火曜日
37年 - ネロ、ローマ皇帝(+ 68年)
208年(建安13年11月20日)
赤壁の戦いで孫権・劉備連合軍が曹操の船団を打ち破る。
1939年 - アトランタで映画『風と共に去りぬ』が初公開される。
1945年 - GHQが神道指令を発令、神社と国家が分離され国家神道が廃止される。
年賀郵便特別扱い開始
12月15日から12月25日までの間に年賀状を投函すると、
翌年の1月1日に配達される。
―フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』―
古代ローマ帝国の暴君ネロ(西暦三七~六八年)。
彼は後世、
「かつて母親が世に産み落としたなかでもっとも悪しき男」と、さげすまれた。十四年間の皇帝在位期間のなかで、ネロは、ローマの「伝統」と「権威」をふりかざしつつ、その実、数限りなく民衆を苦しめ、ローマの栄光を地に堕とした「張本人」である。
かつてローマを訪問した折〈一九六一年(昭和三十六年)十月〉、
「黄金宮殿」と呼ばれたネロの城の廃嘘を訪れたことがある。彼は、母を殺し、師を殺したのをはじめ、気に入らぬ人間を、いとも簡単に死に追いやった。また、ローマの大半を焼き尽くし、民衆を苦しみのどん底に突き落とした大火事も、自分の好みに合う新都を築こうとしたネロのたくらみであったともされている。
しかも彼は、その大火の責任を、すべてキリスト教徒になすりつけた。そして見せしめに、彼らをなぶり殺しにした。闘技場にキリスト教徒を集め、猛獣にかみ殺させ、これをながめて楽しんだという。幾多の歴史書が伝えるネロの狂気 ― 精神分析の対象ともなる“病める姿”であった。
ネロの異常さの特徴は、「皇帝妄想」にあったといわれる。
“我は皇帝なり。我に従え。我にひざまずけ” ― いわば「皇帝病」である。彼は「皇帝の後継ぎ」というだけで、最高の権力と、莫大な財産を手にすることができた。そして、いつしか「皇帝の座」を、「自分自身の実力によるもの」と錯覚していった。
そこに狂いの一因があった。本来、指導者は人々を救い、人々を幸福に導くのが責任である。それと、まったく反対に、“自分は偉いのだから何をしても許される”と転倒の考えをもったとしたら ― そこから「権力の魔性」のとりこになっていく。今もその姿が眼前にある。
ネロが生まれたのは、西暦三七年。
千九百余年前である。父親も札つきの悪党であった。感情のおもむくままに、人さえ殺した。反逆、詐欺、乱行など、ありとあらゆる悪行を犯し、たびたび告発されている。自分の淫蕩な“血”を自覚する父親は、ネロの誕生を祝う人々に、こう言ったという。
「私と妻からは、世の中の厄介ものしか生まれはしない」と。ネロは、いわば“望まれない子”であったといえよう。ちなみに仏典には、父親が誕生を望まず、かえって殺そうとしたゆえに未生怨(生まれる以前に恨みを抱いている)と呼ばれた阿闍世王の話が説かれている。
一方、ネロの母親は、我が子を溺愛し、息子を皇帝にするためであれば、あらゆることをした。権力の“座”に就くことを早くから望まれ、吹き込まれ、甘やかされて育った子供。母親がこうでは、心が、まともに育つはずもなかった。母はネロの父親の死後、当時の皇帝と再婚し、やがて皇帝を毒殺。そのため、ネロは十七歳で即位する。しかし、そのわずか五年後、ネロは、その母親をも暗殺するに至るのである。
ネロの生きた世界
― それは、人間らしい愛情からかけ離れた、暗黒の世界であった。彼は快楽にふけり、異常な邪淫にひたり続けた。自らの欲望のままに、ひたすら悪事を重ねていった。ネロはまた、自ら歌手として、幾度となく舞台に立つ。芸術家気どりの暴君の自己満足のために、多くの民衆が強制的に集められた。
そしてネロが歌っている間は、決して退場を許されなかった。そのため、なかには、その場で出産させられる女性や、死者まで出たという。また、観客にまじった監視兵たちが絶えず目を光らせており、皇帝の舞台に拍手しない者は、極刑に処せられた。
自分さえ楽しければ、それでよい。民衆の犠牲や苦しみには、まったく無頓着。それがネロであった。独裁者の狂った姿は、今も昔も変わらない。
ネロの周りには、追従者が、むらがった。
