難波宮って? 古代史のんびり散歩

時間だけは、タップリある定年団塊世代が、ズート気になっていた
古代日本史を素人の感性でゆっくり探訪します。

アナタの御祖先が 壬申の乱に!

2021年02月13日 | 歴史紀行
「貴方の御祖先が壬申の乱に
 参戦された!」

  制作開始 平成31年1月14日
  追筆補正 平成3年 2月10日
  

 話の始まりは、大阪の歌声喫茶「ピープルズ」で、
古代史好きの、私の隣に座られたオジサンから、聞いた驚く
ような言葉からです。
「村の長老から聞いていた話なのですが、
 壬申の乱の時、私の村が、
 イクサに参加したらしいんですよ。」


 この後の、歌声喫茶での、楽しいやり取りは、

「歌声喫茶って 知ってます。」を参照ください。




 音楽好き、歌うの大好き。古代史好き、大化の改新が
大好きの私にとって、
「壬申の乱」は、私の琴線その物、心に響いてしまいました。
 オジサンから聞いた地区、滋賀県彦根市明幸を、
ブログで調べ、
「確かに、明幸村は、壬申の乱の最需要なイクサバ、
 不破の関(岐阜県関ヶ原町)から遠くない!」
「行って見なければ。」

 明幸集落から、不破関までは、Google mapで確認しましたら、
車で40分、徒歩で5時間ちょっとでした。
 冬の正月明けに、現地に行って、軽四 ホンダ LIFE で
走ってみて、その山道の凄さに、街の平坦な道しか知らない、
都会育ちの浅はかさを、思い知らされます。  
    
 雪道に挫折、4月か5月に再挑戦するぞ!!


 オジサンから聞いた、もう一つ気になる言葉。
「山の中の集落で、今は、廃村になっています。」

「廃村ッテ?」

 あまりにも認識度の薄い言葉、「廃村」?
辛うじて私が知っている範囲では、母ちゃん、父さん、
お婆ちゃん、お爺さん、その先祖代々から、受け継ぎ、
暮らしていた家、その地区の村の全ての家が、跡継ぎを
亡くし、その地区(村)に住む人が居なくなって
しまった地域。

 その理由は? 解決方法は? 治安は(大丈夫なの)?
 税金は? 学校は? 家の管理は? お墓は?
 村の神社は? 等々?

 もしかしたら、高齢化が進む、これからの日本が抱えて
いる大きな問題の一つかもしれません。
「廃村」は、私自身 真剣に調べてから、また皆さんと悩みあって
みたいと思います。
 的確な情報を頂きたいと思います。

 先ずは、「壬申の乱」から進みましょう。

 今の時代に、「壬申の乱」は余りに縁の薄いお話。

 ちなみに、私のタブレットはこの「壬申の乱」の漢字変換が
できません。
 壬申の乱に対する、認知度がプログラマー達にとっては
低いからでしょう。

 年輩の方と話をしているとき、
「今度、「壬申の乱」を探りに、滋賀に行ってきます。」
と言うように、会話の中に、「壬申の乱」を入れて
しまいますと、必ず(90%以上の確率で)
「・・?」 イッパクの間が空き。
よくある、ご返答が、
「そう言えば、学生時代に、歴史の時間に習った言葉ですね。
 何の戦でしたかね?」

「天智天皇亡き後に、次の天皇を狙って、
 天智天皇の子供の、大友の皇子と、
 天智天皇の腹違いの弟 大海人皇子が、
 (672年に) 天皇の跡目を争った戦いですよね。」

(この時、年代を入れると印象が良い。)(^-^)

「アッそうか、美人の、えーと、額田王(ぬかたのおおきみ)を、
 取り合った事が原因の情事がらみの、お世継ぎ騒動か!」

 60才以上の年輩の世代が、同じような反応をされることが
多いと思います。

 余談になるのですが、50才より若い世代からの反応で
多かったのは。
「「壬申の乱」てなんですか?」

「えっ、中学と高校の歴史の時間に、
 古代日本史で習っておられるでしょ?」

「日本史は、高校の時は選択科目で、取れなかったんです。
 中学の時は、サラット習っただけですし。」

 もう一つ余談になるのですが、80才より上の先輩方で
多い反応は、歴史好きの方が多く、よく話しに
食いついてもらえる方が、おいでになるのですが、
少しも認識されていない方も、とても多く。
「「壬申の乱」て、何?」
「そのようなことは一切、学校で習ってないよ。!」

 戦前の教育では、天皇家が揉めていたことは、一切教えて
くれなかったようですね。
 でも、日本国の正式な歴史書「日本書紀」に書かれている
ことを、教室では教えないなんて、その判断をした、
文部関係者は、最低の日本人、いやむしろ、日本人を
名乗ってもらいたくない、気持ちになりますね。
 つい過剰な反応をしてしまいました、「すみません。」
    (._.)

