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四代目・佐野孫右衛門

2017年01月18日 | 釧路

 
 釧路の町の開祖



 江戸後期以来の場所請負人で、特に四代目・佐野孫右衛門(さの・まごえもん)は、釧路地方の農業や漁業開拓に広く足跡を残しました。

 硫黄山の開発にも着手し、硫黄運搬のために道路を開削したり舟運を整備するなど、釧路地方のインフラ整備を進めました。

 米町の名前の由来になるなど、孫右衛門は“釧路の町の開祖”として名をとどめています。



 越後国から松前へ



 佐野孫右衛門は代々、孫右衛門を名乗り、「米屋」と称しました。

 初代は、越後国三島都寺泊生まれ。松前に渡り、石狩一三場所を、後にシラヌカ場所とクスリ場所を請け負いました。

 四代目孫右衛門は1856(安政3)年、17歳で家業を継ぎ、箱館奉行が提唱する樺太の漁場開発に応じ、直捌(じきさばき)場所差配人並になり、私費で樺太東海岸に漁場を開きました。

 しかし、越年は到底できず、返上を申し出ました。

 箱館奉行から懇願されてなおも経営を継続しましたが、ついに断念。投じた徴用は1万8千両(約1億8000万円)の巨額に上りました。


 
 釧路の暮らしの向上



 明治維新を迎え、釧路、白糠が佐賀藩の支配になると、孫右衛門は率先して戸籍を移して釧路の住民になりました。

 そして、秋田、青森地方や函館近郊から釧路や昆布森などに174戸400人余りを移住させ、家屋や漁船などを与えました。

 そして移民が安心できるよう医院を開き、函館から僧侶を呼び、布教に務めるなどしました。

 1871(明治4)年には、私財2万円(現在の約4億円)を投じて、釧路に延長730m余、幅7.3mの道路を開設。

 曲がりくねった人道のあちこちに、アイヌ小屋が点在するにすぎなかった釧路は、この道路の完成によって初めて新開の市街地らしい体裁ができました。

 しかし、昆布やニシンなどの大幅な不振や、場所請負制度そのものが崩壊期にきていたこともあり、佐野氏は事業を放棄して函館に退かなければならなくなりました。

 二百戸の移民やアイヌの人たちは、「3年間無給で働いて、佐野家の立て直しを図るから留まってくれ」と申し出たといいます。

 孫右衛門の一行が釧路川から、住み慣れた釧路に別れを告げようとした時、人々は小舟を出してその出発を引き留めようとしました。

 この人々を前に、孫右衛門は別離と敗北の悲しみを堪えて彼らをなだめ、酒を振舞って見送りに応えました。



「米町」の由来



 こうして佐野家の手を離れた釧路は、佐賀藩の直営に移りました。

 しかし、もともと佐賀藩は本道漁業の経験もなく、アイヌとの意思疎通も欠いていたため、住民の生活は窮乏に陥りました。

 開拓使は1872年、函館に移り住んでいた孫右衛門を起用して、ふたたび釧路・白糠の漁場請負を命じました。

 これを聞いた移住民やアイヌの人たちは非常に喜び、祝宴をはり、仕事を放り出して乱舞すること数日に及んだといいます。

 そして、孫右衛門の屋号「米屋」にちなんでこの地域を「米町」と呼び、親しみました。地名は今も残っており、佐野碑園内には顕彰碑が建っています。



【記事引用】「開拓の群像」「開拓の神々 / 北海道神宮」「弟子屈町ホームページ


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