そこには、「おべっか」とウソ、策謀と足の引っ張りあいが、あふれていた。ネロは、彼らが耳打ちする「作られた情報」を、うのみにし、いいように利用されてしまう。
しかも、そうした「取り巻き」がいくら多くとも、ネロは本当に心安らぐことがなかった。キョロキョロと、あたりをうかがう小動物のように、常に何かを恐れていた。絶えずビクビクし、おびえていた。心は不安でいっぱいであった。この不安と臆病ゆえにネロは、極端で過激な反応をすることが多かった。いつも右に左に心が揺れていく。
少しでも自分の意にそわないと見るや、冷静に調べることもせず、次々と殺していった。ついには、自分の恩師をも殺した。かつての師であった、高名な哲学者セネカを、陰謀事件の一味として、自殺に追い込んだのである。
彼のこうした行動は、内面の“弱さ”の表れにすぎなかった。“強さ”に基づいた「断固とした決断と行動」ではなかった。簡単に人を“切る”権力者。彼を勇気ある人間と誤解しては絶対にならない。
臆病であるゆえに、現実から逃避しようとして、また自分の“力”を確かめずにおれなくなって、気に入らないものを“切り捨て”ているだけなのである。
さて、ネロ皇帝の時代の末期、帝国は大きく揺れ動いていた。
民衆の心はとっくに離れ、辺境に反乱も起こった。「ネロ体制」から、どんどん離脱していく。権力に酔いしれ、ぜいたく三昧の日々を送っていたネロの足元は、急速に崩れ始めていた。
それでもネロは、反乱軍との戦いなど意に介さず、ギリシャヘの旅に出る。音楽コンクールに出て、力だめしをしてみたいという、うぬぼれからの気ままな旅であった。
人々が、どれほど苦しもうと、経済的に逼迫しようと関係ない。自分がよければ、それでいい。あくまでも自分の欲望を満たすことが第一であった。「遊びたい」「楽しみたい」「豪遊したい」 ― 心の中にはそれしがなかった。
やがて反乱は、ようやく鎮圧された。ネロの時代が続くかに見えた。しかし、この時、ローマで一つの事件が起こる。
食糧不足で苦しんでいたローマの市民のもとに、穀物船到着の知らせが届く。人々は喜び、食糧の配給を今や遅しと待っていた。
だが、船から運び出されたものは何であったか。なんとそれは、ネロが、豪勢な宮殿の競技場に敷きつめるための「砂」であった。民衆の怒りは爆発する。“我々は、だまされていた。これがネロの正体だったのだ”と。
ネロを攻撃する落書きが、ローマのいたるところに現れる。「化けの皮」をはがされたネロは、残っていた、わずかばかりの民衆の支持をも失った。情勢は一変した。反乱軍は再び勢力を盛り返し、ローマの元老院(議会)も反乱軍と内通を始める。
ネロの最期
― それは、あまりにあっけなかった。形勢が不利になるや、腹心たちは次々とネロを見捨て、姿を消していった。ただ一人となったネロは、敵軍が迫るなか、自らのどを突いて生涯を終えるのである。彼の死後、その文箱からは、民衆の許しを求める演説の原稿が発見されたという。民衆に敵対した者は、最後には必ず、謝らざるを得なくなる。
ところで、
このネロの時代を描いた名作がある。
〈ポーランドのノーベル賞作家シェンキェヴィチ(一八四六~一九一六年)の歴史小説『クォ・ヴァディス』〉
この物語には、次のような印象的な場面がある。
先ほども少々申し上げたが、ネロのキリスト教徒迫害は凄惨を極めた。ネロによって「無実の罪」を着せられたキリスト教徒たちは、円形闘技場に送り込まれ、次々に獰猛なライオンや闘牛の牛の餌食になり、殉教していった。闘技場を埋め尽くした何千人もの大衆。
皆、キリスト教徒がむごたらしく殺される流血の“見せ物”を、今か今かと待ち望んでいた。もちろん、その中には、独裁者ネロの姿があった。彼は、キリスト教徒たちを悪者にすることで、大衆の怒りや不満をそらそうとした。自分(ネロ)は悪くない、彼ら(キリスト教徒)こそが邪悪なのだと。独裁者の“自己保身”と“大衆操作”の常套手段である。
ある日、
いつものように一人の男が、闘技場に入れられた。勇猛な大男であった。
彼は、キリスト教徒として殉教を覚悟し、ひざまずいて一心に祈っていた。やがて、ラッパの合図とともに、門が開き、一頭の怪物のような牛が現れたた。野蛮な“処刑劇”の始まりである。観衆は皆、この大男もあっけなく殺されるだろうと思い込んでいた。