「大化の改新から壬申の乱」が、私の定年後の探求心を
掘り起こし、心の拠り所にしていたのですが、
「壬申の乱」はその内の一つの、出来事であり、
重大事件と感じていました。
 実際、数年前に、アルバイトで貯まった小遣いで
「壬申の乱の散策」を企画し、奈良県の吉野から、三重県に
入り、名張市、津市、四日市、桑名、関ヶ原、不破の関、
大津を巡る旅を実行しました。

 大海人皇子が、仕掛けた、戦いの壮大さに深い驚きを感じ、
その後の日本の基礎が、この乱で築かれたことを、実感した
思いでした。

 それが、この度の歌声喫茶「ピープルズ」での、「明幸村」
との出会いで、異なった見方が大きく広がってきました。
そもそも「壬申の乱」の始まりは、大海人皇子であり、
天智天皇亡き後の、近江朝との確執、戦いなのですが、
待ってよ、その戦いに参加した、関連させられて
しまった人達のことには、全く無関心で、少しも理解
していない事に気付かされました。

 でもそれが思いもしなかったところから、私の心に
ノックしてきたのです。

 日本書紀には、大海人皇子の一行が、吉野を出発してから、
最初50人足らずの小学校の、ヒトクラスが校外学習で、
列を作って歩いている光景を、想像してしまいそうな、
その心細い一行に、進んでゆく先々で、応援の兵が、
各地から、合流する形で参入してきたことを、歴史時事として
実に丁寧に書かれています。
 私が、これまで何も気の止めず、サラッと読み飛ばした
ところを、参加していった人々の気持ちになって、
読み直さなければ、本当の歴史は見えてこないと気づき、
目線を変えて推敲することにしました。

 応援の兵が参加してくる状況を、「日本書紀」を元に、
 日を追って記載してみようと思います。

671年12月
 天智天皇 崩御

672年 3月
 唐 進駐軍筆頭 郭務悰に天智天皇崩御を告げる。
 この当時日本は、百済の白村江の戦いで、唐と新羅の連合軍に
 惨敗し、唐からの進駐軍(総勢約2千人)により、
 統治されていたのです。
 昭和20年代の日本と同じ状況ですよね。
 米国進駐軍GHQ マッカーサー元帥を想定して下さい。

 唐軍は当時、九州大宰府に駐屯していたとされています。

672年5月30日
 唐 進駐軍筆頭 郭務悰 帰途に着く(離日)
 面倒なオモシが無くなる。
 唐と新羅の関係が悪くなり、朝鮮の方へ移動したようです。

 (そんなの、壬申の乱に関係ないでしょ?)読者
 (ところが、ここの新羅が、壬申の乱に大きく関わって
  きていたようなんです。
  大海人軍が、不破関に集合した所で、お話します。)
   筆者(私)

672年 5月
 大津京 滞在中の近臣より、近江朝が大海人皇子の命を
 狙っているとの、確かな情報が告げられる。

672年 6月22日
 吉野から東国(不破の関以東)への脱出を決意。
 各地へ、支援要請の連絡を発する。

  携帯も、公衆電話もない時代です。(当たり前か?)
 部下を使者にして、馬で各地に走らせたのでしょうね!
 (何人ぐらい?、どの地区に?)

   6月24日 (1日目)
 近江朝(大津京)に滞在している、信頼している身内の
 高市皇子・大津皇子に、伊勢で落ち合えるように、
 出発するよう(大津京脱出を)極秘指示。
 (ちなみにGoogleマップでは、吉野から大津京までは、
  自動車で 2時間数10分。徒歩で 20時間ぐらい。
  残念ながら、早馬は検索出来ず! 10時間ぐらい
  かなと思うのですが?)

 吉野を出発、東国へ。
 出発時:従者、20人余り、+女官10人余り。
 乗り物が用意できるまでの時間が惜しくて、取り敢えず
 徒歩での出発。
 (よほど、近江朝からの襲来が怖かったと、
  容易に想像できますね。)

 ほどなく、県犬飼連大伴(あがたのいぬかいのむらじおおとも)の
 乗馬に出会い、

 この馬に乗り、皇后は輿に載せる。
 (お供の女官は、これからも徒歩と言うことですね ?)

 途中 津振川(つふりがわ)で(現 津風呂川 吉野町津風呂)
 (Googleマップ=G mapでは、吉野から 7.9km 徒歩での
  推定所要時間 2時間6分)
 (*登坂路で当時のルートは、現在はダム湖の川底に
  なっており、G mapの検索出来たルートとは、
  若干外れた別ルートだったと想像します。)
 吉野宮から遅れてきた、臣官と合流。
 (自分の住んでいる家からの、距離と時間を
  想像してみて下さい。どれだけこれからの、
  東国への移動が、大変か身につまされます。)

 菟田の吾城(うだのあき)で(宇陀市大宇陀区中庄?)
 (G mapでは、吉野から 17Km 約4時間3分)    
  地元の役人から、食事をたてまつられる。
 「食事は大事、手回しがいいな。」
 前触れの使者が先に来て、大海人皇子一行の通過を
 知らされていた。(?)

