
月刊カドカワ / 1990年7月号
1990年7月1日発行
当時、月刊カドカワの編集長だった見城徹氏は、1985年11月に尾崎豊初の書籍「誰かのクラクション」を出版した。
その後、尾崎が渡米するなどして音信不通になっていたが、1989年のある日、新宿のヒルトンホテルのジムで尾崎と偶然再会した。
最後に会ったのは渡米前だったが、彼はその頃の面影もないほどに落魄していた。
復活したい
尾崎は奥さんの繁美さんと二人で新宿のヒルトンホテルに泊まっており、ジムのトレッドミルで汗を流していた。
見城氏も校了明けにひと汗流そうと、早朝のヒルトンホテルのジムへ行き、トレッドミルの場所へ向かった。
すると、年齢不詳の男が鬼気迫る様子でシャドーボクシングをしながら走っている。あまりの変わりぶりに、最初はそれが尾崎豊だとはわからなかったという。
その姿にたじろいだ見城氏は、トレッドミルで走るのを辞めてその場を立ち去ろうとした時、その男から「見城さん」と声を掛けられた。
それが、尾崎だった。
所属事務所に辞表を叩きつけ、所属するレコード会社もプロダクションも金も、何もかもを無くしていた尾崎は、久し振りに会った見城氏に向かってこう呟いた。
「見城さん、どうしても僕は復活したい」
その頃、見城氏は編集長という立場になったことで、編集者としても人間としても堕落しており、そんな自分に嫌気が差していた。
そんなこともあり、尾崎のその言葉に「尾崎豊の復活に自分の編集者としての復活を賭けてみよう」と一念発起。
専属トレーナーになって彼をサポートし、人や金を集めて彼を社長に据えた個人事務所「アイソトープ」まで設立した。
雑誌の編集長の範疇を超えており、会社にバレたらクビだった。また、ほとんどの時間を一緒に過ごし、共依存的な状態だったという。
巻頭での大特集
さらに、月刊カドカワの1990年7月号で、巻頭70ページぶち抜きの尾崎豊大特集を組んだ。
当時、月刊カドカワの総力特集に選ばれるのは、松任谷由美や佐野元春、米米CLUBなど現役バリバリのトップアーチストばかり。
そのため、薬物事件で社会的制裁を受け、数年の間音楽活動を休止していた尾崎豊の大特集を組むことに、角川書店のあらゆる人間が大反対した。
しかし、見城氏はその反対を押し切り、強引に雑誌を発売した。全ての責任を引き受け、尾崎の復活に賭けたのだ。
9万部完売
もし、70ページもの大特集をやって売れなければ、とんだ赤っ恥を掻き、責任問題になる。尾崎豊を再デビューさせるという途方もない企ても、全て水泡に帰する。
しかし、この特集号は雑誌に羽が生えたかの如く飛ぶように売れた。
9万部刷ってほぼ完売し、返品率はキズモノとして返ってくる3、4%ほどだった。それは、見城氏が月刊カドカワの編集長をやっていた7年半で最も低い返品率だったという。
突如世間から消えた尾崎豊の言葉を、読者は渇望していたのだ――。
【出典】 「たった一人の熱狂」「編集者という病い」「月刊カドカワ/1990年7月号」 「BOND」
「第7回 傘を無くした少年」「NEWS PICS」