旅の途中

ずいぶん生きてきたけど、きっと まだ旅の途中。
ゴールが見えるその日まで、思ったこと、好きなことを書いてみる。

「お父さん・・・」と言ってみる

2022年10月16日 | 家族

思い立って、このページを開いてみた。

あー、丸々2ヶ月、このサイトを訪れていなかったんだね。

もっと細かく書いておけば良かったかな。もっと詳細に、残しておけば良かったかな。

でも、何かを残す気力はあまり湧いてこなかった。そして、ようやく2ヶ月近くが経とうとして、またこのページを開く気になった。

 

父が他界して間もなく2ヶ月が経とうとしている。

元気に・・・ならなくても、それでも退院して介護の日々を想像していた。父が誰の手も借りずに建てた家に、何がなんでも帰ってきて欲しかった。

もっと優しくすれば良かった。もっと一緒にどこかに行けば良かった。もっと気持ちよくバナナを買ってきてあげれば良かった。もっと親切にパソコンの操作を教えてあげれば良かった。もっと、もっと、もっと・・・。

2ヶ月近く経ってもまだ気持ちの整理はつかず、入院していて、尚且つ面会ができなかったせいか、まだ心のどこかで東海大に入院していて 荷物を持って11階に上がれば、看護師さんに「これ、お願いします」と渡せるような気持ちになる。

東海大に向かう道を、今日 久しぶりに車で走って 胸が苦しくなった。

もういないこと。もう会えないこと。まだまだ心の整理はつかず、父の写真を見上げては「お父さん・・・」と言ってみる。

父は一生懸命に生きた。父は一生懸命に戦った。きっとまさかこんなことになるとは、本人が一番 思っていなかっただろう。

父は、幸せな中 旅立ったと思う。お母さんにたくさんたくさん電話して話して、病院の皆さんから大事にされて、優しい笑顔で逝ったのだから。


「人は、物語を共有して生きていく」

2022年07月17日 | 家族

タイトルは、読売新聞の連載コラム「医療ルネサンス」にあった 患者家族のコトバだ。

医療ルネサンスのシリーズ「コロナ禍の傷痕」の中で、母親が重い肝硬変で入院をした家族が、このコロナ禍で面会ができず、母親を置き去りにしてしまったことに憤りを感じる、という内容だった。

抜粋になるが、「母に会えていたら、死へのプロセスを家族で分かちあい、納得できていたら、移植をしてまで助けようと思わなかったかもしれない。死に向かう母だけが一人、取り残されてしまうことだけは許せなかった」という言葉はあまりに印象的でその通りだ、と思った。

今の私たち家族は、この思いの只中(ただなか)に置かれている。

父がどんなに苦しくて、切なくて、どんなふうに頑張っているのか、どのくらい 生への執着があるのか、なにもわからないで、ただただ 様子を電話や看護師さん、主治医からの話で想像するしかない。

人生とか家族は、思い出を共有して歴史を紡ぐのだと 改めて感じた。

おばあちゃんは、元気がなくても、いつも水戸黄門だけはしっかり見てたよね、とか

おじいちゃんは、意識がなくても私たちが会いに行くと少し、目を開けたよね、とか。

何年、何十年たっても 共有の思い出を語りあい、故人を思い出す。

このまま、父にもしものことがあっても、父の最期の数カ月を 私たちは何も知らないままになってしまう。縁起でもない、けど、86歳の父。現実は深刻だ。

 

コロナの新規感染者が過去最高レベルで増えている。病院の面会ルールも、ますます厳しくなっている。何か食べられるものを、と持っていっても看護師さんに預けることしかできない。蓋を開けて、桃やバナナを口に運んであげることはできない。自分でできなければ、食べることができないのだ。看護師さんたちの忙しさは、面会ができない今、計り知れないと思う。家族がやっていたことを、看護師さんがやってあげなければならないのだ。家族が面会に行ければ 体をふいてあげたり、水を飲ませてあげたり、荷物を整理したり、話し相手になったり なんでもできる。でも、家族が病室に入れない今、それらを看護師さんが担っているのだ。申し訳ない気持ちと感謝の気持ちでいっぱいだ。でも、彼らの時間が限られている。うちの父だけに、あれこれやってもらおうなんて、無理は言えない。