 甘羅村(かんらのむら)(奈良県大宇陀町の北部)で、
 (G mapでは、吉野から 19km 約4時間32分)
 そこにいた、二十人余りの猟師を一行に従わせる。
 大伴朴本連大国(おおとものえのもとのむらじおおくに)が
 首領。

 来たー、今回の知りたい出来事
 山村からの「壬申の乱」参加の発生!!
 でも、普通に猟師が二十人も同じ場所にいる?
 普通に考えて、前もって日時を首領から知らされており、
 待機していたと考えるのが、無理がないと思いますよね。
 と言うことは、職業に関係なく、大海人皇子軍に
 参加することを、要望していたんだ!!

 この場所は、まだ奈良県ですから、今回最も知りたい
 滋賀県の明幸集落とは、まだ遠すぎるので、
 関連は考えられないでしょうね。

 参加した猟師の目線で想定してみますね。
 大宇陀地区の猟師の首領が、地区の猟師に、
 「戦準備をして、甘羅村に集まれ。」
 「必ずおいしい、ご褒美にありつける!」

 と伝言を近隣の村々に、発した。
 訳がよく分からないけれど、首領の言うことだから、
 逆らうことも出来ず、指示された場所で、
 たむろしていた。

 「誰と誰の戦になるの?」

 「確か、吉野に居たはった、オオアマの何とかさんと
 (大海人皇子)、大津に居たはる、オオトモの何とかさんと
 (大友皇子)で、戦になるんやて!」

 「ヘェー、それで俺らどっちに付くの?」

 「吉野に居たはった、オオアマさんが、
  もうすぐ此処を通らはるんやて、
  そやから、オオアマさんに付くんやろ。」

 (関西弁で、当時の民衆の気持ちを想像しながら喋るのは
  楽しい。)  (´▽`)ノ

 暫くして、大海人皇子の一行が到着した。

 「オオアマさんが来はった、来はった。」

 「えっ、あれ? 五十人足らずしか居てへんで、
  こんなので、近江の軍と戦えるんかいな?
  大丈夫かいな?」
 「それに女連れで、オナゴ衆がえらいしんどそうやで。」

 「・・・、これから増えるんやろ?」
 「ちょっと心配やから、滋賀の知ってる猟師の仲間にも、
  参加するようにって、連絡しとこ。」

 「スマホは、まだ売ってないから、早馬にしなはれや!」
 この妄想で、やっと[明光村]と繋がった!!)
  仮想妄想を出してすみません。

 もう私の企み(たくらみ)は、見抜かれていると
 思うのですが、この二人には、これからも出てきて
 もらいたいので、名前を付けようと思うのですが、
 飛鳥時代の一般的な、名前、呼び名がどのようなもの
 だったのかが、まるで分かりません。
 取り敢えず、「アニキ」「マツ」で行こうと思います。

 途中、要請に応じて美濃王(地元の首領か)
  一行に従う。(人数記載無し)

 菟田群家(うだのこりのみやけ)(宇陀市榛原町萩原)の前で、
 (G mapでは、吉野から 24km 約5時間30分) 
 伊勢の国から米を運んでいた、50頭の馬の一行から、
 米をみな捨てさせ、徒歩の従者をその馬に乗せた。
 無理矢理奪い取ったのかな? 馬の従者はその後も、
 行軍に従ったのかな?

 米1俵は60kg、馬には普通2俵積むと聞いていますので、
 50頭✕2俵=100俵✕60kg=6000kg
 ちなみに、「男の子は、米俵1俵を担げたら、一人前や!」と
 近所のオッチャンに言われてました。
 すごい量の米を捨てたんだ。?!!

 「アニキ、積んでた米俵を下ろして、その馬に皆
  乗りはったで、あの米どうなるんやろ?」

 「スマホがあれば、女房に言うて、
  取りに越させたいぐらいやな、マツ。」

 「それより、偉いさんばっかり、馬に乗らはって、
  俺らは馬無しや。!」

 大野(宇陀郡室生村大野)に着くと、
 (G mapでは、吉野から 31km 7時間)
 6月24日 ⇒ 現新暦 7月24日 日没 19時5分
 日が暮れて、暗いので、村の垣根を壊し、それを灯す。
 ここで日が暮れたということは、吉野離宮を出発して、
 今、午後7時を回ったと想定できますね。

 でも、灯りが欲しいからだけで、人の家の垣根を壊して
 しまうなんて!

