「聖母マリアへのまことの信心」(聖グレニョン・ド・モンフォール著)

読者の皆様、この本は宝であります。
神秘的な働きによってマリア御自身が
あなたを選ばれ手の中に納められたのです。

「聖母マリアへのまことの信心」 第二巻

2022-12-02 14:52:40 | 日記
第三節  神は人間聖化のみわざにおいて、マリアを使おうと望まれる



第①項 三位一体の三つのペルソナは、教会の中で、マリアに対してどんな態度をとっておられるか

22.三位一体の三つのペルソナが、イエズス・キリストの受肉のとき、すなわち最初の地上来臨のとき、マリアに対してお取りになった態度は、そっくりそのまま、毎日、目にみえない仕方で、教会の中で継続されています。それは世の終わりまで、すなわちイエズス・キリストの再臨の日まで、継続されていくのです。


23.神である御父は、地表のすべての水を一か処に集めて、これを“海”と名づけました。おなじように、ご自分のすべての恩寵を一か処に集めて、これを“マリア”と呼びました。この偉大な神は、たいへん高価なタカラ、たいへん豊富なタカラの倉をお持ちです。その内部には、すべて美しいもの、すべて光りかがやくもの、すべて希少価値のあるタカラがドッサリ収蔵してあります。かけがいのない、ご自分の御ひとり子までが、しまってあります。
 この山のようなタカラの倉とは、だれあろう、マリアのことです。聖人たちは、マリアのことを“主のタカラ”と呼んでいます。このタカラの倉のあふれから頂いて、わたしたちは霊的に富者となったのです。


24.神である御子は、ご自分の母マリアに、ご自身の生と死によってもうけたすべてのもの、すなわち無限のクドク、賛嘆すべき善徳をみなお与えになりました。御父から相続財産としていただいた、すべてのタカラの保管者として、マリアを指名されました。だから、マリアこそ、キリストのクドクを、キリストの神秘体の各成員に流通されるのです。マリアこそ、キリストの善徳を、キリストの神秘体に交流されるのです。マリアこそ、キリストの恩寵を、キリストの神秘体の各成員に分配されるのです。
 そんなわけで、マリアこそ、キリストという恩寵の貯水池の運河です。水道です。マリアという名のこの運河、この水道を使って、キリストは、ご自分のあわれみを、その神秘体の各成員に、静かに、しかし豊富に、お通しになるのです。


25.神である聖霊は、ご自分の誠実な妻マリアに、ご自分のいい尽くせぬタマモノを流通されました。聖霊はご自分がもっているすべてのタマモノの分配者として、マリアを選ばれました。当然の結果、マリアは、聖霊のタマモノと恩寵を、ご自分が好きな人に、好きなだけ、好きな時に分配されるのです。聖霊はマリアの手をとおさないでは、ご自分のどんなタマモノも人々にお与えになりません。
 なぜなら、これが、神のご意志だからです。神は、わたしたちが、マリアをとおして、ご自分からすべてをもらうことをお望みになるのです。こうして、マリアを富ませ、称賛しマリアに栄誉をお着せになるのです。なぜなら、マリアは一生をつうじて、その深い謙遜によって、暮らしは貧しく卑しく、消えてなくなるほど人目にかくれておられたからです。これが、母なる教会と聖なる教父たちの一貫した見解なのです。


26.もしわたしが、今日のエライ学者先生がたをあいてに話をしているのなら、以上簡潔に述べたことを、聖書や教父たちに訴えて、もっと長々と議論を勧めていくでしょう。聖書や教父たちの著書から、ラテン語のテキストを引用し、いくつかの堂々たる論拠をごらんにいれることもできましょう。ちょうどボアレ神父が、その著「マリアの三重冠」の中でそうしているように。
 しかし、わたしは、とりわけ、貧しい人や、心がすなおな人に向って、話しかけているのです。こういう人たちはみな、善意の人であるから、平均的学者先生よりも、もっと率直に、ひとのいうことを信じるし、したがって、もっと神からごほうびをうけるのです。それでわたしは、こうした単純素朴な読者に、ただ真理を提示するだけにとどめます。ラテン語のテキストを引用しても、おわかりにならないのですから、それはやめにします。それでも、すこしばかり引用させていただくこともありましょう。しかし、けっして長たらしい引用はいたしません。(この訳本では、ラテン語のテキストはのせません―訳者)閑話休題。では、先を急ぎましょう。


