考えると自分が減る。これは持論なんだけど、縮小はするよね。純度だけ高まると悪化すると思うし。正義を考えないときは宇宙を考えることにしてるんだ。
ミラユニーバース(反対宇宙)の事を考えてふと思う。ミラーユニバースとは宇宙誕生の時に鏡のようなもう一つの宇宙が誕生したのではないかと言うこと。そこでは時間は後退し、どんどん若返る世界らしいよ。
まあそれがあってもなくてもいいんだけどね。
まあ上からモノを落としたら、木床でもコンクリートでもその衝撃で物体は壊れるよね。まあなんでか壊れない時もある。
現象は条件により常に一定ではない。
が、床と物体の接地面に起きる衝撃があんがい小さいことに驚くことあるよね。物体の重さで床が抜けてしまうんではないかと思うのに床の衝撃が拡散したように、どこかに逃げたように。その衝撃に対して、起こる破損が小さくなるのはどうしてなんだろう。。
で、その衝撃はどこか違うところに逃げているんじゃないかと科学者は考えたんだね。死んで当然の状況なのになんでか生きてる。まるで加えられた外部からの執拗な力がどこかに消えちゃったみたいに。人は死ぬなら十死なんだけど不完全な九死があるように。それを人は奇跡と呼ぶんだけど。
おいらは昔死んでるはずなんだよね。
なのに死ななかった。
受けた暴打の力がどこかに逃げちゃったみたいに。人は頭を殴られ続けると頭蓋骨が凹んで場合によると死ぬよね。頭蓋骨が破損しなくても脳が衝撃を受けて揺れたら死ぬよね。なのに死ななかった。
たぶん十死でない九死の状態にあったんだと思うけど、その一死はどこへ行ったんだろうか、ふと思う。
まあ肉体は残ったけど、精神は一度死んだな。臨死体験もしたし、いまだに生きてる感触が乏しいし。
肉体を失くしても精神性みたいなものはどこかに行くのではと思いたいけど、普通は肉体が死を迎えたら、それで終わりと思ってるかな。
だからときどき破壊衝動がわく。焼いたことがあると言えば思い出の写真も仏像もある。仏像なんか焼くから罰が当たるんだと言われそうだけど、一応仏法のルールでは開眼供養しないと仏像に仏性は宿らないことになってる。ペットの仏壇がよくないと言われたので寺の勧めで焼いた時に、その中にあった小さな仏像も焼いた。もちろん開眼供養などしていないから仏像の形をした物体を焼いたわけだが・・・。火にくべて退魔する、火の力で浄化するという考え方は仏教にある。焼く=清めることだよね。
ペット仏壇の処分法を問いに行ったら焼くしかないと言われて焼いてみた。
だけど何も変わらなかった。
心じゃないよ。おいらの体的な状態になんの変化も作用も促さなかったから。それは意味がない行為であり暴挙になった。
つまらない言い方をすると、仏像を焼くような奴だから、相応にふさわしいバツを受けてる状態なんだよね。そのバツに質量はないだろうしエネルギーもないんだろうに、おいらはその行為の重さに対して罪の意識を感じてる。まあ思い出すたびに胸が苦しくなるわけだ。ここで、坊主のせいだと思えたら正解なんだろうが、こんな罰当たりを認めてくれるような社会もないだろうと、個人と社会を分断したんだよね。
それくらいにバチと言うものは後から後から効いてくるもんなのだ。そしてひたすらに状況を悪化させる。まあ何者か悪いものに取り憑かれた訳じゃないから反社会的な行動はとらないけど、それは理論武装してる理性で抑え込んでるだけかもしれない。
一昨日も衝動で思い出の品を焼いた。すでに失くしたようなものが結晶化しているような品物だったから、それこそ洗い清める感じでしかないんだけどね。
だから実際に政府の命令だからと大義を取った村人が、それまでの習俗の要所であった寺を焼き討ちした時にどんな想いだったかをつい考えてしまう。信仰の対象を焼く捨てるわけだよね。壁を壊し板をはがし火をかける。ご本尊をその中に投げこむ。
