新しき世紀を創るものは 青年の熱と力である

2010年04月02日 01時09分57秒 | 日記





金曜日

名字の言
4月2日
 春の日差しが心地よい。公園でベンチに腰掛けていると、外気温が高くなくても、太陽熱でポカポカと体が温まってくる

▼ある物体から放たれた熱エネルギーは、他の物体に吸収されて、温度の上昇に使われる。放射するエネルギーが大きいほど、受ける側も温度が高くなる

▼これは人の営みにも、あてはまるのではないだろうか。情熱に燃える人の感化を受け、人や社会、時代が動いていく。
幕末の志士・坂本竜馬も、その一人だ。江戸時代の「藩」という枠を脱して、「世界のなかの日本」を志向した。固定観念にとらわれず、大局を見すえ、対話に各地を駆け回った。
その情熱にひかれた志士たちは、対立を乗り越え、「維新」という大目的を成し遂げた

▼詩人ホイットマンは語る。「情熱――それなくして、人間と呼べようか?」と。
池田名誉会長は半世紀にわたり、ほとばしる大情熱で友を鼓舞し、その胸中に希望と勇気の炎を灯し続けてきた。
その“広布の情熱の連鎖”は今、世界192カ国・地域へと広がる

▼私たちの活動は、“すべての人が輝く社会を断じて築く”との大情熱を燃やす民衆運動である。きょうもまた、太陽の仏法で、自身の生命を燃え上がらせ、友の心にぬくもりを送っていきたい。(知)


小説「新・人間革命」
4月2日
 学生部に「飛翔会」が結成されたのは、前年の一九七五年(昭和五十年)の八月二十六日、東京・江戸川区公会堂で行われた、第一回「二部学生大会」の席上であった。
 二部学生の学内活動は、その八年ほど前から活発化していた。そして、大学ごとに責任者を設け、指導会や大学別講義なども開催してきた。

 この七〇年代半ば、キャンパスでは、先鋭化していった一部のセクトが、内ゲバを繰り返していたものの、既に大学紛争は沈静化していた。学生たちの多くは、自分を賭けて悔いない理想も、運動も、また、連帯も見いだすことができず、しらけと孤立化が進んでいた時代であった。

 そして、社会とのかかわりを避け、就職もできる限り先延ばししようとする、いわゆる「モラトリアム化」が青年層に広がっていた。若者たちを、「無気力」「無関心」「無責任」と評する意見もあった。

 「新しき世紀を創るものは、青年の熱と力である」とは、戸田城聖の魂の叫びである。
 青年が建設への情熱を失った社会の未来は、暗黒である。山本伸一は、そうした若者の風潮を最も憂えていた。その伸一と共に、人間革命の哲学を掲げ、新しき時代建設の思想潮流を創ろうとしていたのが、学生部員たちであった。彼らは、熱く語り合った。

 「学生運動の波が全国に広がりながら、結局、破綻していったのは、根本的には、変革の主体である人間自身の変革が欠落していたからだ。だから、暴力という迷路に陥り、民衆から遊離してしまったのだ」

 「そうだ。今こそ、民衆一人ひとりの人間革命を機軸にした、新しい変革の波を起こさなければならない。生活に深く根差しつつ、目覚めた民衆が互いに触発し合い、信頼と共感の輪を広げ、平和的に漸進的に幸福社会を実現するんだ。これが広宣流布の大運動だ」

 新しき民衆運動の先駆けたらんとする、その学生部のなかで、大きな力を発揮していたのが二部学生であったのである。

立正安国論
抑近年の災難を以て往代を難ずるの由強ちに之を恐る、
聊か先例を引いて汝が迷を悟す可し、
止観第二に史記を引いて云く
「周の末に被髪・袒身・礼度に依らざる者有り」
弘決の第二に此の文を釈するに左伝を引いて曰く
「初め平王の東に遷りしに
伊川に髪を被にする者の野に於て祭るを見る、
識者の曰く、百年に及ばじ其の礼先ず亡びぬ」と、
爰に知んぬ徴前に顕れ災い後に致ることを、
又阮藉が逸才なりしに蓬頭散帯す
後に公卿の子孫皆之に教いて
奴苟相辱しむる者を方に自然に達すと云い
撙節兢持する者を呼んで田舎と為す
是を司馬氏の滅する相と為す已上。
25p

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