27.恩寵は自然を完成し、栄光は恩寵を完成します。だとすると、イエズス・キリストが地上で、マリアの子であったように、天国でもおなじくマリアの子であるということは、たしかな事実です。当然の結果として、イエズス・キリストが、すべての子らの最も完全な従属と服従を、天国でもそっくりそのまま、すべての母親の中の最高の母親マリアに対して、持ち続けておられるということは、これもたしかな事実です。
 だがイエズス・キリストになにか不足があるから、なにか不完全さがあるから、このように、マリアに従属しているのだと考えてはいけません。なぜなら、マリアは、神である御子イエズスよりも、無限におとったお方ですから、世の母親が、自分よりもおとっている子供に命令するとおりに、御子イエズスに命令するわけにはまいりません。マリアは、天国のすべての聖人を神に変容させる恩寵と栄光によって、ご自分もスッカリ神に変容し尽くされておいでになるのです。だから、神の永遠不動の意志に反することはひとつとして望むこともできねば、することもできないのです。

そんなわけで、聖ベルナルド、聖ベルナルジノ、聖ボナベントラ・・・などの書き物の中に、天国でもこの世でも、すべてのものが、神さまさえも、マリアに従っている、というような文字が見えても、誤解してはいけません。その真意はこうです。―神が、マリアに与えてくださった権威は、たいへんなもので、そのために、マリアは、神とおなじぐらい権威をもっているかのように思われます。また、マリアの祈りと願いは、神のみまえに、たいそう力があるので、それはいつも神にとっては“命令”とおなじぐらいねうちがあります。神であるイエズスは、ご自分のいとしい母マリアの祈りを、絶対こばむことはできません。マリアの祈りはいつも謙遜で、そのうえいつでも神の意思にピッタリ沿っているからです。


旧約のモーセは、祈りの力で、イスラエル人への神の怒りの爆発を、未然にふせぐことができました。このうえなく偉大、かぎりなくあわれみ深い神は、モーセの強烈な祈りの攻勢にたじたじ。とうとうモーセに、「わたしをとめるな。このかたくなな民にむかって思うぞんぶん怒らせ、罰さしておくれ」(出エジプト記32・9)と言われたほどです。だとすると、いわんや謙遜なマリアの祈り、このうえなく偉大な神の御母の祈りは、天国と地上のあらゆる天使、あらゆる聖人の祈りと取り次ぎよりも、神のみまえに、どれほどいっそう力があるのでしょう。



28.マリアは、天国で、天使・聖人たちのうえに采配をふるっておいでになります。神は、地上でのマリアのふかい謙遜にむくいるため、反逆の天使たちが高慢によって、そこからつい落した天国の空席を、聖人たちで満たす権能と使命を、マリアにお与えになりました。これが、神の意思なのです。すなわち神は、自分をひくくする者を高くし、自分を高くする者をひくくされるのです。(ルカ1・52)
 神は、天上のものも、地上のものも、地獄のものも、謙遜なマリアの命令に、いやでも応でも服従させるのです。神は、へりくだるマリアを、ご自分の軍団の総指揮者、ご自分のタカラの管理者、恩寵の分配者、ご自分の大事業の現場監督、人類の改造者、人びとの仲介者、神の敵の粉砕者、ご自分の偉大さと勝利の同伴者となさいました。


 聖人たちに囲まれる聖マリア

29.神である御父は、マリアによって、世の終わりまで、ご自分の子どもを次から次へと作りたいのです。それでマリアに、「ヤコブに住まいを定めよ」(集会24・8)とおっしゃるのです。すなわち、ヤコブによってかたどられている、神の子どもたち、救われる人たちの中に、あなたの住いと、いこいの場を確保しなさい。けっしてエザウによってかたどられている、悪魔の子どもや亡びの子どもたちの中に、あなたの住いを定めてはいけませんよ。



30.自然界の誕生、からだの誕生という産み育てる行為には、かならずそこに、父と母とがいなければなりません。同様に、超自然界の誕生、霊的誕生においても、神という御父とマリアという母とがいなければなりません。神の子ども、救われる人は、ひとり残らず、神を父として、マリアを母としてもっています。マリアを母としてもっていない者は、神を父としてもっていません。
 だから、マリアを憎んだり、軽蔑したり、無視したりする異端者や離教者のような亡びの子は、どんなに神を誇りとしていても、神を父としてもってはいません。マリアを母としてもっていないからです。もしかれらが、マリアを母としてもっているなら、世間の子どもが、自分にいのちをあたえてくれた母親を、本能的に愛し尊敬するように、かれらも同様に、マリアを愛し尊敬するはずです。
 異端者、邪説者、亡びる人と救われる人とを見分ける、いちばん確実、いちばん明白なしるしがここにあります。それは、異端者や亡びる人はきまって、マリアをけいべつし、マリアにたいして無関心な態度をとっている、ということです。民衆のマリアへの信心と愛を弱めるため、ことばでも行いでも、陰に陽に、ときには、もっともらしい口実を使って、たいへん活躍している、ということです。この人たちは本当に気の毒です。神である御父は、マリアに、この人たちの中に住まいを定めよ、とはおっしゃいません。この人たちは、エザウの子ぶんだからです。