 携帯も、テレビも、無い時代、もちろん街灯などは皆無の
 田舎道を想像してください。しかも、月齢24日は15日の
 満月を遠くに過ぎ、真っ暗闇の道を、行進するためには、
 道を照らすタイマツが、どうしても必要だったのでしょう。
 日本書紀に書かれているということは、この垣根を壊すことに
 ヤマシサを感じていないという事です!

 隠駅(なばりのこおり)(名張市)に着き、
 (G mapでは、吉野から 40km 9時間、推定午後9時)
 隠駅家(なばりのうまや)を焼き、村の中に向けて、
  「天皇が東国にお入りになる。
 それゆえ、人夫として従うものはみな出てこい」

 と呼ぶが、一人も来ようとはしなかった。

 この地区には、予めの連絡はしていなかったんだな。
 夜の9時過ぎに大勢でやってきた、大事な馬屋を焼かれて、
 出てきて、俺の味方になれと言われても、
 ノコノコ出て行く、者なんて居ないよな!

 伊賀郡(いがのこおり)(三重県上野市)に着き、
 (G mapでは、吉野から 52km 11時間余り、推定午後12時)
 伊賀駅家(いがのうまや)を焼く。

 伊賀の中山で、
 (G mapでは、吉野から 58km 約13時間、推定午前2時)
 伊賀国の郡司(こおりのみやつこ)が、数百人の軍兵を
 ひきいて帰服。
 これで、一行の守りは固められた。

 「アニキ、真夜中で、良う分からへんけど、
  タイマツの数だけでも、凄い数の味方が増えたで。」

 「伊賀の国の、偉いさんが、味方に付いて
  くれはったようやな。
  これでもう安心や!」

    6月25日 (2日目)

 夜明け、莿萩野(たらの)(伊賀市佐那具町)に着き、
 (G mapでは、吉野から 65km 約14時間余り、
  夜明けとして午前5時)
 しばらく行軍を中止して食事。

 吉野から逃げ出し、食事の休憩を入れても、70km
 (舗装直進整備されていない道)皇后を御輿に担ぎ、
 女官10名を伴なっての行進、
 日没後の闇夜(月齢25日)の行進、重い武器を携帯し、
 行進速度 約 4km/h
 真夜中の行進、14時間、貴方は、耐えれますか?

 「アニキ、やっと飯にありつけたで。
  夜も休みなしに行進するなんて。」

 「味方が増えても、ほとんど休みなしに、行進しはったな、
   よっぽど、近江からの追手が怖かたんかなあ?」

 「女集なんか、もうフラフラ ヘトヘトやで。!」

 積植の山口(つむえのやまぐち)(伊賀市柘植町)に着く頃、
 (G mapでは、吉野から総距離 74km
  莿萩野から 約9km 約2時間 午前8時)
 高市皇子(たけちのみこ)が天皇の一行に落ち合う。
 7人の重臣が同行していた。
 やっと信頼している、高市皇子と合流できた。
 でも、吉野から100km以上離れている、大津京へ
 決起の連絡をして、この落ち合い場所、莿萩野まで、
 大津京から 約55km 書簡だけを運ぶ早馬は、
 どのくらいの速度で走れたのか?
 時速10km/h として、朝6時に出発して、大津京到着は
 10時間後 午後4時。
 スワ大変と、準備して出発、ぎりぎりの到着でしょうね。

 高市皇子;654年生まれ、壬申の乱の時 16歳
  壬申の乱の時、大海人軍の総大将となり、
  戦いを指揮した。
  父は、大海人皇子。
  母は、九州宗像の豪族の娘 尼子娘(あまこのいらつめ)
  九州王朝説の中に、高市皇子が、天武天皇の後に
  持統天皇ではなく、天皇に即位したという説があります。

 「大津京から、オオアマさんのお子さんの
  タケチさんが馬に乗って、お供とやって来はったで。」

 「まだ若いけど、(後の世では、まだ高校二年生やて)
  顔がシュとして、シッカリしてはりそうやで。」

 「オオアマさんが、ものすごう喜んだはるな。」

 伊勢の鈴鹿に着くと。
 (G mapでは、吉野から総距離 87km
  莿萩野から 約22km 約5時間余り、午前11時)
 伊勢の郡で、伊勢国司の守三宅連岩床らが、出迎えた。
 500人の軍勢が味方に付き、鈴鹿の山道(鈴鹿の関)を
 固めた。
 背後の守りは固められた。 ┓( ̄∇ ̄;)┏
 鈴鹿の関から先が、日本書紀で使われている「東国」
 呼ばれていました。

 川曲の坂下(かわわのさかもと)(鈴鹿市木田町)に着くと、
  日が暮れた。

 (G mapでは吉野から総距離 107km
  莿萩野から 約42km 9時間余り、午後6時頃)
 皇后がお疲れになったので、暫く休息。
 激しい雷雨になり、衣服を濡らし、寒さに震える。