まあ村社会における寺や僧侶の権力は偉大だっただろうし、絶対的な権力があったならそれは必ず腐敗してるはずで、ひどい廃仏毀釈が行われた地区は、ひどい寺絡みの差別があったということなんだろう。
悪いことをしたらバチが当たる。それは仏法の概念だよね。なのにお上が寺から仏教要素を取り除くように命じたんだから、全部焼いた方が早いよね。神道の部分なんて地方の神仏が習合してるところにはないし、もしくは見分けがつく状態ではなかったからだ。おいらも神、神云うが、基本神とは何か見分けは付かない。神霊のようなものを視たことがないせいかなぁ。理論上、高位の霊性であることは知っているけど、どれが神聖を表し、何が神聖の象徴なのか、多くの人は分からないと思うんだ。
で、バチは残る。
寺を焼き仏像を焼くのは非道だからである。だから、こうなったのはあんなことをしたからバチが当たったんだと思う。そのバチは語り継がれ何代も続くだろう。そう思い始めると日本人はバチが当たるような愚かな選択を自らするからだ。分かりやすい例が、貧乏くじを引くことかな。あえて災難を禍いを受け入れて、バチを自らの手で終わらせようとする。
そんな貧乏くじを引いたくらいでバチはなくならない。バチは何代も続くものなのかも知れないんだからね。
バチが当たらなくするにはバチ当たりをそそのかした奴らのせいにすればいいわけだ。それを社会のせいや空気のせいや政治や戦争のせいにすればいいんだし、そうやって問題の原因を回避することで人は救われる。
どうしておいらが救われなかったかと言えばたぶん本質的なところで自分以外のせいに出来なかったからである。仏壇を焼くということは仏像も含んでいると、おいらは思ったわけだ。坊主の方がペットの仏壇に仏像があるなど思わなかったかも知れないし、仏像があってもあえて焼き清めることを勧めたのかも知れないし。
でも結局はバカな坊主の所見の低さに惑わされて、自分の中の禁忌に触れるような悪さをしてしまったのは自分なのだから、腐れ坊主のせいには出来ずに自分の責任をひたすらに感じた訳だ。おいらが動けないのは外の世界に恐怖心を感じたせいではなくて、単に自分を罰するために自らバチを与えているんだと思う。
おいらにはどこかへ逃げる衝撃も重力の移動も、このバチの力も同じに思えてしょうがない気持ちになる。それはどこかからやってきて、どこへ向かうのか押してもくれない。
まあ焼くと決めて火をつけたのもおいらだから、当然に家族の方の罪悪感や罪の重さは低下する。バチが当たるとしても、それはおいらに当たるものであるから、自分たちは免れると思ってる。同じ血が流れていても個体全て同じじゃないんだよ。結局いろいろあって、家族はそそのかした坊主のせいにして忘れようとして、きっと本当に忘れてる。
結局、忘れられないことが罪なんだと思うな。
友達の不幸を夢で知る。ただ知ることに本当に意味はないよ。そんな霊感をありがたがるのはバカだと思う。
姉は霊感みたいなのはないのかなぁ・・・アンテナはあっても受信装置がないから具体的に外部からの情報を再生する機能がない。そういう話をしていて、それが分かったからどうだって顔をされた。
同じ血を分けた姉弟なのに、そこだけはどうしてもわかり合えない。けど見てたら母以外のモノには霊障的なモノが表れてて、普通に日常茶飯事おこる霊障は父方の血によるものだと思うよね。
で、姉に云った。
「あんたら(姉と父)にはアンテナがあっても受信機がないから平気なんだろうけど、ああいうの(霊障)が来ると相当に疲れるんだよ・・・・」
と言ってる最中に気が付いた。通常、一つのアンテナには一つの受信機が備わってるはず。なのにこの人らは薄情だし、信仰心はないし、さもすれば死者にむち打ちようなことを平気で言うしする。