しかし、現れた猛牛の姿を見て、突如、勇者の心は炎と燃えた。
巨大なな牛の角に、息も絶えだえの一人の乙女が縛りつけられていたからである。その乙女は、彼の種族の王女であった。大切な、敬愛する王女が、さらしものにされ、なぶり殺しにされようとしている ― 。
勇者の怒りは一気に爆発した。
“王女に何ということをするのか!”。彼は、それだけは許すことができなかった。黙って見ていることはできなかった。
電光石火、彼は、一直線に野獣に突進していった。そして、あっという間に、荒れ狂う牛に飛びかかり、がっちりと角をつかんだ。かってない光景であった。
“血の見せ物”に慣れ切った観衆は、驚嘆のあまり、息をのみ、いっせいに立ち上がった。牛に押され、必死で耐える男の足は、じりじりと砂の中に沈んでいく。背中は弓のようにのけぞった。真っ赤に紅潮した体。滝のように流れ出る汗。隆々と盛り上がる筋肉 ― 。
やがて、男は、渾身の力を込めて、野獣の頭をねじり始めた。苦しそうにうめく牛の口から、泡だらけの舌が出てきた。そして、静まりかえった闘技場に、骨が砕ける音が響き、牛はドサリと倒れた。その瞬間、異様な熱気が場内を圧した。狂わんばかりの歓声と拍手がはじけた。圧巻の勝利劇である。
命をかけて王女を守り抜いた勇者の戦いに、大衆の心が大きく動いた。
そして、動揺し、青ざめ、立ち尽くす皇帝ネロ。大衆は、眼前のドラマに感涙しながら、また、皇帝に怒りを覚えながら、口々に叫び始めた。
“彼らを許してやれ!”
“なぜ、二人に恩恵を施さないのか!”
“悪いのは、お前だ!”という叫びである。
ネロに向けられた数千の憤激と怒号の嵐。
さしもの“暴君”も、この信じられない光景に、戦慄し、茫然とするのみであった。
もはや、孤立したネロには、
大衆の要求通り、王女と勇者を許すしがなかった。彼の哀れな末路を予兆するかのような事件であった。
愛するものを守るため、揮身の力を振りしぼって戦い、不可能を可能にしていく。そこに、民衆の共鳴の輪が広がる。この勇者の戦いのごとく ― 。
(hajime's profile・人物のページ)
池田先生のスピーチより
37年 - ネロ、ローマ皇帝(+ 68年)
208年(建安13年11月20日)
赤壁の戦いで孫権・劉備連合軍が曹操の船団を打ち破る。
1939年 - アトランタで映画『風と共に去りぬ』が初公開される。
1945年 - GHQが神道指令を発令、神社と国家が分離され国家神道が廃止される。
年賀郵便特別扱い開始
12月15日から12月25日までの間に年賀状を投函すると、
翌年の1月1日に配達される。
―フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』―
古代ローマ帝国の暴君ネロ(西暦三七~六八年)。
彼は後世、
「かつて母親が世に産み落としたなかでもっとも悪しき男」と、さげすまれた。十四年間の皇帝在位期間のなかで、ネロは、ローマの「伝統」と「権威」をふりかざしつつ、その実、数限りなく民衆を苦しめ、ローマの栄光を地に堕とした「張本人」である。
かつてローマを訪問した折〈一九六一年(昭和三十六年)十月〉、
「黄金宮殿」と呼ばれたネロの城の廃嘘を訪れたことがある。彼は、母を殺し、師を殺したのをはじめ、気に入らぬ人間を、いとも簡単に死に追いやった。また、ローマの大半を焼き尽くし、民衆を苦しみのどん底に突き落とした大火事も、自分の好みに合う新都を築こうとしたネロのたくらみであったともされている。
しかも彼は、その大火の責任を、すべてキリスト教徒になすりつけた。そして見せしめに、彼らをなぶり殺しにした。闘技場にキリスト教徒を集め、猛獣にかみ殺させ、これをながめて楽しんだという。幾多の歴史書が伝えるネロの狂気 ― 精神分析の対象ともなる“病める姿”であった。
ネロの異常さの特徴は、「皇帝妄想」にあったといわれる。
“我は皇帝なり。我に従え。我にひざまずけ” ― いわば「皇帝病」である。彼は「皇帝の後継ぎ」というだけで、最高の権力と、莫大な財産を手にすることができた。そして、いつしか「皇帝の座」を、「自分自身の実力によるもの」と錯覚していった。
