「BIRTH」に賭けた復活
1988年9月12日の東京ドーム公演を終えた尾崎豊は、所属事務所に辞表を提出した。
尾崎は、事務所が設立したレコード会社に所属していたため、契約が切れるまでの約1年間、音楽活動を停止せざるを得なくなった。
ちょうどその頃、月刊カドカワの編集長になっていた見城徹氏は、編集者として堕落した自分に危機感を抱いていた。
ジムでの再会
1985年、新宿の街を歩いていた見城氏は、耳に飛び込んできた『シェリー』に「切なさの溜め方が尋常じゃない」と衝撃を受けた。
自分を感動させてくれた人と仕事をしたいという信念を持っていた彼は、尾崎とアポイントをとり、一席を設ける。
アルバムを聴き込み、コンサートにも足を運んだ上で、自分なりの感想を熱く尾崎に洗いざらい話した見城氏。
それを聞いた尾崎は、所属事務所に届いていた7社もの仕事依頼を断り、見城氏と仕事をすることを決める。
そして、1985年10月に尾崎にとって初めての著書「誰かのクラクション」を出版した。
尾崎の渡米後は音信不通になっていたが、ある日、新宿のヒルトンホテルのジムで運命的な再会を果たす。見城氏が走っていたランニングマシンのすぐ横で、尾崎が走っていたのである。
しかし、彼はその頃の面影もないほどに落魄しており、最初は横で走っていた男が尾崎豊だと気づかなかったという。
尾崎は声をかけた見城氏と約1時間、ジムの床に座って話し続けた。
僕は復活したい
「見城さん、どうしても僕は復活したい」と呟く尾崎。
「僕は何もかも失くした。所属のレコード会社も、事務所も金もない。でもどうしても、もう一度ステージに立ちたい。アルバムを出したい」
彼は、うわ言のようにそう訴え続けたという。
尾崎のその言葉を受けた見城氏は、“尾崎豊の復活に、落ちぶれてしまった自分の編集者としての復活を賭けること”を決意する。
その後、社内の猛反対を押し切り、月刊カドカワで巻頭70ページぶち抜きの尾崎特集を組み、人や金を集めて尾崎を社長に据えた個人事務所「アイソトープ」の設立にも尽力した。
クビ覚悟で編集者としての範疇を超えて尾崎をバックアップし、毎日のように一緒にいた。まさに、共依存的な状態だったという。
チャート1位
1990年11月15日、尾崎豊の再起を賭けた2年ぶり5枚目のアルバム「誕生」がリリースされた。
尾崎も見城氏も、「1位でなければ意味がない」と思っていた。業界にいると、オリコンチャートの結果がORICON WEEKLYの発売2日前にわかる。
結果は、初登場で堂々の1位だった。
12月1日の夕刻、見城氏は尾崎にその結果を伝えるために彼が宿泊していた新宿のヒルトンホテルを訪れた。
そして、ホテルのフロントから尾崎の部屋に電話を入れた。アルバム「誕生」が一位だったことを伝えると、尾崎が電話口で震えているのが息遣いでわかった。
見城氏は「とにかく降りてこいよ。下のバーで待ってるから」と言って電話を切った。
光の中を歩く尾崎
エレベータの扉の真っ直ぐ先にバーがある。
真っ暗なバーの入り口に向かって座っている見城氏に向かって、入り口の扉から強烈な西日が入ってきていた。
エレベータを降りた尾崎は、その西日を背にゆっくりと近づいてくる。
その時、尾崎は逆光となって黒いシルエットだけになり、まるで光の中を歩いてくるように見えたという。
そして、バーに入った尾崎は、人目をはばからずに見城氏に抱きついて号泣し、見城氏も泣いた。そして、ビールを頼んで二人だけの乾杯をした。
「僕には忘れられない人生の一コマ一コマがあるけれど、“僕と尾崎の復活は成った”と思って飲んだあのビールの味は、忘れられない」
そう語る見城氏の目には、光るものがあった――。
【関連サイト】 「見城徹」「ORICON WEEKLY 1990年12月3日号」
「人生の歩き方~見城徹×尾崎豊~」
「編集者という病い」「月刊カドカワ/1990年7月号」