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空に問う。

空に問うても果てがない

自分を知らないと言うことは神を知らないということ

2015-10-28 12:40:56 | 日記
幸せな家庭に育つと、不幸対する認識や不運の捉え方が少し甘くなると思う。例の占い師さんが際限なく、神棚を作らずに榊、神饌も上げないなんて信じられない~と言うけど、通常の神棚って宮型をさすのではなかったろうか。

裸のまま神札を置くのは失礼じゃないかな。特に天照大神はそれを望んでる。気が引けるももちろん、でも何よりも埃被るでしょう(苦笑)。まあ薄紙は剥がしてあるからまんざらでもないんでしょうが、やっぱり神界のリストとか勝手に作ってはダメでしょう。占い師さんが言うように『神は寛大で無限に(幸福を)与えるのに人は控えめにこれくらいでいいと思うから残念だとした持論が成り立たなくなりませんか。そのくらいのことで無作法者と叱る神にそんな度量はないと思いますけど(苦笑)。

まあ哀しみを抱えてる人よりは楽しい人が好きだとは思いますけど・・・。おいらは基本的に暗いから嫌われている・・・・。

こう言うのは気持ちでするものだから人それぞれでいいんではないかと思うけど・・・・。おいらはむき出しで神札を置くのは抵抗がある。個人的に眠る間もなく見守っていてよって心の表れ方みたいな傲慢さを感じるし、常に見られてる感じはがするのは人間の側も嫌でしょう。だから個人的に祈願でいただいたお札もとりあえず宮型に入れる方です。でも部屋に置くときは榊などあげませんよ。だって上の下もどこもかしこも神棚だらけって良くないと訊きますから。祈願したお札を部屋に置きたくないときは神棚に置けばいいと思いますよ。

24時間、神様が起きていても寝ていても、または、そういう人間的な部分を超越している存在であっても、気持ち休んで欲しいと思いますから宮型は必ず用意します。

でも、ああいう感じでブログランキング一位ってことは、いかに人間がスピリチュアルを本当にとても甘い考えで求めてる証拠ってことなんですかね(苦笑)。癒しが欲しいならそれこそアロマテラピーとかカラーセラピーとか心をちゃんと落ち着ける科学を師事した方がいいと思いますよ。いい事書いてる風ですが、毒にも薬にもなりませんよ。アロマオイルでマッサージする方が体にも心にもいいです。言葉のビタミンや酵素や酵母もあると思うけど、基本のベース事態がとてもざっくりしています。昨年のロイヤルウエディングの惨状を週刊誌で読んだ方は、しら~としたんじゃありませんか。出雲国造は天孫の孫ですからね。それに則るならばただの近親婚ですよ。

天孫降臨以前からこの国土を治めていた土着の神(地神)や、高天原を天下った神やその神が地上で生んだ御子は国津神です。国津神の代表格は大国主命で、天照大神など高天原に住む神を天津神といいます。まあ天孫降臨以降に地上で生まれた神の祖の起源が高天原であってもそれは国津神なのです。高天原で生まれた天照大神の子のみ地上に下っても高天原の神々(天孫)なのです。

でもスサノオは例外で、どう考えても天津神なのですが、高天原から地上に下った神ですから国津神なのです。ややこしいです。ですから出雲国造は国津神の祟りを鎮めるために天孫から派遣された天照の子孫ですから近親婚ですよね。伊勢神宮の斎王はまだ紀宮さまのはずですから、ひー様を伊勢神宮の娘とするのは本当は無理がある。いとこではあるんですがね。

だから古事記の世界が融合した婚姻風に見えるけど、実は天孫同士の結婚なのです。まあ、ひー様がホームシックにかかってもしょうがないでしょう。出雲はまだ中途半端な町だから欲しいモノが欲しいと思ったときには買えないし、お友達もいない。愛だけじゃ埋められないですから今の人は特にね。離婚はさすがにマズいよね。今は通い婚みたいですよ。