 三重郡家(みえのこりのみやけ)(四日市市采女町)に着くと、
 (G mapでは吉野から総距離 109km
  莿萩野から 約44km 10時間足らず、午後7時頃)
 小屋に火を放ち、冷えきった一行を暖めた。
 夜明けまで休憩。

 「アニキ、やっと休憩就眠ができますな。」

 「女集なんか、いつ倒れても仕方ないくらい
  やったからな。」

 「出発は、夜明けと同時や言うてはったから、
  早よう 寝ときましょ。」

  6月26日 (3日目)

 朝明郡の迹大川(とおかわ)のほとりで、
 (G mapでは莿萩野から 約53km 11時間+休憩、
  三重郡家から 8km余り 2時間足らず 午前7時頃)
  伊勢神宮の方向に向かい、天照大神を御遥拝。

 (皇位の正当性を、強調したかった訳ですね。)

 近江朝から、大津皇子が合流。
 9人の重臣が同行していた。

 大津皇子:663年生まれ、壬申の乱の時 7歳
    壬申の乱の時、まだ幼いので、この後、
    叔母の鵜野讃良皇女(うののさららひめ)と
    桑名郡家で過ごす。
    後年、鵜野讃良皇女→持統天皇に嫉まれ、
    686年自宅で自害。享年24歳。

 この辺りの経緯は、「天翔る白日」黒岩重吾や、
 「明日香の皇子」内田康夫
 漫画「天上の虹」里中美智子に詳しい。ご一読を!

 朝明郡家(あさあけのこおり)に着こうとすると、
 (G mapでは吉野から総距離 121km、莿萩野から 約56km
  三重郡家から 11km余り 3時間足らず 午前8時過ぎ) 
 「美濃の軍勢3千人を発して、不破の道をふせぐことが、
  出来ました。」の報告を、男依(村国男依)が早馬で
 駆けつけ知らせた。

 ヤッタ!要所を固められた。

 高市皇子を不破の関に派遣、軍事を監督さす。

 桑名郡家(くわなのこおりみやけ)(桑名市額田)に
  お泊まりになる。

 (G mapでは吉野から総距離 132km
  朝明郡家から 11km余り 3時間足らず 午後0時)
 そこに留まって、お進みにならなかった。

  ここで少し想定が難しい事が起こっていることに
  気が付きました。
 皆さんはもうお気づきですか?
 そうです、楽しく使ってきた、アニキ、マツの居る、
 猟師 二十名
です。
 この後どこで、楽しませてくれるかという事です。
 高市皇子が合流し、不破関を封鎖できるまでは、一行の
 人数の少ないときに参加してくれた、猟師二十人は
 間違いなく、貴重な仲間として、大海人皇子の軍に同行
 していたと、容易に想像できるのですが、この後は?

 ① 高市皇子に従って、不破関に向かった。
 ② 大海人皇子に従いそのまま、桑名郡家に同行し
  一行の警護を行った。
 ③ この後の、高市皇子の要請により不破関に向かわれる
  大海人皇子一向に同行した。

 この他の可能性ですが、鈴鹿の関を地元の伊勢の国司が
 堅めた時、それに加わった、かもしれないと言うこと
 ですが、地元の兵でない猟師は、使いづらいので、
 外されたと想像するのですが。

 ここで少し当時の事柄で、分からないことが、沢山有る
ことに気が付きました。
 壬申の乱等の、国同士の揉め事に参戦できる、民族、階層、
立場、その他です。
 鎌倉以降なら、答えは簡単、武家、武士、侍、そして
その部下、家来ですよね。
 士農工商の身分制度が確立したのは、江戸時代ですよね。
隠駅(現 名張市)に着いて村の中で、
「天皇が東国にお入りになる。それゆえ、
 人夫として、従うものは皆出てこい。」と叫んだ言葉、
この言葉から、壬申の乱の当時、戦に参加できるのは、身分、
職業で、区別していなかったと想像できますよね。

 アニキ、マツの猟師二十名を、差別はしていなかったと
想定できるのです。



  雑音;
   今日は(3月20日)近くの小学校の卒業式だったらしく、
   このブログを書いている、イオンモールの食堂に、
   卒業式帰りの、卒業生が、沢山来て親と友達と食事を
   始めました。
   そこで驚きです、振り袖 はかま着の女の子が大勢います。
   今はこれが流行なんだ!!
   時の流れとともに、人は変わっていくんだ。
  雑音終了

 

  6月27日 (4日目)

 桑名郡家に、
 不破の関に派遣している、高市皇子から、
「総帥の大海人皇子がおいでにならないでは、軍の指揮を
 執るのに、不便ですので、近い場所においでいただきたい。」
の要望あり。
 その日のうちに、皇后と草壁、大津、忍壁の幼い皇子を
桑名郡家に残し、不破に向け出発。