31.神である御子は、母マリアをとおして、くる日も、くる日も、ご自分の神秘体の各成員の中に形造られようと、つまり受肉しようと望んでおられます。それでマリアに、「イスラエルをあなたの相続財産として受けなさい。」(集会書24・8)とおっしゃるのです。その意味はこうです。神であるわたしの父は、わたしに相続財産として、地上のすべての国民、すべての人を、善人も悪人も、救われる人も亡びる人も、与えてくださいました。救われる人を、わたしは黄金のムチでみちびき、亡びる人を、鉄のムチでみちびきます。わたしは救われる人にとっては、父であり弁護者ですが、亡びる人にとっては、正義の報復者です。そして、救われる人にとっても、亡びる人にとっても、いちように、わたしは審判者なのです。
 しかし、わたしの愛する母マリアよ。あなたは相続財産として、恒久的財産として、イスラエルによってかたどられた、救われる人しか持たないのです。あなたは、救われる人の良いママとして、かれらを産み、養い、育てられるのです。また、救われる人の女王として、かれらをみちびき、おさめ、保護されるのです。



32.聖霊は言っておられます-「あの人も、この人も、彼女から生まれた」(詩篇87・5)。 ある教父たちの解説によりますと、マリアから最初に生まれた人は、神人イエズス・キリストです。次に生まれた人は、養子縁組によって生まれた純潔な人、神とマリアとの子供です。もしも人類のかしらイエズス・キリストがマリアから生まれたのなら、このかしらのからだであるすべての救われる人も、当然の帰結として、マリアから生まれねばなりません。
ひとりの同じ母親が、からだのないあたまだけの子供を産みますか。または、あたまのない、からだだけの子供を産みますか。そうだとしたら、まさに世紀のオバケです。これと同じ理くつで、恩寵の世界においても、かしらとそのからだは、ひとりの同じ母親から生まれるのです。だから、もしもイエズス・キリストの神秘体のある成員が、つまり救われる人が、神秘体のかしらをお産みになったマリアいがいの、他の母親から生まれたとしたら、この人はもはや、イエズス・キリストの神秘体の成員でもなければ、したがって、救われる人でもないわけです。そんな人は恩寵界のオバケです。



33.そればかりでなく、天上のものも、地上のものも、毎日、数えきれないほど、天使祝詞の中で、「また、ご胎の御子イエズスも祝されたもう」と、くり返しくり返し祈っています。イエズスは、いつの時代にもまして、特に今日、マリアのご胎の実、すなわちマリアの胎から生まれた御子なのです。だから、イエス・キリストは、すべての人にとって総括的にそうであるように、ご自分を所有している信者各自にとってはとりわけ、本当の意味で、マリアのご胎の実、マリアの作品なのです。
 そんなわけで、もしも自分のたましいの中に形造られているイエズス・キリストを、所有している信者だったらだれでも、次のように大胆に言うことができるのです。「マリアさまに感謝いたします。わたしが所有しているイエズス・キリストは、マリアさまのご胎の実、マリアの作品です。マリアさまなしには、わたしはイエズス・キリストを、所有することができなかったはずです。」

さらに、聖パウロが、自分にあてはめて言った次のことばを、もっと真実な意味で、マリアにも、あてはめることができるのです。「わたしの子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、わたしは再びあなたがたのために、産みの苦しみをしています。」ガラテヤ4・19)。すなわち、わたしはくる日もくる日も、神の子どもを産み続けています。わたしの子イエズス・キリストが、かれらのうちに形造られ、おとなの背たけに達するまで、産みの苦しみをしているのです(エペソ4・13)。


