今年、父が米寿。
喜寿の時には、山歩きが好きだった父を弟一家とうち一家と母とで、高尾山へ連れて行った。
まだ元気な頃の父は、毎週末、庭のように登っていた山なので、きっと懐かしいだろうと。
車椅子をケーブルカーに乗せてもらって上がり、そこからは頂上までのガタガタな山道を家族交代で押して上った。
今回は、
父に、かつて務めていた会社を見せてあげたい、と言う母。
ただ、弟の所の娘は中学受験生で塾だというし、わが娘も仕事だから・・・
弟と私と母だけだ。
勤労感謝の祭日だが、一応会社の庶務には連絡を入れておいたと母。
父は、60歳の定年までは通えなかったので、58歳くらいまで居たのかな?
22年振りくらいになるのだ。
会社の周辺も様変わりしていて、まごついたが、なんとか到着!
門、守衛室、入ってすぐ横のちっちゃな鉄骨屋根の駐車スペースなどは昔のまんま!
その奥のバラ園も、そのままに、昔より少し大きくなってた!
正面の社屋が・・・・
昔は木造だったのが、どこのハイテク企業?って感じな、全面ガラス張りの4階建てに変わってる~!
母が「この玄関の前でおとーさんが逆立ちしてる写真があったよね!」と。。。
柔道2段、江ノ島をぐるっと泳いで渡れるほどの元気者だった父です。
まだチラホラと咲き残っているバラ園を巡り、
入って右奥の倉庫・・父の病気が進んだ最後、楽な部署にと配置してもらった場所へ行ってみたり、
ガラスを溶かす炉が並んでいる工場や、
私達が子供の頃に、レンズやガラスくずを拾いに来て遊んだ、ゴミ置き場や、
一通り回って見た。
会社は休みだが、工場の人など、すれ違う人達が、
この怪訝な家族に対して、何か訳有りと思うのか?みなさん会釈して通る。
ちょうど通りかかった3人に母が、「昔に勤めていた者で・・」と話すと、
中の年配の女性が、「昨日のお電話を受けた者です!」と。
「もう20年以上になりますけどT○と言います」と母が言うと、一緒に居た男性が、
「え?じゃあ、私、倉庫の時にお世話になりました、Y口です!」
それを聞いた父、急にはっきりと上司の目つきになった~!
そのY口さん、「うちの妻も、T○さんが何とかの課長さんだった時に部下でしたー」と!
そして母に「確か最後の頃はずっと、送り迎えしてらっしゃいましたね?」と。
母、「そうそう、そうさせてもらってました。主人は勤めを辞めてかなり経った時でも、時々『会社へ行く!』なんて言い出して困ったんですよ~」などと。
もうこの辺で母も私も涙。。。
父が段々歩くのが不自由になった頃に、
母は車の免許を取らなくちゃ!と教習場へ通い始め、
まだ家に車も無く、誰も車の運転をしていなかった時だったので、母はものすごい苦労をして、
必死の形相で、連日5000円札を握り締めて、教習に出ていっていたのを覚えている。
その後、私は結婚していたので知らなかったが、
父の具合の悪くなってきた最後の方は、半ドンでいいから、と言ってもらって勤めていたそうで、
母が朝送って行き、すぐまた2時間くらいして向かえに行っていたのだと。。。
その3人が、「ぜひ新い社屋にどうぞ!」などと。
お休みの所なのに申し訳ない、結構だと断っていたが、一人が走って行き、裏からカギを開けてくれた。
そのガラス張りの美しい建物の中は、展示場も兼ねている。
この会社、最初は双眼鏡などを作っていた軍需産業から始まり、戦争中は爆撃も受けたそうだが、
その後カメラ用のレンズ、ファイバースコープのガラス繊維や、スペースシャトルや原子炉用の窓ガラスなどと、工学ガラスメーカーとして伸びて来た。
父は、高度成長期まっただ中の企業戦士だったのに、
私達姉弟は、父に海にも山にも連れて行ってもらったし、
夏の草取り、暮れの大掃除と、父に率先されてお手伝いもさせられたものだ。
今のこの会社の社長は、父がまだ元気だった頃に、営業の駆け出しだった人なのだと!
世界に誇るガラスで真球を作る技術や、DVDの表面にするガラスコーティングとか(?)今や、上場も果たし、
当時しかたなく買った株が、今やお宝に変わっているのだから!素晴らしい事だ~~
これが大会社だったら、20年前に辞めた社員が尋ねて来た時に、どんな扱いだろうか?
今回の、工場の人や社員の優しい対応に、心温まった我々でした。
そして帰りがけ、当時住んでいた辺りも、ぐる~っと一巡りしてから帰って来ました^^v
父が退職の時の記念行事には、症状の進んだ父が恥ずかしいかと、連れて行かなかったのが気になっていた、という母の、
これで、少しは気が晴れたでしょうか~
その後、弟は、高校時代の仲間との飲み会という。
私は夕飯の支度もして出て来ていたので、
友達のバンド、Bさんのパーティへ踊りに行って見ようかと。。。
スローだめ、サンバだめ、なんか数え方の合わない?人とのジルバもダメで・・・
ワルツもタンゴも、相手によってはボロボロ。。
その上、ルンバとチャチャチャは、音に合ってる人とは一度も踊れず↓・・・
3時間のパーティで、ほぼ壁のシミ。。。
も~~~~~~~~!凍えました~~~~
終わる頃には、人数も減って、知り合い同士が仲間内で楽しむ雰囲気になり、
誘ってもらえる感じでもなくなり、とうとうジャケットを羽織っていたけれどー、
もうもう冷え切って・・帰ったら、発熱しそうなほどでした~~~
踊れない人は自前の保護者が必要か?↓。。
ヘ、ヘ、ヘーックショイ!!!