何とか面会ができないものか…。たとえ一人でも、たとえ10分でも そばに行って、手を握って、顔を拭いてあげれば もっともっと元気になってくれるような気がする。

人生を、思い出を共有してこれまで生きてきた。残り僅かな時間もこれまでと同じように 物語を共有してワタシも行きたい。父のコトバを覚えていたい。父の年老いた顔をしっかり覚えていたい。

 


父が「寂しい」、といったという…

2022年07月14日 | 家族

これまで、何度も病魔に冒され、そのたびに何度も生還してきた父。

母親を早くに亡くしそのあとに嫁いできた実母の妹を「母」と呼び 文句ひとつ言わず、高度成長期の日本を技術で支えてきた父。

そんな父が 病院から何度も何度も電話をかけてきて ついには「寂しい」と言ったそうな。耳を疑う母(笑) いや、笑い事では全然ないんだけど、でも、わが父に「寂しい」という感情があったのだね、と母と思わず唸ってしまった。

病院とは、入院とは、それだけ 切なく、苦しく、寂しく、残酷なものなのだと思った。

いっそ、ボケてしまえば何もわからず 恋しい、とか会いたい、とかそういう感情に苦しまないで済むのかな、と思ったりして。

でも、面会もできない病院で 必死に「おのれ」を保ち続け、何とかボケずに 電話のかけ方も忘れずに、でも電話したことは忘れて ワタシが電話に出るたびに「おー、久しぶり」という父が なんとも可笑しいやら悲しいやら愛おしいやら、で、結局 泣けてくる。

 

主治医からの電話では、向こう1カ月は退院の見込みは立たないらしい。

「雨が降ってるでしょ?」と電話で聞いたら「そうねぇ…空しか見えないからわからないなぁ…」との返事。

そして、最後はいつも「早く帰りたいからお医者さんの言うこと聞いて頑張ります」、と父。

どんな状態でも、一度は家に帰ってきてほしい。誰の援助も受けずに一人で立派に建てた家だもん。お父さんの居場所はここだけなんだもん。あの笑顔で、もう一度帰ってこられるよう、一日に何度電話が掛ってこようとも、元気にいつも、返事をしよう。

「お父さん、気分はどう???」


2022・お盆

2022年07月10日 | 家族

生まれて初めて、一人でお墓参りに行ってきた。

いつかはそんな日が来るとは思っていたけど、思うより早く そんな日が来たな。

去年は4人で行ったのに。今年は、一人。
少し早い、2022年 お盆のお墓参り。
 
一人はなかなか大変だ。
お花を買って、お線香を買って、お水を汲んで、花台を洗って、草むしりして、お花をあげて、お線香を焚いて そして後片付け・・・。
もう、汗だく。
4ヶ所のお墓を回って、きちんと義理を果たしてきた。
 
9月のお彼岸には両親二人を連れて行くことはできるかな。
 
何かが少しずつ少しずつ変わっていく…。
 
朝の大黒PA上空





帰りの大黒PA上空

父のこと。

2022年07月07日 | 家族

父親が入院して1カ月と10日が過ぎた。

まさかこんなことになるとは思わなかったあの日。

胆管炎ということは4月にわかっていたけど、それほど深刻だとは思わず、医者からも、次回は7月の外来で良いと言われた。

そんな5月のある日、腹痛で一睡もできないという父を、「えー、大丈夫でしょうー」と思いつつ、それでも翌朝一番で東海大まで連れて行った。

即入院。それきり、父とは1度しか会えていない。

面会禁止。今はお見舞いにも行けないご時世なのだ。

友人は、お父さんの入院中 一度も面会できず、ようやく会えたのは亡くなってからだったという・・・。コロナ禍というのはそういうことなのだ。

東海大に行っても、ただ荷物を看護師さんに預け、看護師さんから洗濯物を受け取るだけ。

病室のある棟を見上げても ただそこには青い空があるだけ。

 

厳しい状況には変わりはないけど、やせ細った声で一生懸命 電話も向こうで話す父は本当に頑張っている。

つらいだろうに、くじけず本当に偉い人だ。

父ともう一度 一緒にご飯を食べられるよう 今は彼の生命力を信じよう。これまでも、何度も何度も克服して、復活してきたのだから。