 この一行に猟師二十名は同行していたと、
 想定することとして、話を続けます。

 不破の群家(ふわのこうりのみやけ)
(岐阜県不破郡垂井町付近)に着こうとするころ。

尾張国司 守小子部連鉏鉤(かみちいさこべのむらじさいち)が、
2万の軍兵を引き連れて天皇に帰順した。

 ヤッタ! これでこの戦いの勝利が決まった。

 実は、日本書紀に「壬申の乱」の、その後の出来事として、
書かれていることなのですが。
 戦いに勝利した後、大海人皇子軍に立ち向かってきた
大友皇子側の敵将は、処刑にし、敵方に付いた一般兵は、
無罪放免にして、味方した者の論功行賞を始めて、
戦の勝利に狂喜している時。

 尾張国司の鉏鉤(さいち)が、山に隠れて自らの命を
断ってしまったのです。

 大海人皇子は、
「鉏鉤は軍功有るものだ。罪がないのになぜ
 自殺したのであろ、
 それとも、何か隠された事情があったのであろうか」
と言われた。

 「日本書紀」に取り扱われている、尾張国司の鉏鉤の行動が
不思議すぎますよね。
 そこで、アニキ、マツの出番になります。
 つまり私の妄想です。

 不破関に向かわれる、大海人皇子の一行に従い、
最後尾を進んでいた、猟師二十人衆。
 不破郡家(ふわこうりのみやけ)に着こうかと
いうところで、その二十人衆に後方から、やって来た、
先駆けの馬に乗った兵士が、声をかけてきた。

 (千三百年前のことを妄想するのは、とても楽しい。)
  筆者(私)

 (そんな事はどうでもいいから、早く話を進めろ!)
  読者(皆さま)

 「おい! お前たちの一行は(二百人ぐらいと想像します。)
 何処へ行こうとしているんだ?」

 「大津の近江の宮に行かれるところだよ。」

 「あっそうか、俺らと同じところじゃないか。
  ところで、エライさんは誰?」

 「天皇家の、大皇弟(ひつぎのみこ)大海人皇子さんや!」
  

 「天皇の弟さんの、東宮(もうけのきみ)
  大海人皇子さんかいな、
  こらええ所で出会えた。
  我らは、天皇さんから、新羅の動きがオカシイから、
  近江へ来るように指示され、
  尾張国から、二万人で向かっているところだ。」
 「それなら、一緒に付いていけばいいわけだ。
  本体に戻って、鉏鉤大将に知らしてくるわ。」

 「なんかまた、味方が増えそうやでアニキ」
 「マツ、早速 本部の、オオアマさんに、
  知らしてきてくれ。」

 この尾張の軍勢、2万人の合流により、この戦いの
帰趨は決まったとされます。
 当時の日本の人口約600万人の時代、現代の人口
1億2千万人で換算すると、
2万人の兵は、✕20倍=40万人となり、現代の日本の
自衛隊数 約27万人に、比較して、圧倒的な兵力だったと
想定できます。
 現代の、高校野球甲子園の収容人口、約4万人。
満員の時テレビカメラに映る、外野席 アルプス席の人波の
凄さ、それが、広い車道の無い道を、一列になって
行進してくる光景を想像してみてください。
 馬を伴った、その列の長さは、おそらく、数キロに及ぶ、
大行列だったと想像します。
その軍団が、大海人皇子の陣営、不破関にアフレたわけです。

野上(のがみ)(関ヶ原町野上)に
 御到着。

(G mapでは、吉野から総距離 186km
  桑名郡家から 41km)
 4日間の行軍終了。
 大海人皇子は、ここに行宮を設営、壬申の乱終了まで、
 留まった。

 高市皇子が、和ざみ(わざみ)(関ヶ原一帯の地)から
出迎え。
「昨夜、近江の朝廷から、早馬の使いが
 通り過ぎようとしたので、
 捕まえて問いただしてみましたら、
 大海人皇子を討つために、
 東国の軍を、徴発するためでした。」
 それを聞かれた、大海人皇子は、
「近江の朝廷では、智略にたけた、群臣が
 計略を立てているのに、自分には戦略を
 相談する相手がない、どうしたら?」
 高市皇子
「近江の群臣がどんなに沢山いようと、
 臣 高市が天皇の命を承って、
 将軍たちを率いて、彼らを征討いたします。」
と申し上げた。
 大海人皇子は皇子を褒め、手を取り、背をさすって、
「しっかりやれ、油断するではないぞ。」と言われ、
 軍事のこといっさいを、皇子にお任せになった。
 皇子は、尾張の軍勢を引き連れて、和ざみの軍営に帰った。

 2万人の尾張の軍勢を、引き連れて、不破関に帰った、
高市皇子(16歳、高校2年生)は、誰も逆らえない権威を
身に着け、今後の軍営を取り仕切ってゆき、
大海人軍が、一つに纏まっていったのでしょうね。