ああ、この人たちの受信装置二台を加えて、ワンアンテナ、スリー受信機のスペックで生まれたんだと知った。三つも解読器があったらたまらんよね。考えは散るし、まとまらない。
だからたぶんいつも人の三倍疲れるんだと思う。俗にいう霊能者を見てると、おいらみたいに疲れていないし、一つの思想の在り方や言語形態、教義内でちゃんと肩をつけている。
暗号を解くみたいな作業はしていない。実にシンプルだし、強い。
昨日ちょっと文句を言ったから父は母の実家に逃げ込んでテレビを見てる。で、その家の元義理の夫婦は父のことをよく思ってはいなかった。だから障ってくる。
おいらはさ、40数年ぶりに見つけた父の祖母の葬儀の写真を仏間に放置するだけでなく、毎朝一本の線香をあげろと言ったんだ。父に忘れられるのが死ぬほど辛い祖母の気持ちを伝えたんだが、線香一本あげるのを拒否して、祖母からもおいらからも逃げ回る。
どうやったら、こんなバカになるんだろうね。少なくとも息子の辛さを軽減しようとか努力することはしてくれない。もっともっとおいらに禍いを集めてもっともっと苦しめようとする。こんな親捨ててもいいよね。
まあどの受信装置もアナログで適度に壊れているから、何の役割も果たさない。そういう夢を見た以上は、遺族に伝えなきゃいけない何らかの信号送られてきてるはず。とりあえずよく分からないんで「ありがとう」と伝えてみたが、そうじゃないんだろう。いいたいことが山ほどあって未練がだらだらこぼれてる。この二日他人の親のせいで気が滅入るし塞いでる。
もうかかわり悪たくない。
「友達の不幸なんだから、あんたが分かって当然だ」と姉は云うが、そんなものは当然に受け入れがたいことである。
精神的に疲れるんだよ。
修行してる訳じゃないんだから・・・。
ああ最悪。
十死で良かったんだよ・・・・。あれから日陰ばかりを歩いてて、びくびくしながら生きてるだけで愉しいなんて思えなかったんだから・・・。
ミラユニーバース(反対宇宙)の事を考えてふと思う。ミラーユニバースとは宇宙誕生の時に鏡のようなもう一つの宇宙が誕生したのではないかと言うこと。そこでは時間は後退し、どんどん若返る世界らしいよ。
まあそれがあってもなくてもいいんだけどね。
まあ上からモノを落としたら、木床でもコンクリートでもその衝撃で物体は壊れるよね。まあなんでか壊れない時もある。
現象は条件により常に一定ではない。
が、床と物体の接地面に起きる衝撃があんがい小さいことに驚くことあるよね。物体の重さで床が抜けてしまうんではないかと思うのに床の衝撃が拡散したように、どこかに逃げたように。その衝撃に対して、起こる破損が小さくなるのはどうしてなんだろう。。
で、その衝撃はどこか違うところに逃げているんじゃないかと科学者は考えたんだね。死んで当然の状況なのになんでか生きてる。まるで加えられた外部からの執拗な力がどこかに消えちゃったみたいに。人は死ぬなら十死なんだけど不完全な九死があるように。それを人は奇跡と呼ぶんだけど。
おいらは昔死んでるはずなんだよね。
なのに死ななかった。
受けた暴打の力がどこかに逃げちゃったみたいに。人は頭を殴られ続けると頭蓋骨が凹んで場合によると死ぬよね。頭蓋骨が破損しなくても脳が衝撃を受けて揺れたら死ぬよね。なのに死ななかった。
たぶん十死でない九死の状態にあったんだと思うけど、その一死はどこへ行ったんだろうか、ふと思う。
まあ肉体は残ったけど、精神は一度死んだな。臨死体験もしたし、いまだに生きてる感触が乏しいし。
肉体を失くしても精神性みたいなものはどこかに行くのではと思いたいけど、普通は肉体が死を迎えたら、それで終わりと思ってるかな。
