一筆啓上@明和より

日本共産党 群馬・明和町議
早川元久のブログ
(Since May,4,2011)

聞いて 寄って うちのまち

2016年02月05日 | 日記・歳時記・お知らせ

 日本共産党が発行する月刊誌「議会と自治体」2016年1月号(2015年12月発行)に掲載された私の投稿を掲載します。

聞いて 寄って うちのまち

 
明和町は群馬県の東南端に位置し、南は利根川、北は谷田川が流れる水と緑が豊富な町です。1955年千江田村、梅島村、佐貫村が合併し、村名は住民からの公募により明和村となり、98年町制施行により明和町となりました。

 利根川に沿って東西約11キロメートル、南北約3キロメートル、面積は県内で2番目に小さく19.64平方キロメートル、人口は約1万1千人の町です。

 町には古墳や遺跡も数カ所あり、縄文時代から人が住んでいたことが分かります。明治の文豪、田山花袋は、小説「土手の家」で川俣地区にあった料理屋を素材に執筆しています。

 また、1900年(明治33年)2月13日、公害史の原点と言われる「川俣事件」が起こりました。足尾銅山の鉱毒に苦しめられた渡良瀬川流域の農民は、議会での田中正造の闘争に呼応し、銅山の鉱業停止と渡良瀬川の堤防工事を直接政府に訴えるため上京(押し出し)を決意、現在の館林市にある雲龍寺を2500余名が出発しました。

 しかし、利根川手前の川俣地区まで来ると、待ちかまえていた300余名の警官、憲兵隊と衝突、流血の大惨事となりました。佐貫村の村長や村民は村医を呼び被害民に応急手当、炊き出しなどをおこなった、ということです。事件発生百周年の2000年には、衝突地点に記念碑が建立されました。

 合併問題では館林市との合併がもちあがり、私の先輩、当時の海老原金平議員の提案により、1988年にアンケートが行われ、僅差で反対が多く合併には至りませんでした。その後の「平成の大合併」では、近隣(邑楽郡内)でも町長選挙の争点となった町もありましたが、自立の道を選択し、今日に至っています。

 高度成長に伴い中部地区では埼玉、東京へと通勤する人の住宅団地が広がり、西部地区では工業団地が広がりました。

 農業では米作を中心にキュウリ、ナス、白菜、ニラなども栽培されています。東部地区ではシクラメン、カーネーション、ランなどの栽培も盛んです。中部地区では梨の栽培がおこなわれています。明治初期から始まったとされ、明治43年8月の豪雨による利根川の大氾濫で農作物は壊滅状態になりました。

 しかし、梨は実をつけていましたが、洪水の被害を受けずに収穫ができました。以後、梨の栽培面積は増えてきました。西部地区ではぶどう(巨峰)も多く栽培されていましたが、後継者難により減少しています。梨、ぶどうは生産農家で直売をしています。

 町では38品目のごみの分別収集、全地区16カ所の公民館等で介護予防を目的に元気アップ教室がおこなわれ(筋力アップ体操、軽スポーツ、レクレーション、茶話会等)高齢者の交流の場となっています。

 明和町は通りすぎてしまうような小さな町ですが、ぜひ一度立ち寄って見てはいかがでしょうか。

[明和町] ブログ村キーワード 
全労連・労働相談ホットライン(携帯HP) 
無料法律・生活相談会
渋沢哲男 党 群馬3区 国政対策責任者のブログ 
たなはしせつ子 党群馬くらし・雇用対策委員長のブログ 



最新の画像もっと見る