 「日本書紀」は、ここで視点を変え、近江朝廷側を実に
巧みに報じています。

 近江の朝廷では、大海人皇子が、東国にお入りになると
聞き、群臣はみな恐れおののき、京中は大騒ぎになった。
ある者は朝廷を去って、東国に入ろうとし、
(裏切って、大海人皇子側に付こうとした。)
ある者は、山沢に逃げ隠れようとした。
(いつの時代も、怖がって、自分だけ逃げ出すヤツは
 居るんですよね。)

 近江朝は惨憺とした状況ですね、これでは、まともな
精鋭部隊を出せたとは、思えませんね。

  「日本書紀」に書かれる文章を、少し省略して、
 書いただけです。
 まさに、歴史ドラマを見ている興奮を覚えますよね。

 <歴史ドラマの光景>
  大海人皇子=キムタク、
  高市皇子=男前の可愛い少年俳優。

  キムタクが、少年俳優の背をさすって、「頼むぞ!!」

  あーー! いいなー

「オイ、マツ、昨日、味方に参加してくれた、
 ものすごい数の尾張の軍勢は、もしかしたら、
 我々の、敵方になるところだったそうやで。」

「アニキ、ホンマかいな、あの人数が敵になってたら、
 ワヤクチャになってるで。
 でも何で?」

「高市さんが、オオアマさんが到着しはった、
 野上に来はって、尾張の軍勢を引き連れて、
 俺らの猟師二十人も一緒に、和ざみの軍営に行く時、
 尾張の軍勢の先駆け馬に乗って、来はった、
 ヤツに話聞いたんや。」

「ワシもようわからんが、近江の都へ、軍勢を揃えて、
 来るように指示したのは、これから戦しようとしてる、
 大友皇子側から、やったそうや。」
「そやけど、大海人皇子さんと戦するためとは、
 聞いてなかったそうや。
 けど、オオアマさんが吉野を出発されたこと知った、
 大友皇子側が急遽、大友皇子側に味方しに、近江へ来るように
 早馬で使者を出しはったんやけど、その早馬が不破の関で、
 高市皇子さんに捕まってしまったそうや。」

「尾張の将軍さんも、オオアマさんに、
 頭下げてしもうてから、マチゴウテましたとは
 部下の手前、言えんわなあ。」

「まあ今、ワテラが付いてる、オオアマさんのほうが、
 勝てそうやからええし。
 ここの和ざみの軍営は、飯もちゃんとくれはるし、
 良かったわ。」

「食いもんは、尾張の軍勢が、この戦のために、
 沢山用意して、運んでくれはったもんで、
 当分飯には心配せんでもええみたいやで。」

「尾張の軍勢サマサマやな!」

「滋賀の知ってる猟師仲間には、
 味方が沢山増えて、オオアマさんが勝つのは
 間違いないから、不破関に早く来るように、
 連絡の使いを出しとこ。」



 雑音; 4月3日 このブログを書いている、
  イオンモール食堂で、口の達者な私の女房が、
  膝を悪くしたのと、アルバイトが忙しかったので、
  しばらく行けてなかった、歌声喫茶「ピープルズ」の
  円広志 似のオニイサンから、お電話をいただく。

 「電話ありがとうございます。明日(木曜日)は
  行けますので、楽しみにしています。」

 「あっ、それは良かった、実は明日、歌の後、
  花見に行きますので、お楽しみに。!」

 「お花見ですか、それは楽しみです。」

 (お花見か、それは楽しみ。何十年ぶりの
   お花見だろうかな?
   「ピープルズ」の近くの靭公園かな?)

  雑音終了。



 6月28日 (5日目)
和ざみ(関ヶ原 不破関の大海人皇子軍の軍営)

 大海人皇子は和ざみにお出ましになり、軍隊のよすを
御検閲。

 6月29日 (6日目)
和ざみ

 前日に続き、和ざみにお出ましになり、高市皇子に命じて、
兵士たちに号令させる。

 (高市皇子を押し立てようという気持ちが
  よく分かりますね。)



  雑音; 4月4日 歌声喫茶「ピープルズ」に
  1ヶ月ぶりに「ピープル」に来れました。
  来られた皆さんから、久しぶりと声を掛けていただき、
 「やー、すみません、女房がね。」
「都合が悪いことは、女房がねて、言う人が多いな。」
 円広志 似さん。
 その時、「待ってました、やっとこれが渡せる。」
 と明幸集落出身のおじさんから、三枚ほど入った、
 ファイルをいただきました。
 それがこれです。