だからときどき破壊衝動がわく。焼いたことがあると言えば思い出の写真も仏像もある。仏像なんか焼くから罰が当たるんだと言われそうだけど、一応仏法のルールでは開眼供養しないと仏像に仏性は宿らないことになってる。ペットの仏壇がよくないと言われたので寺の勧めで焼いた時に、その中にあった小さな仏像も焼いた。もちろん開眼供養などしていないから仏像の形をした物体を焼いたわけだが・・・。火にくべて退魔する、火の力で浄化するという考え方は仏教にある。焼く=清めることだよね。
ペット仏壇の処分法を問いに行ったら焼くしかないと言われて焼いてみた。
だけど何も変わらなかった。
心じゃないよ。おいらの体的な状態になんの変化も作用も促さなかったから。それは意味がない行為であり暴挙になった。
つまらない言い方をすると、仏像を焼くような奴だから、相応にふさわしいバツを受けてる状態なんだよね。そのバツに質量はないだろうしエネルギーもないんだろうに、おいらはその行為の重さに対して罪の意識を感じてる。まあ思い出すたびに胸が苦しくなるわけだ。ここで、坊主のせいだと思えたら正解なんだろうが、こんな罰当たりを認めてくれるような社会もないだろうと、個人と社会を分断したんだよね。
それくらいにバチと言うものは後から後から効いてくるもんなのだ。そしてひたすらに状況を悪化させる。まあ何者か悪いものに取り憑かれた訳じゃないから反社会的な行動はとらないけど、それは理論武装してる理性で抑え込んでるだけかもしれない。
一昨日も衝動で思い出の品を焼いた。すでに失くしたようなものが結晶化しているような品物だったから、それこそ洗い清める感じでしかないんだけどね。
だから実際に政府の命令だからと大義を取った村人が、それまでの習俗の要所であった寺を焼き討ちした時にどんな想いだったかをつい考えてしまう。信仰の対象を焼く捨てるわけだよね。壁を壊し板をはがし火をかける。ご本尊をその中に投げこむ。
まあ村社会における寺や僧侶の権力は偉大だっただろうし、絶対的な権力があったならそれは必ず腐敗してるはずで、ひどい廃仏毀釈が行われた地区は、ひどい寺絡みの差別があったということなんだろう。
悪いことをしたらバチが当たる。それは仏法の概念だよね。なのにお上が寺から仏教要素を取り除くように命じたんだから、全部焼いた方が早いよね。神道の部分なんて地方の神仏が習合してるところにはないし、もしくは見分けがつく状態ではなかったからだ。おいらも神、神云うが、基本神とは何か見分けは付かない。神霊のようなものを視たことがないせいかなぁ。理論上、高位の霊性であることは知っているけど、どれが神聖を表し、何が神聖の象徴なのか、多くの人は分からないと思うんだ。
で、バチは残る。
寺を焼き仏像を焼くのは非道だからである。だから、こうなったのはあんなことをしたからバチが当たったんだと思う。そのバチは語り継がれ何代も続くだろう。そう思い始めると日本人はバチが当たるような愚かな選択を自らするからだ。分かりやすい例が、貧乏くじを引くことかな。あえて災難を禍いを受け入れて、バチを自らの手で終わらせようとする。
そんな貧乏くじを引いたくらいでバチはなくならない。バチは何代も続くものなのかも知れないんだからね。
バチが当たらなくするにはバチ当たりをそそのかした奴らのせいにすればいいわけだ。それを社会のせいや空気のせいや政治や戦争のせいにすればいいんだし、そうやって問題の原因を回避することで人は救われる。
どうしておいらが救われなかったかと言えばたぶん本質的なところで自分以外のせいに出来なかったからである。仏壇を焼くということは仏像も含んでいると、おいらは思ったわけだ。坊主の方がペットの仏壇に仏像があるなど思わなかったかも知れないし、仏像があってもあえて焼き清めることを勧めたのかも知れないし。