喜寿の時には、山歩きが好きだった父を弟一家とうち一家と母とで、高尾山へ連れて行った。
まだ元気な頃の父は、毎週末、庭のように登っていた山なので、きっと懐かしいだろうと。
車椅子をケーブルカーに乗せてもらって上がり、そこからは頂上までのガタガタな山道を家族交代で押して上った。
今回は、
父に、かつて務めていた会社を見せてあげたい、と言う母。
ただ、弟の所の娘は中学受験生で塾だというし、わが娘も仕事だから・・・
弟と私と母だけだ。
勤労感謝の祭日だが、一応会社の庶務には連絡を入れておいたと母。
父は、60歳の定年までは通えなかったので、58歳くらいまで居たのかな?
22年振りくらいになるのだ。
会社の周辺も様変わりしていて、まごついたが、なんとか到着!
門、守衛室、入ってすぐ横のちっちゃな鉄骨屋根の駐車スペースなどは昔のまんま!
その奥のバラ園も、そのままに、昔より少し大きくなってた!
正面の社屋が・・・・
昔は木造だったのが、どこのハイテク企業?って感じな、全面ガラス張りの4階建てに変わってる~!
母が「この玄関の前でおとーさんが逆立ちしてる写真があったよね!」と。。。
柔道2段、江ノ島をぐるっと泳いで渡れるほどの元気者だった父です。
まだチラホラと咲き残っているバラ園を巡り、
入って右奥の倉庫・・父の病気が進んだ最後、楽な部署にと配置してもらった場所へ行ってみたり、
ガラスを溶かす炉が並んでいる工場や、
私達が子供の頃に、レンズやガラスくずを拾いに来て遊んだ、ゴミ置き場や、
一通り回って見た。
会社は休みだが、工場の人など、すれ違う人達が、
この怪訝な家族に対して、何か訳有りと思うのか?みなさん会釈して通る。
ちょうど通りかかった3人に母が、「昔に勤めていた者で・・」と話すと、
中の年配の女性が、「昨日のお電話を受けた者です!」と。
「もう20年以上になりますけどT○と言います」と母が言うと、一緒に居た男性が、
「え?じゃあ、私、倉庫の時にお世話になりました、Y口です!」
それを聞いた父、急にはっきりと上司の目つきになった~!
そのY口さん、「うちの妻も、T○さんが何とかの課長さんだった時に部下でしたー」と!
そして母に「確か最後の頃はずっと、送り迎えしてらっしゃいましたね?」と。
母、「そうそう、そうさせてもらってました。主人は勤めを辞めてかなり経った時でも、時々『会社へ行く!』なんて言い出して困ったんですよ~」などと。
もうこの辺で母も私も涙。。。
父が段々歩くのが不自由になった頃に、
母は車の免許を取らなくちゃ!と教習場へ通い始め、
まだ家に車も無く、誰も車の運転をしていなかった時だったので、母はものすごい苦労をして、
必死の形相で、連日5000円札を握り締めて、教習に出ていっていたのを覚えている。
その後、私は結婚していたので知らなかったが、
父の具合の悪くなってきた最後の方は、半ドンでいいから、と言ってもらって勤めていたそうで、
母が朝送って行き、すぐまた2時間くらいして向かえに行っていたのだと。。。
その3人が、「ぜひ新い社屋にどうぞ!」などと。
お休みの所なのに申し訳ない、結構だと断っていたが、一人が走って行き、裏からカギを開けてくれた。
そのガラス張りの美しい建物の中は、展示場も兼ねている。
この会社、最初は双眼鏡などを作っていた軍需産業から始まり、戦争中は爆撃も受けたそうだが、
その後カメラ用のレンズ、ファイバースコープのガラス繊維や、スペースシャトルや原子炉用の窓ガラスなどと、工学ガラスメーカーとして伸びて来た。
父は、高度成長期まっただ中の企業戦士だったのに、
私達姉弟は、父に海にも山にも連れて行ってもらったし、
夏の草取り、暮れの大掃除と、父に率先されてお手伝いもさせられたものだ。
今のこの会社の社長は、父がまだ元気だった頃に、営業の駆け出しだった人なのだと!
世界に誇るガラスで真球を作る技術や、DVDの表面にするガラスコーティングとか(?)今や、上場も果たし、
当時しかたなく買った株が、今やお宝に変わっているのだから!素晴らしい事だ~~
これが大会社だったら、20年前に辞めた社員が尋ねて来た時に、どんな扱いだろうか?
今回の、工場の人や社員の優しい対応に、心温まった我々でした。
そして帰りがけ、当時住んでいた辺りも、ぐる~っと一巡りしてから帰って来ました^^v
父が退職の時の記念行事には、症状の進んだ父が恥ずかしいかと、連れて行かなかったのが気になっていた、という母の、
これで、少しは気が晴れたでしょうか~
その後、弟は、高校時代の仲間との飲み会という。
私は夕飯の支度もして出て来ていたので、
友達のバンド、Bさんのパーティへ踊りに行って見ようかと。。。
スローだめ、サンバだめ、なんか数え方の合わない?人とのジルバもダメで・・・
ワルツもタンゴも、相手によってはボロボロ。。
その上、ルンバとチャチャチャは、音に合ってる人とは一度も踊れず↓・・・
3時間のパーティで、ほぼ壁のシミ。。。
も~~~~~~~~!凍えました~~~~
終わる頃には、人数も減って、知り合い同士が仲間内で楽しむ雰囲気になり、
誘ってもらえる感じでもなくなり、とうとうジャケットを羽織っていたけれどー、
もうもう冷え切って・・帰ったら、発熱しそうなほどでした~~~
踊れない人は自前の保護者が必要か?↓。。
ヘ、ヘ、ヘーックショイ!!!