     聖パウロ

聖アウグスティヌスは、自分が考えていたことよりも、またわたしが以上述べてきたことよりも、はるかに意味深長な現実をふまえて、次のように言っています。「救われる者はすべて、神の御子の姿に似るために、この世ではマリアのご胎のなかにかくされています。かれはそこで、この良きママから保護され、養われ、胎教を受け、すくすくと成長していくのです。かれらが死ぬと直ぐ、マリアはかれらを、こんどは栄光のいのちに産みます。だから、教会が、善人の死をそう呼んでいるように、かれらの死こそは、まさしくかれらの誕生日なのです。」

  聖アウグスティヌス

 ああ、亡びる人にとっては、まったく知られていない恩寵の神秘よ。
 ああ、救われる人にとっても、わずかばかりしか知られていない恩寵の神秘よ。



34.神である聖霊は、マリアにおいて、マリアをとおして、選ばれた人を形造りたいのです。聖霊はマリアにこう言われます。「選ばれた人びとの中に、根をおろしなさい」(集会書24・12)。わたしの最愛の女よ、わたしの愛しい妻よ。選ばれた人びとの中に、あなたのもろもろの善徳の根をおろしなさい。選ばれた人びとが徳から徳へ恩寵から恩寵へと、成長してゆくことができるために。あなたが、かずかずのけだかい善徳を実行しながら、地上生活をおくっているのを見て、わたしの心は歓びにたえませんでした。
いま、あなたは天国におられる。天国にいながら、同時に地上にも、いてもらいたいものです。どうか、わたしのねがいをかなえて、選ばれた人びとのうちに、あなた自身を再生してください。かれらのうちに、あなた自身の確固不動の信仰を見たいものです。

       聖霊の鳩

あなた自身の深いけんそんを、あなた自身の全面苦業を、あなた自身の崇高な祈りを、あなた自身の熱烈な愛徳を、あなた自身の強固な望徳を、あなた自身のあらゆる善徳を見たいものです。見て歓びたいものです。
マリアよ。あなたは昔も今もいつも、わたしの誠実な妻です。きよらかな妻、子宝に恵まれた妻です。どうか、あなたの信仰がわたしに、たくさんの信者を与えてくれますように。どうか、あなたの純潔がわたしに、たくさんのバージンを与えてくれますように。どうか、あなたのたくましい豊かな産み育てる力がわたしに、無数の選ばれた人を与えてくれますように。



35.マリアがある霊魂の中に、根をおろすとき、彼女はそこに、ご自分だけがおできになる、恩寵の絶妙神秘なみわざをなさいます。マリアだけが、子どもを産む能力をもつ聖処女だからです。純潔の点で、また無数の子どもを産むたくましい産み育てる力の点で、マリアに比肩できる者は、過去、現在、未来をつうじて、ひとりもいないからです。
 マリアは聖霊に協力して、世にもたぐいない、最高の傑作をし上げました。すなわち、神であって同時に人でもあるイエズス・キリストを生んだのです。マリアはひき続き、世の終わりに登場する大人物を生み出していくのです。世の終わりに大活躍を演じる偉大な聖人はみな、マリアから養成され、マリアから教育されるのです。マリアだけが、ただひとり、霊との交わりの中で、世にもたぐいない人物を生み出すことができるからです。



36.マリアの夫である聖霊が、ある霊魂の中に、マリアを見いだすとすぐ、そこに飛んでいき、そこにはいり、この霊魂にご自分を、豊かにお与えになります。聖霊は、この霊魂が、マリアに提供している住まいの場の大きさに応じて、この霊魂にご自分をお与えになるのです。昨今、聖霊は、霊魂たちの中に、人が目を見はるようなみわざをなさっていません。その理由の一つは、聖霊が、霊魂たちの中に、ご自分の誠実な妻、ご自分と絶対に離れることのできない妻マリアとかれらとの、じゅうぶん深い一致を、見いだすことができないからです。「ご自分と絶対に離れることのできない妻マリア」と、わたしは言います。なぜなら、御父と御子との無限愛である聖霊が、選ばれた人びとのかしらであるイエズス・キリストを生み出すため、またイエズス・キリストを選ばれた人びとの中に生み出すために、ひとたびマリアを、ご自分の妻としたからには、このおなじ聖霊は、マリアを絶対に“離別”しないからです。マリアが、いつも聖霊に対して誠実であり、マリアが、いつも豊かな産み育てる力に恵まれているからです。





