大衆が黒と言ったものは白いもんでも黒になる。これが日本の大衆迎合教育の賜物だろう。
初代スト2にしても、今のスト5でもメーカーは一番人気が出そうだったり、面白そうと予測されたキャラのバランスをまともにした。使われそうなキャラのバランスはまともにし、使われなさそうなキャラは最悪に。
前キャンが出る以前のカプエスは本当にランからの判定や硬直差で、ガークラゲージを減らす。その競り合いになれば、ゲーセンは必然的に強キャラで溢れた。
前キャンのないカプエスでも、他の格闘ゲームでもシステムを調整した人間が1番勝てそうなルールやキャラバランスを作ったというのはあながち間違いじゃないだろう。
皆が考えている時に一人だけ答えを知っているんだから。カプエスは稼働して月日をあまりまたがない形で、全国大会をした。この時の答えがリュウ、サガット、ブランカだった。
これが後に伝わるサガブラ祭りの始まりとなる。
大会での結果もスポンサーであるメーカーからのギャラも、その辺で段取りが決まっていたのだろう。
カプコンvs.SNKはカプコン社のゲームであり、他社のキャラが大会で大勢出そうなキャラは国益ならぬ社益に違反する。
しかし、ユーザーが多そうな人気キャラが弱かったら流石にSNKプレイヤーからクレームが出てしまう。そこでカプコンは京や庵と言った大衆迎合の法則に則ったキャラを強くし、それ意外を弱く設定。
強いカプコンのキャラ、弱いSNKのキャラ。これが経営サイドが描きたかった、棚からぼた餅の構図であろう。
考えると前キャンの無いカプエスは、ただのビジネスだったと気づける人は気づいていたはずだ。
要はKOFユーザーをカプゲーに取り込みたい営業的な意味があったのではなかろうか。カプコンとは会社だ、ユーザーとは違う。
分かっている人には前キャン無しで俺に勝てたら大事なものをあげるとまで言っている。
それだけの偏りを作ったのは、出来試合こそメーカーが作り上げようとしたかった。そして自社キャラを強くし、大衆迎合の要素を取り入れたのが格闘ゲームなら前キャンがないカプエスもそれ以外の格闘ゲームも答えは決まっていたのだ。
問題は前キャンありなら、本当にAアレが答えなのかだ。そこから先は不毛だ。恐らくウメハラ、ヌキでさえ答えを知らない世界がまだこのゲームには眠っているのかもしれない。
今、考えてみると私が最初に燃えたゲームはヴァンパイアセイヴァーだったから。そこでは横攻めを排除した世界が正解だった。
セイヴァーは不人気となり、不正解とした船水Pだが、海外でのモリガンの人気ぶりを考えると(私はリリス派でしたが)。当時は、格闘ゲームの理論的、複雑的で不平等さを迎合的と感じられなかった開発側、営業側の感性の不足が原因だろう。
セイヴァーは海外では、再燃し、人気が出てきた。しかし、そのベースを作ったのは後発の作品であるカプエスが奇しくも引き金になったのは皮肉である。
私が感じるこういう未来の一手が、過去の愚手を神の一打に変える。こういうビジネスモデルは新しい。
迎合的に染まる日本社会の本質とは、貧しい子供や父なし子、豊かで愛があるかに偽り実際は愛の無い家庭がある。
そんなバラバラの子供に、同じ制服を着せて、同じように机を並べて整列させられたあの歪んだ教育である。
貧しい子供と豊かな子供が偽りの恋愛関係を結べば悲劇が生まれる。豊かな子供は心は豊かではない、その劣等感を埋めるために貧しい子供と恋愛関係を結ぶ。
貧しい子供は、親が貧しい事を知っている。だから自分がお金持ちと結婚すれば親に自分が認めてもらえると思っている。そこには貧しい子供が抱えた心の葛藤と愛への渇望が存在している。
昔、中学時代にそのようなカップルがいた。男はいいとこのボンボンで野球だが何だかしていたんだろうが、貧しい女の子の家だったり、女の子が必要以上に金への執着を見せて勝手に評価したのだろう。