でも結局はバカな坊主の所見の低さに惑わされて、自分の中の禁忌に触れるような悪さをしてしまったのは自分なのだから、腐れ坊主のせいには出来ずに自分の責任をひたすらに感じた訳だ。おいらが動けないのは外の世界に恐怖心を感じたせいではなくて、単に自分を罰するために自らバチを与えているんだと思う。
おいらにはどこかへ逃げる衝撃も重力の移動も、このバチの力も同じに思えてしょうがない気持ちになる。それはどこかからやってきて、どこへ向かうのか押してもくれない。
まあ焼くと決めて火をつけたのもおいらだから、当然に家族の方の罪悪感や罪の重さは低下する。バチが当たるとしても、それはおいらに当たるものであるから、自分たちは免れると思ってる。同じ血が流れていても個体全て同じじゃないんだよ。結局いろいろあって、家族はそそのかした坊主のせいにして忘れようとして、きっと本当に忘れてる。
結局、忘れられないことが罪なんだと思うな。
友達の不幸を夢で知る。ただ知ることに本当に意味はないよ。そんな霊感をありがたがるのはバカだと思う。
姉は霊感みたいなのはないのかなぁ・・・アンテナはあっても受信装置がないから具体的に外部からの情報を再生する機能がない。そういう話をしていて、それが分かったからどうだって顔をされた。
同じ血を分けた姉弟なのに、そこだけはどうしてもわかり合えない。けど見てたら母以外のモノには霊障的なモノが表れてて、普通に日常茶飯事おこる霊障は父方の血によるものだと思うよね。
で、姉に云った。
「あんたら(姉と父)にはアンテナがあっても受信機がないから平気なんだろうけど、ああいうの(霊障)が来ると相当に疲れるんだよ・・・・」
と言ってる最中に気が付いた。通常、一つのアンテナには一つの受信機が備わってるはず。なのにこの人らは薄情だし、信仰心はないし、さもすれば死者にむち打ちようなことを平気で言うしする。
ああ、この人たちの受信装置二台を加えて、ワンアンテナ、スリー受信機のスペックで生まれたんだと知った。三つも解読器があったらたまらんよね。考えは散るし、まとまらない。
だからたぶんいつも人の三倍疲れるんだと思う。俗にいう霊能者を見てると、おいらみたいに疲れていないし、一つの思想の在り方や言語形態、教義内でちゃんと肩をつけている。
暗号を解くみたいな作業はしていない。実にシンプルだし、強い。
昨日ちょっと文句を言ったから父は母の実家に逃げ込んでテレビを見てる。で、その家の元義理の夫婦は父のことをよく思ってはいなかった。だから障ってくる。
おいらはさ、40数年ぶりに見つけた父の祖母の葬儀の写真を仏間に放置するだけでなく、毎朝一本の線香をあげろと言ったんだ。父に忘れられるのが死ぬほど辛い祖母の気持ちを伝えたんだが、線香一本あげるのを拒否して、祖母からもおいらからも逃げ回る。
どうやったら、こんなバカになるんだろうね。少なくとも息子の辛さを軽減しようとか努力することはしてくれない。もっともっとおいらに禍いを集めてもっともっと苦しめようとする。こんな親捨ててもいいよね。
まあどの受信装置もアナログで適度に壊れているから、何の役割も果たさない。そういう夢を見た以上は、遺族に伝えなきゃいけない何らかの信号送られてきてるはず。とりあえずよく分からないんで「ありがとう」と伝えてみたが、そうじゃないんだろう。いいたいことが山ほどあって未練がだらだらこぼれてる。この二日他人の親のせいで気が滅入るし塞いでる。
もうかかわり悪たくない。
「友達の不幸なんだから、あんたが分かって当然だ」と姉は云うが、そんなものは当然に受け入れがたいことである。
精神的に疲れるんだよ。
修行してる訳じゃないんだから・・・。
ああ最悪。
十死で良かったんだよ・・・・。あれから日陰ばかりを歩いてて、びくびくしながら生きてるだけで愉しいなんて思えなかったんだから・・・。
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