 第②項 上記の事実から出る諸結果

1、マリアは心の女王


     天の女王マリア


37.わたしが以上述べてきた事実から当然、次のことが結論できます。
第一、マリアは、選ばれた人びとの心に対して、大きな支配力を神から頂きました。もしもマリアが、異例の恩寵によって、選ばれた人
びとの心に対して、神から特別の権限と支配力を頂いていなかったら、神である御父が、彼女にお命じになったように、選ばれた人びとのうちにご自分の住まいを定めることは、とうていできなかったはずです。
選ばれた人びとの母としてかれらを形造り、養い、永遠の生命に産むこともできないはずです。選ばれた人びとを、ご自分の相続財産とすることも、持ちものとすることもできないはずです。かれらをイエズス・キリストのうちに形造り、またイエズス・キリストを、かれらのうちに形造ることもできないはずです。かれらのうちに、ご自分の善徳の根をおろすこともできねば、これらすべての恩寵のみわざにおいて、聖霊の不可欠な協力者となることもできないはずです。
 神はこれらの権能を、ただご自分の御ひとり子であり、実子でもあるイエズス・キリストに対してばかりでなく、ご自分の養子であるすべてのキリスト者に対しても、同様に行使するようにと、マリアにお与えになったのです。それもただ、キリスト者の身体に対してばかりでなく、霊魂に対しても、身体におとらず、行使するようにと、お与えになったのです。



38.イエズスが、生まれながらの権利によって、また征服の権限によって、天地の王であるように、マリアも恩寵によって、天地の女王なのです。さて、「神の国はあなたがたのうちにある」(ルカ17・21)というそのおことばのとおり、イエズス・キリストの御国が、主として人間の心、すなわち人間の内面にあるように、マリアの御国も同様に主として人間の内面、すなわち人間のたましいにあるのです。したがって、マリアは、目にみえるすべての被造物のうちにおいてよりも、目にみえないたましいのうちにおいてこそ、その御子とともに、いっそうはるかに栄光を着せられておいでになるのです。そんなわけで、聖人たちとともに、マリアのことを“心の女王”とお呼びすることができるのです。



二、人間はその終極の目的を達成するために、どうしてもマリアが必要  
(1)キリスト者には、その身分上の義務を完全に果すために、どうしてもマリアが必要です。


39.第二の結論は、次のとおり。マリアは、相対的必要から、つまり神がそれをお望みになるから、神にとって必要な人物です。人びとにとっては、その終局目的を達成するために、マリアはもっともっと必要な人物です。だから、マリアへの信心を、他の聖人への信心と同列に置いてはいけません。マリアへの信心の必要性を値引きしてもいけないし、いわんやそれを余計なものと思ってもいけません。



40.聖アウグスティヌス、エデッサの助祭、聖エフレム、エルザレムの聖チリロ、コンスタンチノーブルの聖ゼルマノ、ダマスコの聖ヨハネ、聖アンセルモ、聖ベルナルド、聖ベルナルジノ、聖トマス・アクイナス、聖ボナベントラなどの教父たちの意見にもとずいて、学徳円満なイエズス会員スワレズ、おなじく学識と信心に富むルーハン大学のユスト・リプス博士、その他大勢の学者は、マリアへの信心が、救いに必要なことを、だれも抗弁できないほど明確に証明しています。また、これはエコランパジオはじめ、その他の著名な異端者までが明言していることですが、マリアに対して尊敬も愛も持たないということは亡びへの確実なしるし、反対に、全力を尽して、心のそこから信心をする、または献身することは、救いへの確実なしるしなのです。


41.旧約聖書のもろもろの予型も、新約聖書のかずかずの宣言も、右の事実を証明しています。聖人たちの思想も行動も、それを確認し、人びとの理性も経験も、それを納得し、公表しています。悪魔までが、その一味とともに、いやいやながらも、真理の圧力に抵抗しきれないで、右の事実をしばしば告白せざるをえないように仕向けられたものです。この真理を証明する聖なる教父や博士たちの数多い文献の中から、長たらしい引用をさけるため、タッタひとりの教父(ダマスコの聖ヨハネ)の、タッタ一節を左にかかげます。「ああ、マリアよ。あなたへの信心こそは、神が救おうと望んでおられる人びとにお与えになる、救いの武器なのです。」


       古い聖書

42.この事実を証明するエピソードは、たくさんありますが、そのうちの二つだけを次にかかげましょう。
(a)アシジの聖フランシスコの伝記にあることですが、聖人はある日、忘我の境にあったとき、天までとどく巨大なハシゴを見ました。ハシゴの先端には、マリアさまがいらしたのです。天国にはいるには、このハシゴをのぼらねばならないことが、このマボロシによって示されているのです。

