キュリー夫人を語る9 「現実の厳しさを 生きた人間学に」

2010年06月21日 22時07分52秒 | 日記


月曜日


キュリー夫人を語る9
◇ 創価女子短期大学 特別文化講座 キュリー夫人を語る 2008-2-8

 現実の厳しさを生きた人間学に

 一、キュリー夫人は、書いています。
 「ひとりひとりの個人の運命を改善することなくしては、よりよき社会の建設は不可能です。
 ですから、各人が自分の運命をきりひらいていこうと努力しながら、しかも同時に全人類にたいして責任をわけもたねばならないのです。
 なぜなら、自分がいちばん役に立ってあげられるひとびとをたすけることは、わたくしたちひとりひとりの義務だからです」(木村彰一訳「キュリー自伝」、『人生の名著8』所収、大和書房)

 一人の人間の運命を変革せよ!

 人類に対する責任を自覚せよ!

 苦しんでいる人々に手を差し伸べよ!

 これが、マリー・キュリーの信念でした。それは、創価の「人間革命」の理念とも響き合っております。
 17歳のマーニャは、自ら"先生"となり、工場で働く女性たちに勉強を教えました。彼女たちが本を読めるよう、小さな図書室もつくってあげたといいます。
 日中は家庭教師として市内を駆け回る。工場で女性たちに授業をする。そして、移動大学の秘密講義を受けるという毎日でした。

 マーニャにとって、最大の希望は、フランスのパリ大学へ行って勉強することでした。また、姉のブローニャも、同じ望みを持っていました。
 パリ大学では、女性に対して門戸が開かれていたのです。
 パリに行って勉強して力をつけた後、祖国ポーランドに舞い戻り、人々のために、人々とともに働きたい。これが、彼女たちの熱い願いでした。
 花のパリヘ──しかし父の給料と、姉妹のわずかな家庭教師の収入だけでは、いつまでたっても留学できる目処(めど)が立ちませんでした。
 
そこでマーニャは、姉のブローニャに、一つの提案をしました。
 ──まず、姉がパリへ行く。自分はポーランドに残り、住み込みの家庭教師をして仕送りをする。
 そして姉が学業を終えて帰ってきたら、今度は自分がパリに行く──
 二人の姉妹は、父親にも相談し、この約束を実行に移しました。
 当時、女性の家庭教師は、下に見られることもあった。マーニャは、傲慢な、大嫌いな人のもとで働かなければならないときもあったようです。
 彼女は若くして、現実社会の厳しさを嫌というほど味わいながら、その一つ一つを、生きた人間学の糧に変えていったのです。

 マーニャは、友人への手紙に書いています。
 「人間というものがどういうものか、少しわかるようになったのは収穫でした。小説の人物みたいな人が実際にもいるとわかったし、お金で堕落した人たちとつき合ってはいけないということも、学びました」(エーヴ・キュリー著、河野万里子訳『キュリー夫人伝』白水社)
 つらいとき、苦しいとき、彼女は友人と語り合ったり、手紙のやりとりをしたりしては、励まし合っています。
良き友情は、青春の最高の力であり、宝です。


撰時抄271p

法華経を仏のとかせ給いしやうに説かん人は
末法にはまれなるべし、
天台大師・伝教大師こそ仏説に相似して
とかせ給いたる人にてをはすれとなり、
天竺の論師はいまだ法華経へゆきつき給はず
漢土の天台已前の人師は或はすぎ或はたらず、
慈恩・法蔵・善無畏等は
東を西といゐ天を地と申せる人人なり



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