結果、中学時代のその貧しい女の子は自殺した。その金への異常な執着が、実は両親からの愛情を要求している反動形成であったと誰が思っただろうか。
その女の子を自殺させたボンボンの男は今では立派な家庭を持ち、善人ツラしながら子育てに励んでいる。
日本の大衆迎合教育とは、多様性を排除し本音を抑圧することを習慣化させた。だからこそ、日本の教育、文化はそねような状況、環境になりやすい。
まさに銃が人を殺すのではない、人が人を殺すとはこの事ではないだろうか。
この大衆迎合を支配者は、協調性と表現した。
協調性のルールとは、皆の考えは個の考えより優先される。個の考えは踏みにじられる。その結果、個の人生は皆が理想とする人生のレールから踏み外せない事になる。
これに恋愛だの、両親との人間関係が混じると能動性が要求される。必要なときに自分を出さねばならない。
自分が出せない人生はゆがまされる。
迎合は、この能動性を殺す考え方だ。とすると、この国にいる多くの人は意志の無い結婚や、意志の無い仕事を人々は周囲からの目を気にしながら毎日を送っている。
自分の無い人生とは気づかず、淡々と流れる時間を景色がごとく見ているだけ。
この大衆迎合をカプエスの歴史に当てはめてみると10年前の闘劇で前キャンアンドAグルのプレイでウメハラを破り優勝したときどは、当時、激しいバッシングにあった。
海外ならこんな反応は生じない日本だから起きた。この事実にどれだけのプレイヤーが気づいただろうか。
あらかじめ闘劇では事前ルールで前キャンの使用を認めることは主催者が認めていたし、勝ち方にも問題ない。
寒いプレイと評され、ときどは干渉された。明らかに前キャン慣れしていないウメハラの対策不足が原因であった。
正義の仮面をつけた連中は、悪の前キャン使いと評してサガットを使いブロッキングやジャストディフェンスを防御システムに使い、ガークラして露骨に強引な攻めに持っていくスタイルが流行り出す。
それも寒いプレイだとは彼らは気づかない。結局、痛いダメージ、リーチの長い攻撃こそが彼らの正義なのだろう。大衆迎合的とは、あたかもそういうルールこそが正解であるかのように人にその価値観を伝播し、集団を使って自分の意見を通そうとする危険さである。
それが今日の日本に生じた様々な社会問題と密接にリンクしている。心理的に、この国には集団イジメを行いやすいような教育が組み込まれていると誰が信じるだろうか。
話を今でているスト鉄なんかも、カプコンは人気のある鉄拳ユーザーをストリートファイターに取り込みたいのである。だがどんなにスト鉄を言っても、鉄拳ユーザーをストリートファイターの世界に引き込むのは難しい事だ。
例えば自分が好きなキャラが弱いゲームなど、そうそうのめり込む事は無い。
だが、このような戦略をしたとしてもユーザーが最終的に動くのは好みであり感情なのだ。それが経営陣には分からない。
感情は大会だったり、勝負の世界では別話。
しかし、格闘ゲームに最初に触れてみようと思うのは感情なのだ。
カプエスという格闘ゲームは、社内で売れない、時代遅れというレッテルを貼られ、価値観という偏見に晒された歴史でもある。
カプコンという社内。
そういう売上や利益という見えない規律が占めた空間において人間という生き物が二つの群れを成した。
時代遅れと画期的という二つに分かれ、戦った。
時代遅れの最後の作品でもある。
時代遅れの群れは、画期的という群れによって社内を追われ、解散に追い込まれた。
カプエスは、そんなサクセスストーリーが詰まった作品である。
そのような偏見に苦しむと、社員の心理に公憤という感情が生じる。
約15年、前キャンを調べに調べ。
実際にプログラムも組んだりした。
過去に前転があった作品。
ストゼロや初代カプエス、ジョジョ。
そんなにたくさんあった作品の中で、前キャンができるのはカプエス2ただ一つである。
これを偶然と見るか、必然と見るか。
統計学の世界で、0よりも低い確率の事象は必然というらしい。個人的な解釈だが、私もそう思う。