そこに狂いの一因があった。本来、指導者は人々を救い、人々を幸福に導くのが責任である。それと、まったく反対に、“自分は偉いのだから何をしても許される”と転倒の考えをもったとしたら ― そこから「権力の魔性」のとりこになっていく。今もその姿が眼前にある。
ネロが生まれたのは、西暦三七年。
千九百余年前である。父親も札つきの悪党であった。感情のおもむくままに、人さえ殺した。反逆、詐欺、乱行など、ありとあらゆる悪行を犯し、たびたび告発されている。自分の淫蕩な“血”を自覚する父親は、ネロの誕生を祝う人々に、こう言ったという。
「私と妻からは、世の中の厄介ものしか生まれはしない」と。ネロは、いわば“望まれない子”であったといえよう。ちなみに仏典には、父親が誕生を望まず、かえって殺そうとしたゆえに未生怨(生まれる以前に恨みを抱いている)と呼ばれた阿闍世王の話が説かれている。
一方、ネロの母親は、我が子を溺愛し、息子を皇帝にするためであれば、あらゆることをした。権力の“座”に就くことを早くから望まれ、吹き込まれ、甘やかされて育った子供。母親がこうでは、心が、まともに育つはずもなかった。母はネロの父親の死後、当時の皇帝と再婚し、やがて皇帝を毒殺。そのため、ネロは十七歳で即位する。しかし、そのわずか五年後、ネロは、その母親をも暗殺するに至るのである。
ネロの生きた世界
― それは、人間らしい愛情からかけ離れた、暗黒の世界であった。彼は快楽にふけり、異常な邪淫にひたり続けた。自らの欲望のままに、ひたすら悪事を重ねていった。ネロはまた、自ら歌手として、幾度となく舞台に立つ。芸術家気どりの暴君の自己満足のために、多くの民衆が強制的に集められた。
そしてネロが歌っている間は、決して退場を許されなかった。そのため、なかには、その場で出産させられる女性や、死者まで出たという。また、観客にまじった監視兵たちが絶えず目を光らせており、皇帝の舞台に拍手しない者は、極刑に処せられた。
自分さえ楽しければ、それでよい。民衆の犠牲や苦しみには、まったく無頓着。それがネロであった。独裁者の狂った姿は、今も昔も変わらない。
ネロの周りには、追従者が、むらがった。
そこには、「おべっか」とウソ、策謀と足の引っ張りあいが、あふれていた。ネロは、彼らが耳打ちする「作られた情報」を、うのみにし、いいように利用されてしまう。
しかも、そうした「取り巻き」がいくら多くとも、ネロは本当に心安らぐことがなかった。キョロキョロと、あたりをうかがう小動物のように、常に何かを恐れていた。絶えずビクビクし、おびえていた。心は不安でいっぱいであった。この不安と臆病ゆえにネロは、極端で過激な反応をすることが多かった。いつも右に左に心が揺れていく。
少しでも自分の意にそわないと見るや、冷静に調べることもせず、次々と殺していった。ついには、自分の恩師をも殺した。かつての師であった、高名な哲学者セネカを、陰謀事件の一味として、自殺に追い込んだのである。
彼のこうした行動は、内面の“弱さ”の表れにすぎなかった。“強さ”に基づいた「断固とした決断と行動」ではなかった。簡単に人を“切る”権力者。彼を勇気ある人間と誤解しては絶対にならない。
臆病であるゆえに、現実から逃避しようとして、また自分の“力”を確かめずにおれなくなって、気に入らないものを“切り捨て”ているだけなのである。
さて、ネロ皇帝の時代の末期、帝国は大きく揺れ動いていた。
民衆の心はとっくに離れ、辺境に反乱も起こった。「ネロ体制」から、どんどん離脱していく。権力に酔いしれ、ぜいたく三昧の日々を送っていたネロの足元は、急速に崩れ始めていた。
それでもネロは、反乱軍との戦いなど意に介さず、ギリシャヘの旅に出る。音楽コンクールに出て、力だめしをしてみたいという、うぬぼれからの気ままな旅であった。
人々が、どれほど苦しもうと、経済的に逼迫しようと関係ない。自分がよければ、それでいい。あくまでも自分の欲望を満たすことが第一であった。「遊びたい」「楽しみたい」「豪遊したい」 ― 心の中にはそれしがなかった。
やがて反乱は、ようやく鎮圧された。ネロの時代が続くかに見えた。しかし、この時、ローマで一つの事件が起こる。
食糧不足で苦しんでいたローマの市民のもとに、穀物船到着の知らせが届く。人々は喜び、食糧の配給を今や遅しと待っていた。