去年の10月5日は神社で祈願して貰いながら拝殿で大泣きしていましたぞ、おいら。ロイヤルウエディング気分ではなかった。

それに確か、昭和天皇のいとこが出雲大社の大宮司だったはずだから、すでに皇族方が嫁がれているんですよ。血がまた一段と近くなり、皇室と出雲大社の姻戚関係が更に濃くなったのが正解ではないですかね。古事記編纂1300年の昨年になぞらえなくてもすでに大正時代に行われてる(苦笑)。

まあ占い師さんのやることを実践しても占い師さん以上の幸せには成れませんよ。そもそも心構えとか教えてないし。覚悟がないのは神道ではないのかもしれませんが、書き換えが可能なのが神道でもある。

何度も言いますが、神道に教義はありません。祝詞とは祭祀のたびに創作されるた作文のことです。禁じ事項は多少書かれていますが、昔の世はなんて破廉恥なのって件もあります。その都度新しく書くのは難しいから、聖徳太子作とも言われる「大祓祝詞」のように良く出来ている祝詞が各地に広がり引き継がれたんです。個人的に祝詞作成はお願い出来るようですが、いくらくらいが相場かわかりまてん(苦笑)。

たぶん少し年配の人が訪ねて来て、板の上に”神札と榊と神饌”を飾っていたら「神棚は?」って訊かれるます。それは宮型の事ですからね。きっと壁に立てかけてる有様を見て「これじゃあ、いかんわ」って言われるはず。それにだいたい一般人が崇敬する神社のお札を多数いただいても意味がないんじゃないのかな。神様同志はケンカしませんって言うけれど、それはちゃんと神から許された人が行って良いことだと思うんです。お土産や記念品者ないですからね。

敵同士の神もいるんですよ。勝手に怨霊にされて神になることを望まない神もいる。恋愛と一緒で、やたら好きなアーティストがいるのと同じです。気が多いのは考え物です。だから系譜系統を無視してやたら神棚に祀るのは考えた方がいいと思うけど。敵同士だと居心地が悪いし、いっぱいいあると窮屈です。大きい神さんもいますから。

まあ地元の三宮は阿波忌部氏が創建し、元は天孫系の神社だったのです。なぜかと言うと出雲族(神)をけん制する意図があったからでしょう。けれど時々そういうのを邪魔する人たちがいて、配神に元出雲族の神様を据えたりする。その頃からちんぷんかんぷんになっていったはず。境内内にある別の神社に猿田彦命がおられるから、元々は祭神である天石門別神と猿田彦命が祀られていたんでしょうね。きっと出雲族がこの地方に侵略した時期があってタケミナカタノ命を配神として諏訪から勧請したんでしょう。直に出雲からの勧請ですと、朝廷に対する反乱ですからね。神社に祀られている神の配置は古代の勢力図でもあります。でも猿田彦命の妻であるアメノウズメがこの近隣にお祀りされていないのが少し残念。そうすれば縁結びも可なのですけど・・・・・。

まあこれは、おいらのファンタジーな解釈ですからね(笑)。

占い師や霊能者ではない人は身の程を知ることだと思います。それを生業りにしてるから必要であって、普通の人に不要です。おいらみたいな目に合いますよ(苦笑)。一般人はあくまで一般人。

それにしても占い師さん神を語るけど視える人ではないっぽいんだけど・・・・・。こういう人があんまりやると、それこそ天津神も国津神も八百万の神も敵に回してしまいます。一般人が榊をあげないくらいでブラックリストには載りません。土地神や氏神はどのお宅にもいて漂っているそうだから、寄る辺を捜しているんだと神主さん訊きましたぞ。だから必要以上のことはしないで普通にお祀りしてくださいって言われてました。