初代スト2にしても、今のスト5でもメーカーは一番人気が出そうだったり、面白そうと予測されたキャラのバランスをまともにした。使われそうなキャラのバランスはまともにし、使われなさそうなキャラは最悪に。
前キャンが出る以前のカプエスは本当にランからの判定や硬直差で、ガークラゲージを減らす。その競り合いになれば、ゲーセンは必然的に強キャラで溢れた。
前キャンのないカプエスでも、他の格闘ゲームでもシステムを調整した人間が1番勝てそうなルールやキャラバランスを作ったというのはあながち間違いじゃないだろう。
皆が考えている時に一人だけ答えを知っているんだから。カプエスは稼働して月日をあまりまたがない形で、全国大会をした。この時の答えがリュウ、サガット、ブランカだった。
これが後に伝わるサガブラ祭りの始まりとなる。
大会での結果もスポンサーであるメーカーからのギャラも、その辺で段取りが決まっていたのだろう。
カプコンvs.SNKはカプコン社のゲームであり、他社のキャラが大会で大勢出そうなキャラは国益ならぬ社益に違反する。
しかし、ユーザーが多そうな人気キャラが弱かったら流石にSNKプレイヤーからクレームが出てしまう。そこでカプコンは京や庵と言った大衆迎合の法則に則ったキャラを強くし、それ意外を弱く設定。
強いカプコンのキャラ、弱いSNKのキャラ。これが経営サイドが描きたかった、棚からぼた餅の構図であろう。
考えると前キャンの無いカプエスは、ただのビジネスだったと気づける人は気づいていたはずだ。
要はKOFユーザーをカプゲーに取り込みたい営業的な意味があったのではなかろうか。カプコンとは会社だ、ユーザーとは違う。
分かっている人には前キャン無しで俺に勝てたら大事なものをあげるとまで言っている。
それだけの偏りを作ったのは、出来試合こそメーカーが作り上げようとしたかった。そして自社キャラを強くし、大衆迎合の要素を取り入れたのが格闘ゲームなら前キャンがないカプエスもそれ以外の格闘ゲームも答えは決まっていたのだ。
問題は前キャンありなら、本当にAアレが答えなのかだ。そこから先は不毛だ。恐らくウメハラ、ヌキでさえ答えを知らない世界がまだこのゲームには眠っているのかもしれない。
今、考えてみると私が最初に燃えたゲームはヴァンパイアセイヴァーだったから。そこでは横攻めを排除した世界が正解だった。
セイヴァーは不人気となり、不正解とした船水Pだが、海外でのモリガンの人気ぶりを考えると(私はリリス派でしたが)。当時は、格闘ゲームの理論的、複雑的で不平等さを迎合的と感じられなかった開発側、営業側の感性の不足が原因だろう。
セイヴァーは海外では、再燃し、人気が出てきた。しかし、そのベースを作ったのは後発の作品であるカプエスが奇しくも引き金になったのは皮肉である。
私が感じるこういう未来の一手が、過去の愚手を神の一打に変える。こういうビジネスモデルは新しい。
迎合的に染まる日本社会の本質とは、貧しい子供や父なし子、豊かで愛があるかに偽り実際は愛の無い家庭がある。
そんなバラバラの子供に、同じ制服を着せて、同じように机を並べて整列させられたあの歪んだ教育である。
貧しい子供と豊かな子供が偽りの恋愛関係を結べば悲劇が生まれる。豊かな子供は心は豊かではない、その劣等感を埋めるために貧しい子供と恋愛関係を結ぶ。
貧しい子供は、親が貧しい事を知っている。だから自分がお金持ちと結婚すれば親に自分が認めてもらえると思っている。そこには貧しい子供が抱えた心の葛藤と愛への渇望が存在している。
昔、中学時代にそのようなカップルがいた。男はいいとこのボンボンで野球だが何だかしていたんだろうが、貧しい女の子の家だったり、女の子が必要以上に金への執着を見せて勝手に評価したのだろう。
結果、中学時代のその貧しい女の子は自殺した。その金への異常な執着が、実は両親からの愛情を要求している反動形成であったと誰が思っただろうか。
