の
ゲートをもう一度開け、通り過ぎてから、ゲートを元に
戻しておきました。
ヒヤヒヤで「河内風穴」迄引き返しルート再検討。
ナビで確認すると、彦根市鳥居地区から通っている
県道R239号に出て、途中で明幸集落へ、辿っていける
脇道がありそうでしたので、その狭い県道を、北上して
ゆきましたら、山の上の方へ入って行けそうな、林道が
見えてきました。
その入り口には、色々な注意書きの看板が立っていました。
(¯―¯٥)
立て看板の内容は、つまりこの林道に入るのは、
「あくまでも自己責任だぞ!
どうしてもという要件の無い人は、入るな!!」
と言うことなのでしょう。
そう言えば、「河内風穴」から此処まで5分ほど、
行き交った車は、軽四トラック 1台、ほとんど通行の
無い県道でした。
恐怖心と、好奇心に心揺れているときに、その林道の奥から、
ごく普通の小型乗用車が現れて、何のワダカマリもなく
県道に出てゆきました。
(ワダカマリなんて、ある訳無いか?!)
恐怖心を少し残し(コワゴワ)ナビをセットして、
入ってゆきました。
はいって、曲がり角を二個程曲がったところで、1m以上の
長さの望遠レンズが目に入り、その根元のところには、
携帯組み立て椅子に腰掛けて、お祖父さんが、その長い
望遠レンズ付きのカメラを空に向けて、何かが現れるのを
待って居られるようでした。
目が逢いましたので、会釈をすると、
「神戸ナンバーのホンダLIFEが、何をしに、
この先に行こうとしとるんや?」
と言う怪訝な顔をして居られました。
谷や崖を交わすための、急角度の大きな曲がり路が
何箇所もあり、かろうじて対向車と、すれ違える狭さの林道を、
周りの景色を楽しむ、心の余裕もなく、ハンドルを必死で操作。
崖と、上から落ちてきている岩を裂けながら、運転して
いましたら、なにげに、普通の乗用車が、何台か向こうから
私の車を交わして通り過ぎてゆくのです。
少し広い場所で、マップを確認しましたら、明幸集落、
武奈地区へは、この林道の途中で路を折れ、右側に入り込ま
なければならないのですが、そのまま林道を進めば、
名神高速の米原JCTに繋がっていることが分かり、
バイパス替わりに、地元の人が使っておられるんだなと
思えました。
やっとこさ、林道の脇に、明幸集落に通じる脇路を見つけ、
入り込んでゆきました。
林道よりは、随分と道幅の狭い路でした。
進んでゆきましたら、少し開けた眺望の良い場所に出る
ことが出来ました。
その先には傾斜の少ない開けた場所がありました。
そこでは、植林用でしょうか(?)、小さな苗木の丘があり、
そこでご夫婦で、その苗木のお世話をされていました。
ちなみに林道に入ってから出会えた、たった二人の
日本人でした。
進んでゆく狭い路の片側に、車を停めて居られ、ヒヤヒヤ物で
その横を通り過ぎました。
ご主人のほうが、
「何をしに、この先に行こうとしとるんや?」と言う
顔で LIFEを 見て居られました。
狭い路を進んでゆきましたら、ナビ上で、明幸集落の
入り口付近にたどり着き、その先は、車の出入りが極端に
少ないのか、草が生い茂っており、ホンダLIFEでは無理、
ランドクルーザーか、4駆のジープ(言い方が古いか?)
でないと無理。
その入り口に、少し広い場所がありましたので、通る車の
邪魔にならないように、脇に寄せて停め、
その先の下り坂を、歩いて村跡に入って行きました。
路の脇には、きれいな薄紅色の花がいく輪も咲いていました。
この花は何の言う花なのでしょうか?
辛い光景ですが、まさに廃村、壊れた民家が
数軒ありました。
歌声喫茶で出会った、オジさんも通っておられた
小学校の記念碑がありました。
昔の、映画でよく出てきた、村の小学校を
想像してしまいました。
明幸集落を訪れ、雑想
明幸集落を訪れ、歴史好きの私の心が、考えなくても
いいことを、想像想定し始めてしまいました。
明幸集落出身の方には、
「くだらない妄想をするな!」と怒られそうなのですが。
それは、.........
この妄想の前提は、明幸集落が、地区の武奈町、
男鬼町などと手を組み、千三百年前に起こった、
壬申の乱に参加したと、歌声喫茶で教えてもらい、
大海人皇子側か、大友皇子側かどちらについたかを
想定する内、どうやら地元に残っている言い伝えなど
から、負けた大友皇子側についたようだと、いうことに
なり、今回その地を訪れさせてもらい、そこでは
私の心に、大きな声で語りかけてきたのが、この地区の
それからの、千三百年間が見えてしまったと、妄想して
しまったことです。
「何を根拠にそんなこと言うとるんや?」
明幸集落の廃村の状況と、大海人皇子側についた、
隣地区の、息長氏の地元の町並みの賑わい。
大海人皇子が戦いの最初に、たった三十人程で吉野から
逃げ出した時に、最初に味方についてくれた、たのもしい
猟師二十人の甘羅村(奈良県宇陀市大宇陀区)地区の
明るい印象とがあまりに違うと、思ってしまったのです。
「ナンのコッチャ?」
私は、関西の貧しい人間ですので、見栄やプライドより、
お金の価値の大きさ辛さは、身にしみてよく知っていると
思うのですが。
千三百年前、当時の最高権力者から、ご褒美を与えられた、
戦争功労者と、敵方についた戦争犯罪者への、
天と地ほども違う、冷たい辛い対応の差が、
としと伴に薄まること無く、むしろ借金の金利が
ドンドンと膨らむように、今に至っているのでは
ないかと思えたのです。
東国から、京都奈良に通じる幹線道路が幾本も交差している、
息長氏の地区。
伊勢や東国から、飛鳥奈良に通じる路が幾本も通っている、
宇陀地区。
地図を見て不思議に思ったのですが、不破関から、
山沿いに入り、武奈、明幸地区を通り、多賀大社に抜ける路を
切り開くのは、千三百年も掛けなくても、出来そうですよね。
三重県から河内風穴を通って、多賀大社へ抜ける路も
もっと広くキレイに、出来そうですよね。
何故、手が着けられていないのでしょうか?
「壬申の乱」の後、そういう要因が積み重なって、千三百年後に
明幸集落は、廃村になってしまったのでは無いでしょうか?
ここまでで、「壬申の乱」を令和元年に探索の話は一区切り
とさせていただきます。
各地区のコメントを随時、追加補項していく予定です。
今回の探索で、見えてきた事を、
「壬申の乱」の勝ち組と、負け組(仮名)として、
8月に、宇陀地区と、息長氏の地区、明幸集落とを
再度散策したいと思います。
請うご期待!!
宇陀地区のネット資料に、壬申の乱の項目が僅かしか
見当たりません!
一番知りたいのは、立派なものになっているはずの、
猟師二十人の住まいです。
「見つけられるか? 大丈夫だろうか?」
今回のブログのページを作ろうと思った瞬間です。
◎「歌声喫茶って 知ってます。」
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◎ 「難波宮ッテ?」
古代史感のすれ違い
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私もあなた様のような旅をしてみたく憧れています。
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お車の運転だけはどうぞお気をつけくださいますように。
これからも応援させてくださいね。
今回コメント欄が出来ていて早速お礼が言いたく、乱文お許しくださませ。