(b)もうひとつは、聖ドミニコの伝記に出ています。聖人がカルカンソの町の近くで、ロザリオについて説教していたときのことです。15000匹もの悪魔につかれた、ひとりの気の毒な異端者が聴衆の中にいました。マリアはこの悪魔たちに、ご自分への信心にかんする幾つかの重要な、なぐさめになる真理を、みんなの前で公表するようにと、お命じになりました。仕方がありません。悪魔どもは顔を真っ赤にしながら、それでも力いっぱい、ハッキリと、それをやってのけました。悪魔が仕方なく、マリアへの信心についてやってのけたこの大演説、この大讃辞こそ、マリアに対してあまり信心をしていない人たちにとってさえ歓びの涙なしには聞くことができないほどりっぱなものです。



(2)とりわけ、完徳にあこがれる人たちにとっては、どうしてもマリアが必要です。

43.マリアへの信心が、ただ単に救いをえるためにだけでも、すべての人にとって必要だとするなら、まして特別の完徳に召された人たちにとってはなおさらのこと、もっともっと必要になってくるのです。マリアとの親しい一致がなければ、またマリアの助けに完全にすがっていなければ、イエズス・キリストとの親しい一致に達することもできないし、また聖霊への完全な忠実を身につけることもできません。これはたしかです。



44.マリアだけが、ただひとり、ほかのどんな人の助けもかりないで、「神から恵みをいただいたのです」(ルカ1・30)。マリアが、神から恵みをいただいた後、たくさんの人が、おなじように神から恵みをいただきましたが、かれらはみな、ただマリアをとおしてのみ、それをいただいたのです。
 これからいただく人も同じこと、マリアをとおしてはじめて、それをいただくのです。大天使ガブリエルから、ごあいさつのことばを聞いたとき、マリアはすでに「神の恵みに満ち満ちておられました」(ルカ1・28)。さらに、「聖霊が彼女のうえに臨み、いと高き者の力が彼女をおおった」(ルカ1・35)とき、マリアは聖霊によって、ますます神の恵みに満ちあふれました。それ以来、マリアはこの二重の恩寵の充満を、時々刻々、ふやし続けていかれたので、だれも想像できないほど、恩寵の絶頂に到達されたのです。

だから、神はマリアを、ご自分のタカラの唯一の管理者にし、ご自分の恩寵の唯一の分配者にされたのです。それは、マリアが、お望みの人をきよめ、高め、富ませるためです。マリアがお望みの人に天国への狭い道をたどらせるためです。マリアがお望みの人に、生命への狭き門を、どんなギセイを払っても、くぐらせるためです。こうして、マリアが、お望みの人に、王の玉座と王しゃくと王冠を与えるためです。
 イエズスは、いつどこでも、マリアのご胎の実、マリアの子です。マリアは、いつどこでも、いのちの実を生じる木、いのちの母なのです。



45.神は、ただマリアひとりに、神愛の酒倉のカギをお渡しになりました。ただマリアひとりに、完徳の秘境に分け入る権限を、またほかの人にも分け入らせる権限を、お与えになりました。マリアだけが、不信のエバの子らを、地上楽園に入場させることができるのです。ここでマリアは、この気の毒な子どもたちを、神とごいっしょに楽しく散歩させてくださるのです。敵の攻撃に対して安全地帯であるここに、かれらをかくしてくださるのです。ここで、善悪を知る生命の木の実を、中毒死の恐れなしに、かれらにおいしく食べさせてくださるのです。こんこんと豊かにわき出るきよらかな泉の水を、おなかいっぱい飲ませてくださるのです。マリアこそ、この地上楽園です。
 アダムとエバが、罪をおかしてそこから追い出された、ご自分じしんにほかならないこの処女地、この祝福の楽園には、マリアは、お望みの人しか入場させません。入場者をみな聖人に仕上げるためです。



46.聖ベルナルドの解説にしたがって、聖霊のことばをかりていうなら、マリアよ、「民のうちの富んだ者は」千代に八千代に、とりわけ世の終わりに、「あなたの行為を求めるでしょう」(詩篇45・13)。すなわち、世の終りごろには、もっとも偉大な聖人、恩寵と善徳にもっとも富んだ人たちこそ、もっとも熱烈にマリアに祈るのです。マリアを模倣するため、自分らの完全な手本として、いつもマリアを眼前に見すえているのです。マリアに助けを呼ばわるため、自分らの力づよいパトロンとして、いつもマリアにまなざしをそそいでいるのです。


  聖ベルナルドに現れる聖母

(第三巻につづく)

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