だが、船から運び出されたものは何であったか。なんとそれは、ネロが、豪勢な宮殿の競技場に敷きつめるための「砂」であった。民衆の怒りは爆発する。“我々は、だまされていた。これがネロの正体だったのだ”と。
ネロを攻撃する落書きが、ローマのいたるところに現れる。「化けの皮」をはがされたネロは、残っていた、わずかばかりの民衆の支持をも失った。情勢は一変した。反乱軍は再び勢力を盛り返し、ローマの元老院(議会)も反乱軍と内通を始める。
ネロの最期
― それは、あまりにあっけなかった。形勢が不利になるや、腹心たちは次々とネロを見捨て、姿を消していった。ただ一人となったネロは、敵軍が迫るなか、自らのどを突いて生涯を終えるのである。彼の死後、その文箱からは、民衆の許しを求める演説の原稿が発見されたという。民衆に敵対した者は、最後には必ず、謝らざるを得なくなる。
ところで、
このネロの時代を描いた名作がある。
〈ポーランドのノーベル賞作家シェンキェヴィチ(一八四六~一九一六年)の歴史小説『クォ・ヴァディス』〉
この物語には、次のような印象的な場面がある。
先ほども少々申し上げたが、ネロのキリスト教徒迫害は凄惨を極めた。ネロによって「無実の罪」を着せられたキリスト教徒たちは、円形闘技場に送り込まれ、次々に獰猛なライオンや闘牛の牛の餌食になり、殉教していった。闘技場を埋め尽くした何千人もの大衆。
皆、キリスト教徒がむごたらしく殺される流血の“見せ物”を、今か今かと待ち望んでいた。もちろん、その中には、独裁者ネロの姿があった。彼は、キリスト教徒たちを悪者にすることで、大衆の怒りや不満をそらそうとした。自分(ネロ)は悪くない、彼ら(キリスト教徒)こそが邪悪なのだと。独裁者の“自己保身”と“大衆操作”の常套手段である。
ある日、
いつものように一人の男が、闘技場に入れられた。勇猛な大男であった。
彼は、キリスト教徒として殉教を覚悟し、ひざまずいて一心に祈っていた。やがて、ラッパの合図とともに、門が開き、一頭の怪物のような牛が現れたた。野蛮な“処刑劇”の始まりである。観衆は皆、この大男もあっけなく殺されるだろうと思い込んでいた。
しかし、現れた猛牛の姿を見て、突如、勇者の心は炎と燃えた。
巨大なな牛の角に、息も絶えだえの一人の乙女が縛りつけられていたからである。その乙女は、彼の種族の王女であった。大切な、敬愛する王女が、さらしものにされ、なぶり殺しにされようとしている ― 。
勇者の怒りは一気に爆発した。
“王女に何ということをするのか!”。彼は、それだけは許すことができなかった。黙って見ていることはできなかった。
電光石火、彼は、一直線に野獣に突進していった。そして、あっという間に、荒れ狂う牛に飛びかかり、がっちりと角をつかんだ。かってない光景であった。
“血の見せ物”に慣れ切った観衆は、驚嘆のあまり、息をのみ、いっせいに立ち上がった。牛に押され、必死で耐える男の足は、じりじりと砂の中に沈んでいく。背中は弓のようにのけぞった。真っ赤に紅潮した体。滝のように流れ出る汗。隆々と盛り上がる筋肉 ― 。
やがて、男は、渾身の力を込めて、野獣の頭をねじり始めた。苦しそうにうめく牛の口から、泡だらけの舌が出てきた。そして、静まりかえった闘技場に、骨が砕ける音が響き、牛はドサリと倒れた。その瞬間、異様な熱気が場内を圧した。狂わんばかりの歓声と拍手がはじけた。圧巻の勝利劇である。
命をかけて王女を守り抜いた勇者の戦いに、大衆の心が大きく動いた。
そして、動揺し、青ざめ、立ち尽くす皇帝ネロ。大衆は、眼前のドラマに感涙しながら、また、皇帝に怒りを覚えながら、口々に叫び始めた。
“彼らを許してやれ!”
“なぜ、二人に恩恵を施さないのか!”
“悪いのは、お前だ!”という叫びである。
ネロに向けられた数千の憤激と怒号の嵐。
さしもの“暴君”も、この信じられない光景に、戦慄し、茫然とするのみであった。
もはや、孤立したネロには、
大衆の要求通り、王女と勇者を許すしがなかった。彼の哀れな末路を予兆するかのような事件であった。
愛するものを守るため、揮身の力を振りしぼって戦い、不可能を可能にしていく。そこに、民衆の共鳴の輪が広がる。この勇者の戦いのごとく ― 。
(hajime's profile・人物のページ)
池田先生のスピーチより