その女の子を自殺させたボンボンの男は今では立派な家庭を持ち、善人ツラしながら子育てに励んでいる。
日本の大衆迎合教育とは、多様性を排除し本音を抑圧することを習慣化させた。だからこそ、日本の教育、文化はそねような状況、環境になりやすい。
まさに銃が人を殺すのではない、人が人を殺すとはこの事ではないだろうか。
この大衆迎合を支配者は、協調性と表現した。
協調性のルールとは、皆の考えは個の考えより優先される。個の考えは踏みにじられる。その結果、個の人生は皆が理想とする人生のレールから踏み外せない事になる。
これに恋愛だの、両親との人間関係が混じると能動性が要求される。必要なときに自分を出さねばならない。
自分が出せない人生はゆがまされる。
迎合は、この能動性を殺す考え方だ。とすると、この国にいる多くの人は意志の無い結婚や、意志の無い仕事を人々は周囲からの目を気にしながら毎日を送っている。
自分の無い人生とは気づかず、淡々と流れる時間を景色がごとく見ているだけ。
この大衆迎合をカプエスの歴史に当てはめてみると10年前の闘劇で前キャンアンドAグルのプレイでウメハラを破り優勝したときどは、当時、激しいバッシングにあった。
海外ならこんな反応は生じない日本だから起きた。この事実にどれだけのプレイヤーが気づいただろうか。
あらかじめ闘劇では事前ルールで前キャンの使用を認めることは主催者が認めていたし、勝ち方にも問題ない。
寒いプレイと評され、ときどは干渉された。明らかに前キャン慣れしていないウメハラの対策不足が原因であった。
正義の仮面をつけた連中は、悪の前キャン使いと評してサガットを使いブロッキングやジャストディフェンスを防御システムに使い、ガークラして露骨に強引な攻めに持っていくスタイルが流行り出す。
それも寒いプレイだとは彼らは気づかない。結局、痛いダメージ、リーチの長い攻撃こそが彼らの正義なのだろう。大衆迎合的とは、あたかもそういうルールこそが正解であるかのように人にその価値観を伝播し、集団を使って自分の意見を通そうとする危険さである。
それが今日の日本に生じた様々な社会問題と密接にリンクしている。心理的に、この国には集団イジメを行いやすいような教育が組み込まれていると誰が信じるだろうか。
話を今でているスト鉄なんかも、カプコンは人気のある鉄拳ユーザーをストリートファイターに取り込みたいのである。だがどんなにスト鉄を言っても、鉄拳ユーザーをストリートファイターの世界に引き込むのは難しい事だ。
例えば自分が好きなキャラが弱いゲームなど、そうそうのめり込む事は無い。
だが、このような戦略をしたとしてもユーザーが最終的に動くのは好みであり感情なのだ。それが経営陣には分からない。
感情は大会だったり、勝負の世界では別話。
しかし、格闘ゲームに最初に触れてみようと思うのは感情なのだ。
カプエスという格闘ゲームは、社内で売れない、時代遅れというレッテルを貼られ、価値観という偏見に晒された歴史でもある。
カプコンという社内。
そういう売上や利益という見えない規律が占めた空間において人間という生き物が二つの群れを成した。
時代遅れと画期的という二つに分かれ、戦った。
時代遅れの最後の作品でもある。
時代遅れの群れは、画期的という群れによって社内を追われ、解散に追い込まれた。
カプエスは、そんなサクセスストーリーが詰まった作品である。
そのような偏見に苦しむと、社員の心理に公憤という感情が生じる。
約15年、前キャンを調べに調べ。
実際にプログラムも組んだりした。
過去に前転があった作品。
ストゼロや初代カプエス、ジョジョ。
そんなにたくさんあった作品の中で、前キャンができるのはカプエス2ただ一つである。
これを偶然と見るか、必然と見るか。
統計学の世界で、0よりも低い確率の事象は必然というらしい。個人的な解釈だが、私もそう思う。