境山野緑地の南側半分は、古くから残されてきた雑木林です。境山野緑地の名称は、この地域一帯がかつて武蔵野村大字境字山野(さんや)であったことに由来します。ただ、この地域が明治の文豪・国木田独歩との係わり合いがあることから、地元では「独歩の森」とも呼ばれてきました。境山野緑地は、武蔵野市内に残る本来の雑木林としては唯一の存在となっています(『武蔵野市緑の基本計画2008』55頁より)。冬枯れの雑木林の美しさを味わうなら、ここがお勧めです。
この境山野緑地一帯は明治自然主義の文豪国木田独歩との係わり合いがあり、地元では境山野公園を含め「独歩の森」と呼ばれて親しまれています。
武蔵境の北口商店街は途中から独歩通りという名前となり、抜けると玉川上水に架かる桜橋に行き当たります。この桜橋の袂に国木田独歩文学碑があり、「武蔵野」の一節、“今より3年前のことであった。自分は或友と市中の寓居を出て三崎町の停車場から境まで乗り、其処で下りて北へ真直に四五丁ゆくと櫻橋という小さな橋がある”が刻まれています。
この櫻橋の手前を左折した奥が境山野緑地一帯となるのですが、この緑地と独歩との直接の接点が国木田独歩の日記「欺かざるの記」に書かれています。
「欺かざるの記」学習研究社版より引用。
「・・・・・・・・・前略
遂に櫻橋に至る。橋畔に茶屋あり。老婆老翁二人すむ。之に休息して後、境停車場の道に向かひぬ。橋を渡り数十歩。家あり、右に折るる路あり。此の路は林を貫いて通じる也。直ちに吾等此の路に入る。林を貫いて、相擁して歩む。恋の夢路!余が心に哀歓みちぬ。
・ ・・・・・・・・中略
更に林間に入り、新聞紙を布て坐し、腕をくみて語る、若き恋の夢!嬢は乙女の恋の香に酔ひ殆んど小児の如くなりぬ。吾に其の優しき頭を重けにもたせかけ、吾れ何を語るも只だ然り然りと答ふるのみ。日光、緑葉にくだけ、涼風林間の間より吹き来る。
・ ・・・・・・・・後略」
・
国木田独歩が後に結婚する事になる佐々城信子嬢とお互いの切なる恋愛感情を吐露しあうこの逢瀬は明治28年8 月11日の日記に“記憶して忘るる能はざる日なり”として記されており、林を去るに当り、木の葉数枚を記念に持ち帰っています。
ルートとしては国分寺駅から五日市街道へ出て、小金井、玉川上水の櫻橋を経てこの境山野緑地一帯に入り、武蔵境駅に至るのですが、その道は武蔵野市が昭和40年刊行した武蔵野市民版「武蔵野」の巻末にも取り上げられいて、この境山野緑地一帯は“独歩ゆかりの林”として紹介されています。
武蔵境の北口商店街は途中から独歩通りという名前となり、抜けると玉川上水に架かる桜橋に行き当たります。この桜橋の袂に国木田独歩文学碑があり、「武蔵野」の一節、“今より3年前のことであった。自分は或友と市中の寓居を出て三崎町の停車場から境まで乗り、其処で下りて北へ真直に四五丁ゆくと櫻橋という小さな橋がある”が刻まれています。
この櫻橋の手前を左折した奥が境山野緑地一帯となるのですが、この緑地と独歩との直接の接点が国木田独歩の日記「欺かざるの記」に書かれています。
「欺かざるの記」学習研究社版より引用。
「・・・・・・・・・前略
遂に櫻橋に至る。橋畔に茶屋あり。老婆老翁二人すむ。之に休息して後、境停車場の道に向かひぬ。橋を渡り数十歩。家あり、右に折るる路あり。此の路は林を貫いて通じる也。直ちに吾等此の路に入る。林を貫いて、相擁して歩む。恋の夢路!余が心に哀歓みちぬ。
・ ・・・・・・・・中略
更に林間に入り、新聞紙を布て坐し、腕をくみて語る、若き恋の夢!嬢は乙女の恋の香に酔ひ殆んど小児の如くなりぬ。吾に其の優しき頭を重けにもたせかけ、吾れ何を語るも只だ然り然りと答ふるのみ。日光、緑葉にくだけ、涼風林間の間より吹き来る。
・ ・・・・・・・・後略」
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国木田独歩が後に結婚する事になる佐々城信子嬢とお互いの切なる恋愛感情を吐露しあうこの逢瀬は明治28年8 月11日の日記に“記憶して忘るる能はざる日なり”として記されており、林を去るに当り、木の葉数枚を記念に持ち帰っています。
ルートとしては国分寺駅から五日市街道へ出て、小金井、玉川上水の櫻橋を経てこの境山野緑地一帯に入り、武蔵境駅に至るのですが、その道は武蔵野市が昭和40年刊行した武蔵野市民版「武蔵野」の巻末にも取り上げられいて、この境山野緑地一帯は“独歩ゆかりの林”として紹介されています。