神棚がないならばそれでもいいんだと思いますよ。現世ご利益を求めるために家にお招きするなんてあざとくないですか?なくても不幸になるわけでもないしね。やたら信念もなくいろんなところにスピ詣でする方が悪いですよ。いくらその尊敬すべき人が絶賛しても合わない神社はありますね。例えばおいらは出雲大社は合いません。恐れ多い過ぎるんですかね。軽い病になります。でもみんな見てると平気そうで・・・・。だから合わないと思ったらもう行かないこと。無理してスピ師の言うことに従わなくてもいいんです。それこそ家にごまんと神様がいても窮屈でしょう。

自分を知れば神が望むことが分かるんじゃないでしょうか。

必ずしもそれは楽しいことではないのかもしれませんよ。続々占い師さんの私的なファンタジーに共鳴する人が増えています(苦笑)。おいらはこの人から学ぶものはないですから著作を捨てました。詩人になりたかったんで買った本を手放すのはとても勇気がいりますが、魔書みたいに感じたから。

まあ正しいことも良いこともそりゃあどうしても似てくるけど、スタンダードなものに味付けをして私風と紹介されてもね。迷惑この上ない(笑)。

表上はスピにどハマりしてるくせして人前じゃ神の話なんかしないでしょう。宗教に寄ってると思われるのは嫌だけど幸せになりたい・・・・。って恥じてて神が寄るわけはないでしょうに。

幸せになりたければ自分を知ること。小さな幸せに満足すること。小さな幸せを見つけたら大きな幸せが見つかるって言う甘言に甘えると、大きな幸せに包まれていることを見逃してしまう。大きな幸せとは生きてる他あり得ない。

そりゃあ兆しや前兆や前触れはあります。でもそれをしっかりキャッチして生きてる人なんてこの世に一人もいませんよ。みんな悩みながら苦しんで生きてる。

もしこの占い師さんが神の名を使わずに『貧乏は(神からしたら)病気だ』と書いてくれたら信じていたかもしれない。確かに貧乏は不治の病かも知れないけど、それは神の言葉ではないでしょうに。神の神威ではないでしょうに。神前で「貧乏を祓ってください」って頼んだら「ハイ了解です」と言われそうにない。闇の心や心の闇を病気というのならば分かるけど、神道とは精神の道です。神に至る(成る)ための道であらずです。そこにはお経のような尊い教えはありません。それ故に神は今も生まれ続け新興宗教の多くが神を立てるのです。仏では都合が悪いんですよ。その人本人や教祖様を超える教義がすでに存在していますからね。

神道の方が真似やすいし、オリジナリティが出せる。だって神について書かれた書物は記紀神話や旧事本紀くらいしかないですから。まあ異端書の類いもありますけど、正しいところはちゃんとしたセオリーがあります。それに神神だけじゃないですよ。仏さまもいるし権現様も明神様もいるわけです。教義に神しか持ちだせない人の格言って、その人の格言の場合が多いんです。

祭式や作法にこだわるのが現代の神道ならば宮型がない時点ですでに何を言ってもイレギュラーですからね。神とは高位の霊性をさすのだから、基本は霊と同じなんですよ。神になりたくてなれなかったものや神モドキのフリしてる霊はいっぱいいます。寄る辺に寄るのではあれば近くに神を置かない方がマシなんですよ。

それでもおいらが神棚を据えているのは正しくありたいと願うからです。道を踏みはずさないためです。現世ご利益や運気アップや幸福なんてどうでもいいです。だから心根を改めないとダメと思いますよ。普通はみな誰も無償で神に愛されています。だって生まれた場所の産土の神が生まれることをお許しになったから、おいらたち生者は生まれたんだから。精神が伴わないのであれば、神棚など不要なんです。困ったときは神社にお願いに行ってもいいんです。・・・・と言うとスピ師は言います。”日ごろ神に感謝もしていないのに頼みごとを聞き届けてくださるとお思いですか?あなたが神様ならそんな薄情なものの願いは聞き届けないでしょう」と。スピ師が言ってんのはね、自分がしてるように神様を祀って神饌を捧げて、日本全国の有名神社にお詣りして財布を買えとか無理難題をクリアして初めてスタート地点に立てるのだとほざきます。 