 「えっ??」

 「今作って貰っておられる、ブログの参考に
  なればと思い、コピーしてきました。
  明幸集落の、昔の地図が参考になればと思い、
  持ってきました。
  先月来られなかったから、1ヶ月カバンの中でした。
  その中には、いわれの有る地名で、戦場谷や狸山など
  面白いものがありますよ。」
 「あー、やっと渡せてよかったー。」

 「あっ、有難うございます。」
 取り合えずお礼を申し上げまし。
 その後に行われた、歌声喫茶「ピープルズ」のお花見の後、
 家へファイルを持ち帰り、家で中身を確認して、????
 来週「ピープルズ」に行って、聞かなければ
 いけないことが、沢山出来てしまいました。

  雑音終了。



 7月2日 (9日目)
和ざみ

 大海人軍は、兵を三方向に分け。
 ① 琵琶湖の東周りで、高島方面から。
 ② 鈴鹿周りで、飛鳥から。
 ③ 不破から、直接近江方面に。
 出撃を開始。

 この時、近江方と見分けがつくように、自軍の兵に、
赤い布を衣装の上に付けさせたのです。
 実はこれが、この後の戦いに、大きな意味を持ってきます。

 7月7日 (14日目)
息長の横川(おきながのよこがわ)

 大海人皇子側と、近江朝側が対峙し戦いになった時、
前もって訓練され、隊列を揃えた赤い布の兵列が、
大きな波になって向かって来る光景に、近江朝側の兵が、
恐れをなしてしまい、戦意を無くし、総崩れになり
逃げ出してしまったのです。
 近江側の、隊列の乱れにつけ込み、素早く、近江軍の
中心に入り込み、将軍を斬り殺してしまい、壬申の乱
最大の戦いが、大海人皇子側の勝利に、呆気なく決まって
しまったのです。

 この後の戦いは、大津京陥落までは、流れるように
決着します。

 ここで、この壬申の乱の戦いの裏に、何か有ると昔から
言われていることが!!
 日本書紀のこの章の最後にサラリと書かれています。
 半年後の11月24日からの記載です。

 11月24日
 筑紫で
 新羅の客人 金押実らを筑紫で饗応した。

 12月26日
 船1艘を賜った、金押実らは帰途に付いた。

 つまり、この新羅人が、大海人皇子を操り、壬申の乱を
画策し、不破の和ざみで、軍を訓練し、赤い布を
付けさしたわけです。
 そのお礼を丁重に行ったということです。

 この歴史、ドラマを動かした裏に、新羅(朝鮮人)が
いたなんて。
つまり、朝鮮半島での、唐と新羅の戦いに巻き込まれて
いたなんて。

 「チョットがっかり。」 作者(私)
 「こら! なにアホなこと言ってるんや!」 読者
 「すみません。」 (。>﹏<。)

 この後、明幸集落と、アニキ、マツのコンビのことは、
明日(4月11日)「ピープルズ」での情報内容により
変わってきます。
 乞うご期待!!!

 「歌声喫茶って 知ってます。」
 楽しいですよ、ぜひ一度参加ください。



 雑音; 4月11日 「ピープルズ」参加。
  もしや、と少し心配していたことが。
  そうです、明幸集落の情報提供者さんが、お休みでした。

     4月18日 「ピープルズ」参加。
  やっと、明幸集落のムラさんに会えて、頂いた資料の
  詳しいお話を、聞くことが出来ました。

  古い土地名の(戦場谷、狸山等)云われは、やはり
  詳しく伝わっていなく。良く分からないとの事でした。
  只、京(奈良、京都等)と東国との通過点で、多くの
  武将が、山岳の険しい道を通過していったことが、
  想像できますね。
  そしてその険しい道の案内を、地元の猟師、妙幸集落の
  人たちが、行っていた訳ですよね。



 ここで、このブログの項は、私が、5月に「壬申の乱」
探索パート3を、実行の後、再開したいと思います。
 5月の探索では、20人の猟師仲間が現れた、
奈良県甘羅村(宇陀市大宇陀区口今井?)の散策。
 妙幸集落の再探索を是非強行したいと思います。
乞うご期待!!

 それまでは少し、「歌声喫茶 知ってます?」を継ぎ足したいと思っています。




 今回のブログのページを作ろうと思った瞬間です。
◎「歌声喫茶って 知ってます。」



◎ 古代史 のんびり散歩 
   
スタートページ です。
    (新作順表示)


◎ 目次ページ
   
(創作順表示)

◎ 「難波宮ッテ?」
  古代史感のすれ違い

   
メイン ブログです。



 すみません。私は、理系出身で物を知らないド素人の定年組みです。記載内容に、非常識な内容、不快な表現等があるかと思いますが、何卒ご容赦いただきますようお願い申し上げます。ご指摘頂けましたなら、早急に訂正変更いたしますので、ご指摘、ご指導お願いします。 記載内容に多少の大袈裟や、特に会話記載に省略や脚色を加えております。老人の戯言と、ご容赦下さいね。









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