そんなことはないです。

ただ願いが叶っても叶わなくても無礼にならないようにお礼のお詣りに行けばいいんです。頑張ったんですから努力したんですから試験に落ちたのは悔しい。でもそれを神のせいにしていませんか。合格するように祈願をしたのならばちゃんと試験会場に行って試験を受けたのですよね。不意の事故に遭わずに病にもならず遅刻もせずに試験会場に行けたんですよね。・・・・それだけで願い事の一部は達せられているんです。でも例えば合格してもお礼に詣らない人もいます。結局は実力だったと思うからです。そういう驕りはもしかすると神さんは嫌いかも知れない。

困ったときの神頼みはOKです。ただし、その後の対応をキチンと心がければいい。占い師を信じても合格する人もいれば不合格の人もいます。そこで不合格になった人は占い師さんを信じなるなると思います。でもね、信心以上に寄り過ぎると「ちゃんと神棚の世話をしていないせいだ」とかかつて読んだ記事を思い出してもっともっと信じてしまうんです。それを続けていると大変な目に合いますよ。それが神しか持ちださないスピ師のやり方です。

何でもおいらは機械系の仕事で特に飛行機の整備士に向いていると昔、ある霊能者の方に言われたそうですけど、おいらは普通科だし詩人になりたかったわけだし、そもそもそんな預言を信じてもやる気もないのであれば出来ないでしょう。言い方を変えるとエンジニアを選択しなかったおいらはその時にすでにひたすらまっすぐ不幸一直線に走りだしていたことになりませんか?でもどんな未来を選択しても機械の整備には不向きな人間です。不器用だし目が悪い・・・・・・。

でも中学生に戻ってエンジニアの道を進むかと言われたらきっとノーです。そんなもんです。

幸せとは幸せを意識してないときに訪れてる寿福の時間の名前だと思いますし、それこそ捉え方も複数ある。型にはまらないで欲しいです。自由なんですから。

幸せってきっとそばにあるんだと思いますよ。

だから神を知るよりも前に自分を知ることが大切なんだと思います。

自分の中に自分を信じる神がいないのであれば、何をどうやってって神には繋がりませんよ。

そして繋がると何らかの役目を追わされます。だから普通に決められたようにお祀りしてあげましょう。そう言うのが歯を磨くくらいのルーティンになったのであれば、その時にはじめて神さんから来てくれますよ。特別なことをしてるわけでは無く、当たり前のことをしているだけなのだから。

おいらが好きなスピ師さんは神をわけ隔てなく想ってられますね。それはおいらも同じ。そういう考え方の人に出会うとホッとします。

とにかく本邦において神仏習合の習いを問わずに神神言うのはきっとあんまり正しいこととは思えません。まあ指摘されたら「私はただの占い師なので・・・・」と逃げると思いますよ。だってさ、神棚に松を飾ってもいいんですよ。荒神さん系(すなわち仏教系の三宝荒神)の神であれば榊ではなくて松です。通常は台所に飾りますが、荒神信仰をされてるお宅は神棚に祀るところもありますよ。まあ神鏡がなかったとしから、そう言うことです。その場合は榊上げる方が間違いです。

それも松一本のみ。まあ正月には普通の神棚にも飾りますしね。何をお祀りされているんかまずは考えることです。もしかするとその地区限定で榊ではなく松なのかも知れません。とにかく習いも大切な作法で祭式です。

だから・・・・回答コメントに三宝荒神のことも触れずに、『松ではなく、木+神で榊です(笑)』とか簡単にコメント返し出来るんですよね。本当に恥ずかしいことなんですけどね。その人にはきっと和魂しか感じない優しい心をもって生まれてきたんでしょう。神界横着リストが存在するのではあれば、それは意地悪の方だから荒魂の方なんですけど・・・・・。分かり易く教えているのではなくて、自分の中の信じる神がそういうものなのだからつい書いてしまうのでしょう。

何度も言いますけど、神は畏れ多いものです。

リポビタン2本飲みでも回復しねえな。+牛乳じゃ(苦笑)


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